第四十幕
身分差
「ちょっと、いいかしら?」
「?」
翌朝――いつもの通り修行場へ到着したヒオリは、突如としてかけられた声に振り返った。目の前には、金色の髪をした女性がまっすぐにヒオリを見つめている。
ヒオリが振り返ったことを確認すると、金髪の女性はヒオリのほうに歩いてきた。その様子を見て、ヒオリも体ごと向き直る。
「ええっと……どちら様ですか?」
女性は明らかにヒオリのほうを知っているそぶりだったが、当のヒオリはその女性の名前も知らない。どっかで見たことあるんだけどなー、と記憶を掘り返そうとするも、結局何も出てこなかった。
「ローラ・セガールよ。そういえば、あなたに自己紹介はしてなかったわね」
「ローラ……ああ!」
ぽん、とヒオリは手を叩いた。あまりにどたばた騒ぎがあったので忘れていたが、そういえばベルドが記憶を取り戻すときに名前を聞いた気がする。その後も、一度だけ会っていたはずだ。まあ、そのときはベルドが暴走していたせいでろくに彼女のことなど覚えてなんかいなかったのだが。
「えっと、ヒオリ・ロードライトです。『紆余曲折』で、アルケミストをやってます」
軽く頭を下げ、一応自己紹介を返す。だが、頭を上げたヒオリの目に映るのは、実験動物を見るより冷たい目をするローラだった。
「ふぅん……あなたが……」
「……?」
「ねえ、単刀直入に聞くけど――」
「――売値、いくら?」
「なっ……!?」
『売値、いくら?』――いきなり放たれたその言葉は、ヒオリの記憶を地獄の底に突き落とした。
――で……レイの売値はいくらですか?
――そうですねえ……なかなか良品だし、八万くらいでいかがです?
――うぅん、八万ですか……高いですねぇ……。
――なら、こっちはどうです? 見た目はボロボロですけど眼帯で隠せばそれほど目立ちませんし、発育が悪いから性的行動には向きませんけど、それでもそこそこ動きますよ。
――それでも、レイほどには動かないでしょう?
――そうですねぇ。それは否定できませんが、二万ほどでお譲りしますよ。
――うーん……今回はヒオリは見送らせていただきますわ。私はレイが気に入っていましてね。
――ほほう。確かにあなた、レイをよくレンタルしていただいていますな……そのご愛玩を考慮して、七万五千ってのはどうでしょう?
――……五万では、だめですか……。
――さすがに五万では譲れませんね。七万ならどうでしょう?
――なら、六万で。
――六万五千。
――いいでしょう。
「……知らない」
忌まわしい記憶を振り払い、ヒオリは絶対零度の声で言う。対するローラは、鼻を鳴らして呟いた。
「そうよね。そういえば、奴隷本体が自分の売値なんて知ってるわけないか。持ち主は誰――って、聞くまでもないわね。リーダーの、ベルドかしら?」
「……、なんで……?」
「? 何よ?」
立ち去ろうとするローラに、ヒオリは呟く。嘲笑を刻んで振り返るローラに、ヒオリは聞いた。
「……なんで? なんでいきなり、ボクを買うなんて言い出すの――っぐぅっ!」
平手打ち。それも、かつてリーシュによく食らった、手首を固めて打ち抜かれたあの一撃だ。頬をひっぱたかれたヒオリに、ローラの冷たい声が下る。
「礼儀をわきまえない小娘ね。買う理由? 決まってるじゃない、『紆余曲折』から貴方を引き剥がすためよ」
「…………っ!」
「カレンから聞いたわ。貴方、奴隷なんでしょう?」
古傷を抉られ、ヒオリは歯を食いしばる。だが、ローラに――貴族の家系である女に、奴隷の感情を考えろというのも無理なのかもしれない。
「その奴隷と、うちの娘が同じギルドで行動している――それがそもそも異常なのよ。うちの娘は、奴隷と同じ立場に立っているような子じゃないの。分かった?」
完全に上から見下す目線でそう言うと、ローラはヒオリの腕を掴む。だが、それに抵抗するヒオリを見て、ローラの眉が跳ね上がった。
「……なに?」
「…………い…………」
ベルドと交渉しに行くのだろう。再びヒオリの手を掴むローラに、ヒオリは再び呟いた。
「ボクは……」
――お前はもう、平民だろ?
「……ボクは、自分が奴隷だなんて思ったことは一度もない!!」
ローラの手を振り払い、ヒオリは彼女から飛び退いた。塞がりかけている傷を思い切り抉られ、ヒオリは怒りに任せて怒声を上げる。対するローラは、はん、と鼻で笑い、ヒオリに向かって篭手を向けた。
「……どうやら、相当いい扱いをされてきたようね。奴隷にしては、生意気なんじゃないの?」
「だから、ボクは――」
「いいわ、別に」
言い募ろうとするヒオリに、ローラは冷たく吐き捨てる。
「感謝なさい。貴方ごとき下賎の者に、この私がわざわざ教えてあげるのだから」
「――商売の邪魔にならない程度に、身の程と立場をわきまえるってことをね!」
「あん?」
同刻――ヒオリより一足遅れて修行場へと向かっていたベルドは、あるものと遭遇した。白衣を纏った中年のおばちゃんと、重鎧を纏った金髪の美女――前者はともかくとして後者は明らかに眼の保養になりそうなもので、やべえ朝からいいモン見たわとベルドの顔が一瞬崩れる(元から引き締まっているわけでもないが)。とはいえ、別に用があるわけでもないし、親しくも無い人の顔をあまりじろじろ見るのも失礼なので、ベルドはそのまま通り過ぎようとした。
――が。
「……ベルド・エルビウム?」
「ん?」
どうやら、向こうはこっちに用があったらしい。呟かれるように名前を呼ばれ、ベルドはくるりと振り向いた。見ると、白衣の女も鎧の女もベルドのほうを注視しており、間違って呼んだり独り言だったりすることはなさそうだった。
「ベルド・エルビウム?」
「ええ。何か?」
ノリで敬語をかなぐり捨てた執政院の中年メガネや、ゴーン・リーシュといった敵対勢力とばかりぶつかってきたので、ベルドはかなり粗野な人間に映っているかもしれないが、一応人を敬うことを知らないベルドではない。立ち止まり、二人組のほうへと向き直った。
「直接会話をするのは初めてね。私はサクラ・スチュワート。カレンの姉よ」
「クランベリー・クライン。カレンのメディックとしての師匠でもあるわ」
「ベルド・エルビウムです。ギルド『紆余曲折』のリーダーをやってます」
二人の自己紹介に自己紹介を返しながら、ベルドはああと思い至る。言われてみれば、サクラの顔にはどこかカレンの面影がある。しばしの沈黙の後、サクラが口火を切った。
「ふぅん……最初に見たときには随分怖い印象を与えたけど、人って変わるものね」
「つーかあれがおかしくなってる状況下だったとご理解ください。暴走してたんです」
「そう……確かに、皆殺しオーラを出しまくってるのが正常だなんて、ちょっと理解したくないわね」
「俺、そんな風に見えてましたか」
ベルドの苦笑に、サクラも笑う。そして、おもむろに切り出してきた。
「それで、用件なんだけど」
「はい」
「別に、特に深い意味は無いわ。話し合いに先立って、『紆余曲折』のメンバーと話をしてみたかったの」
「なるほど? 別に俺と話をして何があるってもんでもありませんが、美女との会話なら喜んでお相手させていただきますよ」
「あら、そんなことしたらカレンが怒るわよ?」
へらへら笑って、ベルドは肩をすくめてみせる。それに対し、サクラも笑いながら返してきた。
――って
「何でカレン?」
言葉の一部が引っかかり、ベルドは疑問顔でサクラに聞く。対するサクラは、平然とした顔でベルドに言った。
「え? だって貴方、私の妹と付き合っているんでしょう?」
ベルドの動きが、止まった。
「…………はい?」
それから二十秒以上の間を置いて、ベルドはゆっくりと再起動する。
「……どっから飛んだんですか、その根も葉もない噂は」
はああああ、と限りなく深いため息をつき、ベルドはぼやくように問い返す。
「だって、聞いたのよ?」
「何をですか」
「『紆余曲折』のギルドマスターは、メンバーの一人と付き合ってるって」
「だからといって何で速攻でカレンになるんですか。肉親だからまあそういう気持ちは分からんでもないんですけど、ヒオリって選択肢は考えなかったんですか?」
というか、むしろそっちが正解なのだが。
「それはありえないわ。だって貴族の娘と一匹の奴隷よ? どっちを選ぶかなんて、サルでも分かるわ」
「…………まあ、そりゃそうだな」
サクラの言葉を聞いて、ベルドはあることを思い出す。セガール……どっかで聞いた名前だと思っていたが、そういえばどこぞの国にそんな名前の貴族があった。奴隷の小娘と貴族の娘――たしかに、一般的に考えるならどっちを取るかはサルでも分かる。
――となると、どうやら「紆余曲折」のメンバーはサル以下の集まりらしい。といっても明確にカレンよりもヒオリを評価するのは二人しかいないが。
だが、その前に。
「……とりあえず、言っとくわ」
「なにが?」
敬語の仮面をかなぐり捨て、ベルドは唸る。
「……俺たちの前で、二度とあいつを奴隷呼ばわりすんじゃねえ。覚えとけ」
「――分かったわ」
「お?」
案外素直に答えを返したサクラに対し、ベルドはほうと呟いた。
「……とりあえず、貴方にあの子は任せられない」
「は?」
だが、サクラの言葉は、ベルドの予想からは遥かにかけ離れていたことだった。
「いや、なに? あんた、そういう風に受け取ったわけ?」
「普通、そうとしか取らないでしょ」
「……かどうかは分からんが……」
首を捻るベルドに、サクラは悲しげにかぶりを振った。そして、怒りを込めた眼差しでベルドを睨む。
「ベルド・エルビウムッ!」
「なんだ女?」
互いに礼儀を遠くに投げ捨て、非好意的な視線を交わし合う二人。口火を切ったのは、サクラだった。侮蔑も露わに、ベルドに告げる。
「貴族と奴隷を同じに扱っているギルドが、まさか存在するなんて思っても見なかった。……それに、そのギルドにうちの妹が所属しているなんて、まさか思いもしなかった!!」
「だから?」
容赦のない殺視線に、ベルドはいつも通りの軽口を叩く。へらへらとした締まりのない笑い方は、サクラの神経をクリティカルに逆撫でした。
「とにかく、貴方達にあの子は任せられない。付き合ってるって話だけど――貴方なんかに、うちの娘と交際するのは認めない」
「――まあ、認められても困るけどな。夜の調教とか大変そうだし」
品行下劣で下種な言葉に、サクラの視線が険しさを増す。
ベルドの軽薄な態度は、サクラの許容範囲を大幅に逸脱していた。こんな男に、自分の可愛い妹は――
「だったら……うちの妹に近づかないで!」
「そりゃー無理だな。あいつは大事な救急箱だ」
「お、お前っ……!」
自分の妹をメディカルキット扱いされ、サクラの体が怒りに震える。
「お前っ……許さないっ!」
「おおっと」
義憤に燃えて剣を抜き、サクラは一直線に突っ込んでくる。袈裟懸けに振り下ろされた剣をベルドは身を捻って躱し、続く薙ぎ払いも跳躍して躱す。手ごろな木の上に飛び乗りながら、洒落にならなくなった事態にベルドは思わず叫び声を上げた。
「ちょっと待て、誤解だ! 俺はそもそもカレンとなんか付き合ってねぇ――って人の話を聞けよお前は!!」
言葉の途中に何かが飛来してきて、ベルドの言葉は中断される。枝から枝へ身軽に飛び移りながら、続けざまに下から飛来してくる弾丸を躱し続ける。正体は――魔力塊だ。どうやらサクラは、魔力を練り上げて弾丸にすることも出来るらしい。
「――うおっ!?」
だが、さすがに木の上という不自由な足場で、まがりなりにも第四階層まで到達した冒険者の攻撃を完全に回避することは不可能だったらしい。魔力弾が回避不能なタイミングでベルドに炸裂し、対するベルドは剣を振り下ろしてそれを受け止める。戦闘が始まったと察知するや否や、無意識のうちに剣は抜いていたらしい。魔力弾と浅緑剣がぶつかり合い、しばらくの均衡の後にベルドの剣が魔力の弾丸を弾き飛ばす。だが、そのベルドの視界が少しだけ暗くなった。咄嗟に回避した木の上で、強烈な一撃が振り下ろされる。
「ちょっと待て、あれ食らったら死ぬぞ普通!」
同じ剣を握る者だからこそ分かる、振り下ろされた一撃に込められた威力。だがベルドの言葉に答えることなく、サクラは剣を振り払った。初撃をかがんで躱し、大上段から振り下ろされる剣の柄頭を己の掌底で突き上げる。サクラの手からカッツバルゲルがすっぽ抜け――
「だから人の話を聞けっつってん――」
「――舐めんじゃないわよ落ち零れぇ!」
「どわったぁ!」
右ストレートがベルドの頭をめがけてぶっ放され、対するベルドは咄嗟のことに飛びのいてしまう。そのまま大地に着地しなおし、数瞬遅れて宙を舞う剣を回収したサクラが着地する。
「私を誰だと思ってるの!?」
「知ってるよ。『異国の月』のメンバーを守る聖騎士にして、カレン・サガラの姉――サクラ・セガール、だな」
それにしても、俺のことを知っていたとはな――サクラの言葉を思い返し、ベルドは小さく苦笑する。
記憶を取り戻す前にアルカナが言った言葉は、完全な嘘ではなかった。確かにベルドはモリビトの里では落ち零れだったのだ。
いつぞやも述べたと思うが、モリビトの里で修行を行うのは七歳を超えてからだ。通常、候補生は八歳か、遅くても九歳にはデビルクライを身につける。時たま七歳のうちに身につけてしまう奴もいて、そういった傑出した能力を持つモリビトはグリンウォリアーになるための上級訓練を受けることになる。
だがベルドは、追放される直前――つまり、十歳の誕生日を迎える直前になるまでデビルクライをうまく使うことが出来なかったのだ。
念のため言っておくが、ベルドは決して無能な子供だったわけではない。今の戦士としての実力も、強者揃いの和国、そのほぼ最強に位置する男、ゲリュオ・キュラージとタメを張れるほど強くなったし、はっきり言って今のモリビトにベルドと渡り合える者などろくにいない。それこそ特殊訓練を受けたフォレストオウガやフォレストデモンでない限り、彼とまともに戦える者などいないだろう。浅緑剣に認められた存在であることからも分かってくれると思う。
ただ、ベルドはそこに在るあらゆるものからヒントを得て、己の技に取り込んでいく我流派だ。つまり、誰かから指南をされるというのに極端に相性が悪かったのである。今みたいに確立された自分の戦い方を持っていれば、誰かから指南されても己のやり方に取り込んでいけるのだが、何も無かったあの頃はどうにも出来ず、ただ落ち零れるしかなかったのだ。
だが、それを知る者がモリビトの里にいたはずもなく、結果的にベルドは落ち零れであるというのが大半のモリビトたちの共通見解だった。さらに、人の血混じる忌み子となれば、まさに風のような速度で噂は飛び乱れるだろう。サクラが知っていても、無理は無かった。
「――はああぁぁぁっ!!」
練り上げられた魔力弾が、ベルドめがけて飛んでくる。対するベルドも、己の剣に魔力を込め――
「――ふっ!」
短い気合と共に、右斜め下からの切り上げを放った。そこから撃ち出されたトルネードによる風の刃が、サクラの魔力弾と激突し――
「きゃああぁぁっ!」
一瞬の均衡もなく、魔力弾を両断した。とっさに剣で受け止めようとするも受けきれず、サクラは大きく吹っ飛んでしまう。木に叩きつけられ、頭を抱えたサクラに、ベルドはため息をついた。
「だから、人の話を聞けっつってんだろ」
「……誰が、あんたなんかに……」
「……どうやら、相当嫌われたらしいな」
「当たり前でしょっ……うちの、妹を……っ」
「だからな……そこがまず誤解なんだっつーの」
二度目のため息。
「あんた言ったな? 貴族の娘と奴隷の小娘、どっちを取るかはサルでも分かると」
「……ええ、言ったわ」
「となると『紆余曲折』のリーダーはどうやらサル以下だったようだ」
「…………え?」
その言葉に、サクラの動きが止まった。相当意外だったのか、目をぱちくりさせてベルドを見ている。
「『紆余曲折』のリーダーは、メンバーの一人と付き合っている……その言葉に嘘はねえ。ただ、付き合ってる相手はお前の妹じゃねえ、あんたがサルでも分かると見下した、ヒオリの方だ」
「…………」
サクラの動きは止まったままだ。だが、凍り付いてはいないようで、どうやら話は聞いてくれているらしい。その様子を確認しつつ、ベルドは続けた。
「奴隷だから貴族だからって、俺の見る目に変わりはねえ。確かに貴族の娘と結婚できりゃあ、まさに玉の輿だろうよ。だけどな、俺はそれには興味はねえ。たしかに金は欲しいが、それ以前に冒険者っつー自由な立場が好きなんだよ」
理屈も理由も関係ない。やりたいときにやりたいことをやりたいようにやる――それが、冒険者という無法の連中なのだろう。
まとまりもへったくれも何も無い、混沌とした命知らずな大馬鹿野郎の大集団。
それが冒険者であり、そんな中でも同じ目的の者が集うのが冒険者ギルドなのである。
「俺が惚れたのは奴隷じゃない、『ヒオリ・ロードライト』っていう一人の少女だ。同時に俺が評価しているのも、貴族のVIPなんかじゃねえ。あくまで『カレン・サガラ』としてしか評価してねえんだ」
「……、そう……」
その言葉に、サクラはどこか納得したようだった。しばらくの沈黙の後、サクラは膝立ちに体勢を変える。打ったところを手探りで探し、騎士の心得である治療技術で己の傷を回復する。処置を終えると、サクラは再び、剣を握って立ち上がった。
「……ベルド」
「……なんだ?」
「……剣を取りなさい」
怒りに満ちた先ほどの目とは対照的に、冷静でありながらも鋭い眼光。
「貴方がそうまでして戦う理由が、奴隷に惚れて、茨の道を進んでまで戦う理由が私は知りたい。だから――」
聖騎士の証と誇りを向けて。サクラはベルドに、静かに告げる。
「――剣を取りなさい、ベルド」