六章


 
 次の日。前回のループ時に訪れた宝石店に、高級品が運び込まれていた。

 サファイアの高級品といえば、光を当てた時に六条にその光を反射するスターサファイアと呼ばれる代物が代表的であるが、あれは単に不純物であるルチルという物質の影響でそうなっているだけであり、魔術的な効果は特筆するほどのものではない。むしろ彼らが求めるのは、魔力的な方面にも非常に高い効果を示す、徹底的に純度の高い代物だった。

「すいません。これ、ください」
「こちらで。プレゼント用ですか?」
「ええ、まあ……」

 お値段が六桁に届くという微妙におかしいんじゃないかと思われる超高級品のピンクサファイアに目をつけて、京はそれを購入する。金は市長の財布から出るので痛くも痒くもないのだが、それでも妙な抵抗があるのはやはり貧乏人の性だろうか。どうせなら無色サファイアの類が欲しかったのだが、売ってなかったので仕方なく諦めた。

 どうせ自分達で使うというのに何重にも包装された宝石を受け取り、二人は店を後にする。京が自分のリュックの中に丁寧に宝石を仕舞い込み、奈央と二人で意味なく三回も確認する。なにせ中身の値段が値段だ、落っことしでもしたら笑えない。いや、繰り返せば一応元通りにはなるから逆に十日ぐらいギャグに出来るか。

「京さん、私にもなにか買ってください」
「嫌ですよ、そんな金ありませんもん」

 冗談交じりに言う奈央に、京は頬を引きつらせた。現在、彼の手持ちは三万円を切っている。宝石なんぞ買おうものなら冗談抜きで飢え死にしてしまうだろう。

 生存本能が危険を訴えるのに素直に従い、京は話題を変えにかかった。

「そういえば昨日の火炎弾は、やっぱり護符かなんかですか?」
「どちらかというと、呪符ですね」

 質問する京に、奈央は懐から数枚の呪符を取り出した。見てみると、確かにその紙には魔法的な術式が書いてあり、後は所有者が魔力を通すだけで効果が現れる仕組みのようだ。陰陽師の中ではごくごく一般的な、魔力の込もった呪符である。昨日の戦いでも使った火炎弾が出てくるものが一般的なようだが、まだ幾つか種類があった。

「こっちの呪符は?」
「真空の刃を呼ぶものと、こっちは結界護持用のものですね。後は企業秘密です」
「企業秘密って……」
「むしろ私としては、京さんの力のほうが不思議でしたが」
「ああ、あれですか」

 ぽりぽりと頬をかき、京は手の平を上向ける。意識を軽く集中すると、その手の上に氷の円盤が現れて、冷たい風が小さく吹く。作られた氷で気温が下がり、冷えた空気が対流したためだ。

「元々四大元素で水を呼ぶのが専門だったんですけどね。こっちのほうがやりやすかったので、独自に訓練したんですよ」

 京達が操ったのは、四大精霊理論に基づく『水』だった。しかし、自分で訓練するうちに、水を直接現出するよりは冷やしたほうがやりやすいということに気付いたのだ。

 それ故に、京が操る力は『氷』。空気中の水蒸気を冷やし、自在に練り固めて操る彼は、ある意味廉崎といえば廉崎らしい、異端ながら強力な力だった。

 その実力は、昨日の戦いで披露した通り。前回の戦いでも剣を投げつけて手放した彼だが、そんなものは戦力の低下にもならない。

 空気なんて、どこにでもある。そしてよほど乾燥している地帯でもない限り、水蒸気だってどこにでもある。京は水蒸気を冷やし、凍らせて作り出した長剣を主な得物とするが、その特性が故に折れようが溶けようが一瞬で作り直せるのだ。

 冷たく鋭く、透き通るように流麗な剣舞。スーミ程度とはいえ一撃で叩き斬ってしまったその腕と、周囲の水蒸気を媒介とするための継戦能力。それが氷を操る実力者たる、廉崎京という男だった。

 その戦闘能力を理解したのか、神妙な顔で奈央は頷く。が、次の瞬間にはその表情は悪戯っぽい笑みへと変化していた。

「ところで、京さん」
「はい?」
「宝石、買ってくださいません?」
「だから嫌だって言ってるでしょうが!」

 結局話題を戻されて、京は大通りで絶叫した。

 

 

「ははは、そりゃあ買ってやるべきだろう! 男としての器量はそんなところでも問われるんだぞ?」

 そして、やはりというかなんというか、その日の買い物では商店街の親父共に援護射撃を食らってしまった。食材を購入するときに、奈央が宝石店での一部始終を洗いざらい話した結果だ。一度ループしているうえに昨日は商店街へ訪れていないものだから、向こうからしてみれば初対面のはずなのに、この気さくさはなんなのか。

 どうして俺がこんな目にと思いつつ、京は言い訳がましく弁明する。

「だって、しょうがないじゃないですか。なんせ金がないし、今現在大ピンチなんですよ」
「言ったばっかりだろう? そんなところで、男の器量は問われるんだと」
「別に恋人でもありませんし、問われんでもいいです、そんな器量」

 行く先行く先、すでに五件目。なんでこういう日に限っていろんな店で買い込むんだと思わなくはないが、たちの悪い偶然であると思いたい。

「いやー、分からんぞー。そういったところに、惚れてくれるかもしれないんだからな。奈央ちゃんに恋人がいたなんて話、我々はまだ聞いたこともないからな。なあ?」
「なあ、と言われましても……」

 苦笑いを漏らしつつ、奈央は野菜を購入する。その横で、京も力なく手を振った。

「大体、惚れてくれるような顔も性格もしてないです」
「だから言っただろう? 分からないってな。なんせここから三軒隣の肉屋の親父がいただろう? 冴えない顔つきなんだけど、見たか?」
「いらっしゃいましたね。見ましたよ」
「あれの奥さん、元々モデルをやってた超絶美人なんだぜ?」
「マジっすか!?」

 肉屋の親父は、この商店街でもダントツで顔に魅力のない男だった。とにかく冴えない顔つきのうえに、やっぱり冴えない銀縁メガネ。おまけに体つきも小太りときた。およそ女性にもてる外見ではなさそうだが、それがどうしてモデルをやるほどの女性を捕まえたというのか。もてない男の一人としてそのテクニックをぜひとも伝授してほしいものである。八百屋の親父は奈央から野菜を受け取って、会計をしながら笑って続けた。

「おうともよ。何せあいつの嫁さんに会うと、みんな首をかしげるからな。どうしてあんなのと結婚したんだと」
「ちなみに私も首をかしげた一人です……」

 親父の横で、奈央も心底不思議そうな顔する。実物を見たこともないが、京でも首をかしげたくなった。それを見ながら、八百屋の親父は咆哮を上げる。

「ちくしょー! 世の中理不尽だあぁぁっ! こうなりゃこの性犯罪者を警察に突き出して、特別賞金をもらってやるうぅぅ!」
「……どこから突っ込んでいいのか分からんので適当に行きますけど、とりあえず賞金は出ないと思いますよ」
「出てほしいんだよぉ。実は先月赤字でさー、調子に乗って馬券買ったら大負けしちまったんだよぉ」
「だからそりゃアンタのせいだろ、俺を売るなっての!」
「五割増の値段を吹っかけるから野菜を買っていってくれー」
「ぼったくりもいいところだなおい!?」
「頼むよー、俺とお前の仲じゃねえかよー、五割増には目をつぶって買ってくれー、この八百屋を、ベジタブルトレードビートジャパンを救ってくれー」
「まだ出会って全然経ってねえだろうが、つーかそんなすげえ名前の八百屋だったのかここ!?」

 結局思い切り突っ込みを入れつつ、京は八百屋を飛び出して看板を確認。ちなみに、本当に『ベジタブルトレードビートジャパン』と書かれていた。八百屋がもてないのはこの辺のセンスに問題があるんじゃないかと考えつつ、京はひきつった笑みを抑えることができなかった。

 

 

「よし、やるか」

 腕まくりをしてズボンの裾もまくれるだけまくり、京は神楽川家の風呂へと入った。ゴム製の靴を履いて防水対策をすると、コックを捻ってシャワーを出す。

 神社をやっている家とはいえ、風呂は普通の風呂だった。旅館のような檜風呂とまでは行かないまでも、ちょっとした情緒のあるものを期待していた京としては少しだけ期待はずれなのだが、現実はそんなものだろう。ついでに言うと、トイレもお湯で洗ってくれる最新式だった。

 固定的な考え方をステレオタイプとはいうのだが、人間のステレオタイプは思ったところより沢山ある。どんなに柔軟な考えが出来る人間であっても、ある程度は決まった考えというのが根底にはあるのだろう。『裁判官』と聞くと十中八九男を思い浮かべたりするのなんかはいい例だ。

 京は今、調査の合間に神楽川家の風呂洗いと食器洗いを引き受けていた。奈央の母親はそこまで気にしなくていいのにとはいうのだが、個人の意地の問題である。

 出てきた水がお湯になるのを待って、京は風呂を洗っていく。お湯を当てながら、ざらざらしている垢を手洗いでこそぎ落としていく。落としそこなったところは何度でも洗えるあたり、人力というのは素晴らしい。

 風呂釜の垢を全部落として、ついでに普段家の人が洗わないだろうコックの裏や台の裏まで洗っていく。最後にもう一度手を当てて、洗い落としがないかどうかをしっかり確認。作業を終えると、京は風呂の外へ出た。換気扇のスイッチを入れ、湿気やらカビやらの対策をするのも忘れない。

「あ、お風呂洗っておきました」
「すいません京さん、ありがとうございます」

 風呂洗いを終えて、京は居間に顔を出した。そこには奈央の母親が、夕食の支度をはじめている。

「ごめんなさいね、わざわざお手伝いまでしていただいて」
「いえいえ、そのくらいやっていないと気が済まないものですから」

 京はこの風呂洗いのほかに、食器の洗い物も引き受けていた。母親はやらなくていいとは言っていたのだが、京としてもただ同然で泊めてもらっている状況で何もしないというのは気が引けた。別に彼はお客様で来ているわけではないのである。

「本当に助かります。もういっそのこと、奈央のお婿さんに来てくれないものかしら」
「いやいやいやいや」

 そう言われても反応に困る。確かに奈央に兄弟姉妹はいないらしいので、『家』からすれば京を婿にもらったほうがいいのだろうが、そういうわけにもいかないのだ。確かに事実上放浪していて、先ほどまでの住処といえば何泊かの予約を入れている安いビジネスホテルの一室だったという現状からすれば婿入りしても大した違いはないだろうが、別に京は勝手に飛び出してきただけで、勘当されたわけではない。まさかありえないとは思うが、もしも家に戻るなんてことがあれば、婿入りなんて事態は避けたいのだ。一応、廉崎というそれなりにいい家の出ではあるのだから。

「でも、廉崎さんって、やっぱりあの廉崎さんなんですよね?」
「ええ」

 奈央の母親は、力こそ持ってはいないものの『裏』の事情にはそれなりに精通していると聞く。となれば、廉崎の名前ぐらいはさすがに聞いたことがあるだろう。今度はなんだと構えるあたり、自分も十分廉崎の異端を理解している。

「もしかして、うちの娘が何か失礼なことを言いませんでしたか?」
「え? ああ、ないですないです、本当によくしていただいて」

 だが、母親の言葉は軽く予想外のものであった。丁寧な物腰でそんなことを確認するあたり、おそらく奈央も大事に育てられたのだろう。事実、彼女は良くも悪くも自分が廉崎だったことで差別なんてしなかったし、確認こそされたもののどうこう言われることもなかった。この数日間、自分がちょっとした異端の家の出であることを忘れかけていたほどだ。

 それはひとえに、親の教育がよかったのだろう。二十一世紀となった今でも、多かれ少なかれ差別は残る。『術者』という一種閉鎖された社会では、その差別はさらに激しいものだった。極端な例では、廉崎とは組みたくないとあからさまに言われてしまい、一族単身で妖魔に挑んで壊滅的な打撃を受けた家もあった。名誉のためとはいえ、ただ自分と組みたくないからと何人もの命を無駄に散らしたあの事件は、正直衝撃も大きかった。

 今の廉崎は、差別と偏見を実力で叩き潰している状態だ。陰でこそこそ悪口を言われる回数は、きっと数えきれないほどあるのだろう。事実、廉崎の姓を隠して仕事をしている術者もいる。そんな中、何の躊躇もなく自分と組むことにしてくれた奈央の存在は、京にとっても大きな救いとなっていた。

「まあ、最低限戦える実力はありますから。護衛として雇われた以上、娘さんは責任を持って守らせていただきますよ」
「頼もしいですね。私はその実力が全くなくて、そちらの方面では奈央を何も助けてやることができないのです。どうか私からも、奈央をお願いいたしますね」
「…………」

 『奈央をお願いいたします』――意地の悪い見方をすればただの社交辞令とも取れる言葉だったが、その言葉は京の胸に染みていった。

「そう、ですね……」

 この力は、意味を失ったと思っていた。大事なものを守れなくて、それこそ氷のように何も残らぬ力となったと思っていた。

 だが、どうやら……一つだけ、力の理由はできたらしい。

 短い間なのかもしれない。自己満足で終わるのかもしれない。だが、それでも、戦う意味と理由がもう一度現れてくれるなら、自分は喜んで力を振るおう。

 だから――

「お任せください」

 母親の言葉に、京は大袈裟に腰を折って礼をした。

 母親は、気づいているだろうか。仮に社交辞令にすぎないとしても、その言葉が今の京にどれほど大きな力となったか。

「奈央さんは……いい家族に、恵まれたようですね」
「そうでしょうか? 私はいつも、自分の無力を実感しているのですが……」
「いえいえ。きっと、奈央さんには大きな助けになっていますよ。どうか自信を持って、彼女と接してあげてください。ただの護衛で数日間しか一緒にいたことのない男が、こんなことを言うのもおこがましいかもしれませんけどね」

 微笑を残して、京は母親にそう告げた。

 

 

 

「…………?」

 その日の夜、自分の部屋で眠っていた奈央は、外から響く小さな音に目を覚ました。窓のほうに歩み寄り、なんとはなしに窓を開ける。その先にある縁側に出て、奈央は辺りを見渡した。

「……京、さん……?」

 目的のものは、すぐに見つかった。しばらく離れた段差の縁で、誰かが変な向きで腰掛けていた。暗がりの中でよく見えないが、シルエットは恐らく、廉崎京。手に小さな何かを持ち、それを口に当てている。音は、そこから響いてくるようだった。笛のような、さびしげな音。その楽器の正体が分からないほど、奈央も学がないわけではなかった。

「……ハーモニカ……」

 京の奏でるハーモニカは、どことなく悲しげな音色を響かせる。声をかけるのも躊躇われて、奈央はなんともなしにその音色を聞いていた。

「…………」

 その音を聞いているうち、奈央は小さく眉を顰める。京が奏でている曲を、どこかで聴いたことがあるような気がしてきたのだ。

 いや、『気がした』だけではない。偶然だったかどうかは覚えてはないが、いつかどこかで、その曲を聴いた覚えがある。

 だが、聞いた場所はあまりいい空気ではなかった気がする。一体、なんだったのだろうか――しばらくの間共に行動して身についた京のイメージからは、実際に彼が奏でている曲はどうしても掘り起こすことが出来なくて、奈央はしばし思い悩む。なんだっただろう。あの曲は、どこで奏でられていたのだろう。明るい曲では、なかった気がする。というよりは、むしろその逆だったような……

「…………!」

 そこまで考えて京の方を再び見たとき、奈央は電光のようにその曲名を思い出した。そしてそれが、一体どんな曲なのかも。

「……鎮魂歌(レクイエム……」

 そう。京は体を捻って――南に向かって、奏でているのだ。あの曲は確か、西洋圏に伝わり、日本である程度の変化を遂げた、死者を弔う鎮魂歌。南にいる――いや、恐らくは「いた」のだろう――何かに、あるいは誰かに向かって、京は鎮魂歌を奏でているのだ。

 意外だった。いつも笑って、少しだけとはいえ冗談も飛ばすあの京が、夜遅くにひっそりと、こんな曲を奏でるなど。去り行くことも声をかけることも出来ず、ただ呆然と見守る奈央の前で、曲は主旋律に入ろうとしていた。

 ……だが。

「…………っ」

 その音色が、揺れて震えて――消え、途切れ、少年の手からハーモニカが落ちる。

「あ……うあ、あぁあ……っ……!」
「…………」

 嗚咽。途切れ途切れに、誰かの名前を呟く京の姿が、とても弱々しく映って。零れる涙は見えなくとも、その心を締め上げる感情は痛いほどよく伝わってくる。

 ただこの場にいることさえも、奈央には許されないような気がした。一人ひっそりと泣く京に、かける言葉などあるわけもない。仮にあったとしたところで、言葉などかけるべきではないだろう。

 奈央が取るべき選択肢は、何も見なかったことにすること。そして明日からもいつも通り、京に接していくことだ。

 ……京が冗談を飛ばす理由が、そして、廉崎の姓を持ちながらフリーランスを名乗り、こんなところに一人でやってきていた理由が、何となく分かったような気がした。

 奈央は京の過去を知らない。その裏づけなんて、取れるわけがない。京はまた、明日からは何事もなかったかのように、いつものように笑うのだろう。その心に刻み込まれた、悲しい傷跡を隠し続けて。

 

 

 美しい満月が輝く夜、階段を上がる靴音がする。いつもの爽やかな笑みはどこへやら、男の顔はかなり厳しい。そう高くないはずのこの建物が、こんな時だけは非常に高く思えてくる。

 舌打ちをして、男は階段を駆け上がった。日頃から鍛えた筋肉は、こんなところでも優れた力を発揮する。だがしかし、男の顔に笑みはない。

 階段を上がる足音が止まり、男は音を立てて扉を開ける。その場にあったのは、軋み合うような音を立てながら回転を続ける歯車と――

「――よお、遅かったな、田中」
「…………っ!」

 幾度か共に筋トレをした、知り合い達の姿だった。

 

 

 

「まあ、ただの筋肉馬鹿かと思ったが、我ながらいい勘してるな、おい」

 部屋の中で驚愕の表情を見せるマッチョレス・田中に、京はぼやくようにそう返す。その横で、奈央と市長も腕を組んで見守っていた。

「とはいえ、さすがに想定外だったぜ? 見たとき見たとき筋トレしてたお前が、まさか気づいていたなんてな」
「くっ……!」
「ま、何の目的で筋トレしていたのかは知らんが、三日間ずーっと同じことばっかりやり続けてたのが裏目に出たな。どこでループしているのかをついうっかり忘れちまったのか、俺達の声に自然に答えてしまったんだから」

 このループが始まったとき、京はなんと挨拶しただろうか。そう、それは「よう、田中」だ。あの時三日間の時が巻き戻っていたのだから、田中が彼らのことを知るはずがない。それなのに田中は「昨日はなかなか熱かった」と返したのだ。

 このループは通常では、自分の記憶は引き継げない。引き継ぐには、それに気づこうとして己の記憶を掘り下げて、その矛盾点に気づくしかないのだ。自分だって気づけたのは、訪れたのがループ直前の二十五日であり、悪夢から一時とはいえ逃れるため、新型のマットレスを採用した宿に宿泊したからだ。もちろん、宿泊すること自体は何の問題もなかったが、一泊しかしていないのに「寝床の環境が変わったおかげで、ここ数日しょっちゅう見てはうなされている悪夢に苛まれる可能性が減っていた」という、一日では絶対に分かるはずのないことを分かっていたという矛盾点に疑問を持ったからに過ぎない。何の変哲もない一般人がループに気づく可能性もないとは言わないが、気づいたならば何のアクションも起こさないはずがないのである。現に奈央はループの原因を調べようとしていたし、京は彼女と会っていなかったらおそらくさっさと出て行こうとしただろう。

 対して、何のアクションも起こさない理由は二つだけ。その人がこの町で生活していて、調べに調べて諦めたか――もしくは、ループを引き起こした本人であるか。

「さすがに途中で気づいたんだろう、本来ならば俺らのことを知っているはずがないってな。その時にはじめて気づいたのでなければ、さすがにあんたも焦ったはずだ。直接のループに関係あるのかどうかは知らんが、市長さん曰く時計塔にかけた術式が暴走している上に、それの調整で必要なサファイアを載せた船が都合よく襲撃なんて食らっているもんだから、待ち伏せしてりゃあ必ず暴走させた奴は来るとは思ったが……やっと引っかかったか。まあ、市長さんに無理言って昼間っから張ってたんだ、かかってくれなきゃ元が取れんぜ」
「ち、違うっ!」
「どこが違うんだ。何のアクションも起こさなかった上に、三日目の夜に暴走している時計塔にこそこそやってくる……どっからどう見てもクロじゃねえか」
「違う、本当に違うんだ! 僕はただ、ずっと筋トレしていたかっただけで……」
「問答無用! 何がしたかったのかは聞きたくもねえ、そろそろ年貢を納めてもらうぞ!」

 話すつもりは、ない。何をしたかったのか知らないが、時間を繰り返させるなど、京には認められないものだった。

 聞く耳持たず、京の袈裟懸けが田中めがけて襲い掛かる。田中はそれを強靭な脚力で回避するが、そこを狙った奈央の火炎弾が鍛え上げられた腹筋に直撃した。夜の時計台に嫌な臭いが充満するが、炎と煙が消えてみたら何故か火傷の一つもない。

「えっ!?」

 直撃したはずなのにありえない結果に、攻撃を仕掛けた奈央が素っ頓狂な声を上げた。対して田中はやっぱり例のマッスルポーズ。白い歯のキラメキももちろん忘れず

「まさにこれこそ、筋肉のパワー!」
「知るかっ!」

 思わずふるふると首を振る奈央の前で、突っ込み半分怒鳴り半分で京が剣をねじりこむように突き出した。回転させながらの突きは肉体に深く入り込み、さらに京は突き刺さった剣を力任せに横に薙ぐ。

 しかし、人間の筋肉の収縮率は、考えるよりもはるかに高い。深く突きすぎた槍などは下手をすれば相手が死に絶えて、筋肉が弛緩するまで抜けないという。中世において開発されたウィングド・スピアなどはこの筋肉の特性を考え、刃の根元に十字のつばを取り付けて深く突き刺さり過ぎないように考案されたものであるが、思い切り突き刺してしまったものを力任せに振り抜けば、結果はそう難しくない。

 いっそ鮮やかな音を立てて、京の剣が真っ二つに折れる。バランスを崩してふらついた京だが、田中も地面にうずくまった。致命傷こそは避けたものの、思い切り剣を突き刺された上に刃が体内に残っていれば、少なくとも重傷は免れない。そこへ、奈央の燃火符が田中の脳天に炸裂し、衝撃と炎熱にやられた田中はもんどりうって地面を転げた。

 いくら肉体を強化しようと、脳や目などの一部の部分は強化できない。それを強化してしまったら、それがそれでなくなってしまうからだ。脳天を揺さぶられ、田中は地面にうつぶせに倒れる。

「がっ……!」
「覚えときな」

 そのまま、脳震盪を起こした田中のこめかみにつま先を当て、京は冷たい声で言う。
「てめえ、この三日間の繰り返しを望んだってことは、それはそれなりに大事なものだったんだろ」
「…………」
「それだったらな……大事なものがあるんだったら、意地でも守り通すぐらいの力は手にいれておかないと、一生後悔するんだぜ」

 京の靴が、煌いた。再び脳髄を揺さぶられ、田中の意識は今度こそ落ちる。

 筋肉はあった。恵まれた体躯もあった。でも――それを生かす、技術がなかった。

 例えて言うなら、知識はあっても知恵はない、そんなところだ。

 気絶した田中の顔を見て、京はため息を吐き出した。

 

 

 

「ありがとう。これで、時計塔の魔術を解除できるぞ」

 田中を倒し、手に入れた例のピンクサファイアを市長に渡して、それを受け取った市長の言葉だ。京と奈央は頭を下げ、部屋の隅へと移動する。

 市長はサファイアに魔力を通し、そのサファイアが輝きだす。サファイアの光は市長の体に吸い込まれ、市長は再びその光をサファイアに戻す。この時計塔は市長が魔術をかけたというのは、どうやら本当のことのようだ。

「ところで、こいつどうしますか?」

 京が指差したのは、地面で気絶しているマッチョレス・田中だ。市長はそうだなと首をかしげると、とりあえず警察へ通報するよう要請した。京と奈央は頭を下げると、奈央が携帯電話を取り出して警察のほうへ連絡する。それを見ながら、京は小さく眉根を寄せた。

時計塔の暴走は終焉を告げ、光が走ってループするなんてことにもならなかった。田中が事件に関与していたことも分かり、次のループにおける手がかりも手に入った。そうでなくとも、うまく行けば四日目の朝が来て自己解決してしまうかもしれない。

 しかし、あの術式は、本当にまじない程度のものなのだろうか。最初に見たときから胸に抱いた違和感は、消えるどころかどんどん大きくなってくる。あんな術式は、長い間術者としてやってきた京も見たことがない代物だった。奈央もそれは同様なのか、電話こそはしているものの、目線は市長に飛ばしている。

 何かが、動き始めたかもしれない。京も市長の方を見ながら、警察が到着するのを待った。

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