第三十七幕
未来を呼ぶ者
綺麗な肌、吸い込まれそうな瞳。一糸纏わぬその姿で、セレン・メトリックはベルド・エルビウムを覗き込む。当のベルドは、何がなんだかさっぱり分からなかった。
なんで、こんなことになっているんだ。一体、何を考えているんだ。考えてみても、結論は出ない。ただ目の前にある現実こそが、全てだった。
「あ、ぐ……」
馬乗りになったセレンの瞳が、妖しく光る。体から淡い魔力が走り、ベルドとセレン、二人を取り巻く空間が、網の目状に隔離される。
「森の、結界……」
自分たちに有利な空間を作り出し、こちらの攻撃に対する耐性を減少させる、本来なら戦闘用の技。伝承者の服装がとてもよく似合う少女は、その技を応用して、ベルドの動きを封じたのだ。
かかる吐息が、ベルドの理性を刈り取っていく。体重のかけ方も、無論体重そのものも、幾多の激戦を潜り抜けてきたベルドにとっては物の数ではないはずなのに。この結界の中に限れば、ベルドは単なる被食者だった。
この体勢で男女が行うことなど、絞殺を除けば一つしかない。そして、押し倒したのは自分ではなく、彼女。であるなら、彼女がそれを求めていることは分かる。
だが、彼女が求めているのは――
「うっ……」
そこまで考えた時、ベルドの体がびくりと震えた。セレンが『ベルド』の上で腰を動かし、その感覚がストレートにベルドの体を駆け上がる。
何のつもりか。どうしてこんなことをするのか。その答えなど、考えるまでも無く。
だが、それは自分に応えられることではないし、応えていいことでもない。
「ちょ、ちょっと待て! 俺は……!」
行動に移す時間が欲しくて、真実を伝える時間が欲しくて、ベルドはセレンに呻く様に言葉を発する。だが、それでもセレンの表情は、毛ほどの動きも見せることは無かった。
「知ってる。もう、ベルドなんでしょ?」
何かを言うことも出来ずに、ベルドは頷く。セレンはくすりと笑って、ベルドに返した。
「だから、こんなことしてるんじゃない」
「ぁ……うあ……」
そういえば、セレンが知らないはずは無い。あれから何日も経っているし、その間ずっと部屋に閉じこもっていたわけでもないだろう。なにより、マンティコア退治の話は、瞬く間に里中に知れ渡っていたのだ。
「私は確かに、あの娘に負けたわ。だけどね、負けっぱなしじゃいられないの」
「くっ……」
「だから、ね? ……私を、奪いなさい?」
「ぐぅっ……」
静かな、そして絶対的な圧力を有したその声。その求めに応じようとする体を、残った理性で必死になって押し留める。
だが、そういえば、何故……
「……私から、手を出さないのかってこと?」
ベルドの心を呼んだかのようなタイミングで、セレンの笑みを含んだ声が問う。知ったところでどうにもならないような気もするが、ひとまず飛びそうになる理性を留めたくて、ベルドは一つ頷いた。
「私から手を出したって、意味が無いもの。情欲に負けて、恋人がいるにもかかわらず、他の女に手を出して。そして貴方は私が貰ったって、そう言ってやりたいもの。あの子、どうするでしょうね?」
楽しそうな声で、セレンはベルドに言ってみせる。当たって砕けろの色仕掛け、ではない。当てるからには完全にベルドを墜とすつもりで、セレンはここに来ているのだ。吐息一つに、理性が崩れる。媚薬か何かでも飲んでいるのか。そういえば、モリビトたちには媚薬の製法も伝わっていて――
「……ねえ、ベルド。もう、諦めたら? ここ、もう凄いことになってるみたいよ?」
「うぁっ!」
セレンがベルドの上で体勢を変えて、膝をこりっと動かした。彼女の囁く言葉の通り、完全に硬くなった『そこ』は、目の前にある女の身体を求めて暴れまわっている。ぞぐり、とセレンから与えられた刺激が脊髄を走り、ベルドの体は歓喜に震える。
だが。
だが、それでも。
自分は、ここで情欲に負けるわけには行かない。そうでなければ、自分はヒオリを裏切ることになってしまう。それが綺麗事だと、言わば言え。そうでなければ、自分は理性を保てない。
だが、虚しく抵抗を続けるベルドに業を煮やしたのか、セレンは次の行動に出る。ベルドに体を預けるようにゆっくりと倒れ、その耳に唇を寄せる。
「~~~~~~~っ!!」
そして、セレンの吐息が、ベルドの耳に吹き込まれた瞬間――
――ベルドの理性は、吹き飛んだ。
両腕でセレンを思い切り抱き締め、その体を上下に反転させる。セレンは小さな悲鳴を漏らすが、それは恐怖ではなく、歓喜。その声に応じ、ベルドは己の服を脱ぎ捨てた。
だが、服を脱ぎ捨てるだけの短い時間ではあったものの、そのとき確かにベルドは直接セレンを意識しなくなった時間が生まれた。その間に余裕が生まれたらしく、ベルドの意識に再び理性が割って入る。
「……っぐ、ぅっ!」
だがちょうどそのタイミングで、セレンはベルドのそこを撫でた。体内に走るその快感に、ベルドは再び理性を失い――
「ぐぅ、ああぁーっ!!」
――かける直前に、無我夢中でセレンの服を引っつかみ、その胸に思いっきり叩きつける。次の瞬間、ベルドはあっけに取られるセレンの上から転がり落ちた。
「ベル、ド……?」
行動が理解できなかったのか、しばしセレンは動きを止める。その瞬間、ベルドの体は再び力を取り戻した。股間は痛いくらいに張り詰めているが、断固として無視。
――辛いけど。マジ辛いけど。めっちゃ辛いけど。
「っ、はぁっ、はあ……」
荒れる息と早鐘を打ち続ける心臓を押さえつつ、ベルドはがんっと地面を叩く。そうしないと、またしても理性が吹っ飛びそうだ。
「いや、あの……なんつーか、さ……」
どう言っていいのか分からず、ベルドはしばし言葉に詰まる。だが、セレンが再びにじり寄ってくる前に、ベルドは次の言葉を紡ぎ出した。
「お前の気持ちは有難いんだけど……すげーもったいねーことしてんのも分かってるんだけど……」
首を振って、ベルドは言葉を続ける。
「でも、お前が求めてんのは、グレインであって、俺じゃないんだろ?」
「――――っ!!」
セレンの言葉が、詰まった。
「あ……」
掠れた声で、ただそれだけを絞り出す。
そう。彼女が求めているのは、グレインだ。だから、『ベルド』である彼に、セレンの気持ちに応えることなどできやしない。
『彼』の人格を巡り、セレンはヒオリと争った。そして、『彼』自身は完全にベルドとなり、グレインの人格は消滅した。だけどそれを信じたくなくて、セレンは体を売ってまでグレインを呼び覚まそうとしたのだろう。
だが……
「……もう、どうやっても無理なんだ。あいつは……グレインは、あの日の夜に、この体を俺に譲って消滅した。あいつが出てくることは、もう二度とないんだよ」
セレンのほうを振り返り、ベルドは言葉を続ける。セレン自身と向き合わなければいけないということもあるが、もう体を求めてくることは無いだろうと確信できたからだ。
自分を奪い取って、ヒオリに心理的な打撃を与える――その言葉が嘘だったとは思えない。だが、そのために自分の身体を全て犠牲にしてしまうほど、彼女は愚かではなかったはずだ。
振り向いたベルドの視界に、服をかき抱くセレンが映り――
――魔法が、解けた。
前屈みになって震えるセレンの姿は、紛れも無く年相応の少女の姿。大人と子供、少女を超越した美しい妖精に変身する魔法は煙のように解け消えて、ただそこには十八の少女が座り込んでいた。
――何故か、無性に煙草が吸いたくなった。
とはいえ、そういうわけにもいかないので、ベルドは体を伸ばして背負い袋を引き寄せる。そこから、エトリアに戻った際に買い込んでいた缶コーヒーを取り出し、プルタブを開けた。
飲み口を口に当て、中身の液体をゆっくりと喉に流し込んでいく。妖精の魔力でからからに渇ききってしまった喉を、コーヒーがゆっくりと潤していく。
――と、セレンが揺れる声で話しかけてくる。
「グレイン……」
「ん?」
「じゃあ、グレインはさ、もう、いないの……?」
「……ああ」
セレンの瞳から、涙が一滴零れ落ちた。己の愛する存在を、喪ってしまった悲しみか。
ベルドは何も言うことは出来ない。取り繕っても意味は無いし、嘘をついて例え一時慰めても、それは必ずより大きな悲しみとなって彼女を襲うことになるだろう。かつて共に歩んだ相手として、それに真剣な答えを返す義務が、ベルドにはある。
黙っているベルドに、セレンは再び話しかける。
「ねえ、ベルド……」
「……なんだ?」
「……こんなことしちゃったけど、また私と、友達で、いてくれる?」
「…………」
その言葉の意味を、ベルドは解釈出来なかった。それは、かつてグレインとセレンが恋人同士になる前の関係に戻れということか、それとも、自分が『ベルド』であると認識した上で、友達になりたいのか。前者なら、自分のことをベルド呼ばわりするのはおかしい。後者なら、そもそも友達だった覚えが無い。
しばし悩んだ後、ベルドは率直に聞くことにした。
「俺……そもそも、お前と友達だったっけ?」
こういう聞き方をするのは、こっち側の方が問いかけやすい質問だからだ。その言葉を聞いたセレンは、しばし沈黙する。そして、また瞳から涙を零した。
「……そうだよね。そういえば、私達、友達なんかじゃなかったよね……」
「…………」
となると、後者か。だが、そうと分かれば簡単だ。そして、自分がどうしたいか、またどうするべきかも明確に分かる。
それはセレンが、彼のことを『ベルド』として付き合っていこうとしたことなのだから。
「んじゃあ、さ……今からじゃ、駄目か?」
「…………?」
ベルドは、セレンを拒む気など無かった。確かに、自分の最愛の恋人はヒオリだ。それは何も変わらない。だが、だからといって、女友達まで作らないようなことは無かった。
自分自身、結構女好きな自覚あるし。
「えっ……?」
「だから、今からじゃ駄目かってこと。なんつーか、普通もう使わないような言葉だろうけど……まあ、いわゆる『友達になろうよ』ってやつ」
随分軽薄なことを言っているような気もしないでもない。だが、ベルドはそれが間違っているとは思わなかった。果たしてセレンは、しばらくの間きょとんとした目でベルドを見つめていたが、やがてその言葉の意味するところに気づいたのだろう。その顔が、徐々に笑み崩れていく。
「…………、うん」
たった一つ、頷いて。
そして、セレンの瞳から、また一滴涙が零れた。
「……忘れもんはないな?」
とりあえずセレンに服を着せ、そして忘れ物の杖を渡してベルドは聞いた。あちこちの荷物を確認したセレンは、小さくこくりと頷きを返す。
「そうか。それじゃあ、そゆことで」
「うん。それじゃあね」
友達同士の初めての別れにしてはそっけないが、ベルドはそれだけ言って手を振った。対するセレンも、一つ笑ってそれに返す。そのままセレンは、部屋の入り口の扉に手をかける。
「……じゃあな、セレン」
「……うん。じゃあね」
二度目の挨拶。短いやり取りを交わすと、セレンは部屋の扉を開けた。その姿が廊下へ出て、セレンは扉を閉めようとする。その姿に、ベルドは言葉を飛ばした。
「セレン」
「なに?」
その意味に、気付いてくれるだろうか。気付かなければ、それも構わない。それは、ある意味自分自身への言葉なのだから。
「またな」
「え、うん……」
三回も挨拶をされるとは思わなかったのか、セレンの顔が疑問を浮かべる。とりあえずその言葉に返そうとしたのだろう、セレンも口を開きかけ――
「――――!!」
そして、はっとした顔になった。その瞳が、ベルドのほうへ向けられる。ベルドは笑って、片手を挙げた。セレンも、笑みを浮かべて片手を挙げる。
「うん! またね、ベルド!!」
それきり、セレンは扉を閉じる。軽快とはいわないが、決して重くもなさそうな足音を聞きながら、ベルドは誰もいない部屋で笑った。
気付いたらしい。どうやら、セレンは自分の認識以上に勘の良い少女だったようだ。
二度目のあの挨拶は、『グレイン』であった自分との関係に決着をつけるための言葉。だから、もう二度と会うことは無いだろうと、その言葉を言った。
対して三度目は、『ベルド』として始まった新たな関係に言った言葉。だから、また会うことを願う挨拶の仕方をした。
セレンは、見事に両方を読み取ってくれた。彼女がまだ『グレイン』に未練があることは知っている。だがその傷は、最初の段階だけ取り除けた。後は時間と、なにより他の人々との関係が癒していってくれるだろう。
「なんにせよ、綺麗に終われてよかったぜ……」
ばたん、と仰向けに横たわり、ベルドは笑う。そして、ふうと大きくため息をついた。その胸の中では、未だに消えきらない情欲の炎が快楽を求めて燻っている。
気付いたベルドは顎に手を当て、余裕をぶっこいて笑ってみせる。
「……ああ、やっぱ欲しかったなあ、あの身体……」
あれだけ綺麗な肌と完璧なプロポーションの持ち主は、そう簡単にはいないだろう。どうやら、相当の極上品を逃してしまったらしい。しかも、そうしてまで守り通した少女は、無数の傷跡を刻まれた、ボロボロの身体の持ち主なのだ。
それでも。
ノックの音がする。
答える。
扉が開く。
そう、それでも。
「ベルド……?」
自分が好きなのは、このボロボロの少女なのだから。
「……行くか」
名刀・八葉七福を握り締め、ゲリュオは道場の前に立っていた。莫大な量の「気」とそれに伴う炎も完全にものにして、再び蒼刀に挑むべく。
師匠が寝泊りしていた六畳間の畳をめくり、そこから地下通路を覗き込む。
「…………」
そこからは相変わらず、果てしない力を持った何かが奥底から呼びかけを続けていた。一つ深呼吸して心を落ち着けると、ゲリュオは階段を下りていく。だが、地下通路は一本道で、しかもその先は行き止まりだった。左右を見渡しても折れる道は無い。
「……ふんっ!」
道が無いことを悟ったゲリュオは、目の前の壁を思い切り押し込んだ。すると壁ががくんと動き、どんでん返しの要領でゲリュオは反対側へ行き着いた。そこからはさらに長い道となっており、どういう原理か知らないが明かりも無いのに視界はやけにはっきりしている。
やがて、大きな広間に行き着く。先の隠し扉以外に邪魔はなく、魔物の一匹もいやしない。まあ、上が道場であることを考えると、いられても困るのだが。そんな事を考えつつ、ゲリュオは広場を突っ切って――
「!?」
とっさの判断で飛び退いた。直後、ゲリュオの眼前で大地が隆起し、先端を鋭く尖らせた衝撃波が斜め前方――ゲリュオがそのまま歩いていたら間違いなく交差していたであろう方向――に突き出される。
「はぁっ!」
ゲリュオは素早く「気」を練り上げ、炎の矢として具現化させる。虚空を切り裂いた炎の矢は何もないはずの空気に当たって爆発し、そこから青い人間が浮かび上がってくる。
「なんだ、これは……?」
それを見たゲリュオは思わず呆然と呟いた。無理も無いだろう。「青い人間」というのは比喩でもなんでもなく、本当に「青い」人間なのだ。背格好からして侍であるのは理解できるが、こんな皮膚の色などどう見てもありえない。
「何者だ……」
と、その人間が問いかけてきた。どうやら、言葉を発することは出来るらしい。
「名を尋ねるときは、まず自分から名乗るんだな」
対するゲリュオは、昂然とその人間に問い返す。それを聞いた人間は少々不意を突かれた顔をするが、すぐに答えを返してきた。
「名など無い。夜影刀を守る者、それが、我だ」
「……夜影刀?」
聞きなれない単語を耳にして、ゲリュオは眉を顰めて聞き返す。その言葉を聞いて、人間の顔が唖然としたものになる。
「貴様……盗賊か?」
「そんなわけがあるか。格好を見れば分かるだろう」
「ならば……まさか、何があるのかも分からずに、ここに来たのか?」
「……蒼刀“龍仙”のことか?」
「蒼刀……?」
と、今度は人間のほうが聞き返す番だった。その問いに、ゲリュオは疑問を抱きながらも答えていく。
「蒼刀“龍仙”だ。照らし出す月光のように蒼い刀身を持った、持った人間の秘めたる力を引き出すという名刀だそうだが……」
「…………、そうか……」
ゲリュオの説明に、人間はしばし考え込む。そして、ふと合点がいったように頷いた。
「なるほど……最後に夜影刀を持った者は、今から数千年も前の話だ。どうやら、その間に伝承は損なわれてしまったようだな……」
「……どういうことだ?」
一人ごちる人間に、ゲリュオはそう聞き返す。質問を受けて、人間は一つ頷いた。
「貴様らが蒼刀と呼ぶ刀の、正しい名前が夜影刀だということだ。無論、打たれた銘も“龍仙”などではない」
「……そうなのか?」
聞き返すゲリュオに、人間は再び頷く。そして、遠い目をして昔話を始めた。
「……かつて、この国に伝説級の鍛冶工がいた。喪われた『日本刀』という知識を復活させ、我ら侍という存在を再び生み出した男を、知らぬわけでもあるまい?」
「ああ、勿論だ」
「その鍛冶工は、さまざまな刀を作った。後に名刀といわれる刀も、大半がこの男の作だ」
「……らしいな」
「そして、男は日本刀の極地を目指して、一本の刀を作り上げた。それが、黒刀といわれる強力な引力を秘めた刀だ」
「――――!?」
黒刀。それは、ゲリュオにとって痛烈な意味を持つ刀の名前だ。あの侍・ウルスが持っていた、強力無比なその刀。初めて出会った時も、そして樹海で再会した時も、あれほどの力を持った刀など見たことが無かった。
「だが、その力はあまりにも危険すぎ、そして認められるものではなかった。そのため、男はその力に恐れをなし、地中深くに封印したのだ」
それもそうだろう。その力は彼らに仇なす、天敵とも言うべき力なのだ。『侍』というものの中枢をなす、『気』そのものを吸い取ってしまうその力は。
「それに失敗した男は、己の全てをかけて二本目を作った。食事も睡眠も、何もかもを犠牲にして、その刀は完成した。あの刀とは真逆の特性を持つ、斥力の刀・夜影刀が」
「それが、この奥に……?」
「ああ。そして、黒刀と違い、夜影刀は伝説に名を残すこととなった。そのため、今まで何人もの人間が夜影刀を得んとそれに挑んだ。だが――数千年前の男を最後にして、手にした者はもうおらん。正しい名前が伝わらなくなったとしても、おかしくはなかっただろうな」
「……質問してもいいか?」
その人間が話を締めくくるのに合わせて、ゲリュオは一つ聞き返した。無言で続きを促してくる人間に軽く頭を下げ、ゲリュオは質問をする。
「今、その黒刀がどうなっているかは知っているか?」
「さあ、知らぬな。我はあくまで、夜影刀を守る者。黒刀の現在など、詳しくは知らぬ」
「それは――今、ある侍が持っているが、それは封印が解かれたということか?」
「……在りうるとしたら、そうかもしれぬが……偽物ということはありえぬか?」
「……いや。あの引力は、間違いなく本物だ」
ヒオリ・ロードライトを引きずり寄せてたった二撃で戦闘不能にした力を思い出し、ゲリュオは頷く。修行をし、気炎という力に目覚めた今でも、勝てる自身はあまりない。圧倒的な力を思い出して苦笑するゲリュオの前で、人間は一人呟いた。
「そうか……。黒刀の存在を、知る者がいたのか……」
「どういうことか、察しはつくか?」
「……何がだ?」
「その刀は、聞く限り侍たちの大敵だ。それを握るということそのものが分からん。気が狂っていたとか、そういうわけでもなさそうなのだが……」
蒼刀――夜影刀そのものに関係は無くても、これは結構重要だ。
ゲリュオは、ある確信を抱いていた。この人間は、既にこの世のものではない。話し方、特に夜影刀(と黒刀)の伝説を断定形で話せるあたりからも、それは分かる。
そうなると、実際の黒刀を知る男の意見を参考にすれば、ウルスのことが断片的にでも分かるかもしれない。
彼を知り、己を知ればなんとやら――古い時代にも、そんな格言があるというし。
質問を受けたその人間は、ふうむと頷くと、しばし考える素振りを見せる。割かし、コミュニケーションの取りやすい相手かもしれない。
そんなどうでもいい事を考えるゲリュオに、人間は答えた。
「……黒刀というものが禁忌とされた理由の一つに、刀が秘めた力がある」
「あの、斬った相手の『気』やら魔力やらを吸い取ってしまうあれか?」
「それだけではない。黒刀というのは、斬った相手だけでなく、握った持ち主からも『気』を吸い取ってしまうのだ」
「……なんだと?」
「夜影刀も同じような力を秘めているが、あれはまだ斥力なので何もかもを弾き飛ばす程度で済む」
「……『程度』なのか? どちらにせよ、そうなったら使えないような気がするが」
「夜影刀は、その鍛冶工の魂が込められた逸品だ。普段は我でさえ近づけないほどの斥力を放出し続けているが、ある人が握ると、まるでその人を認めたかのように斥力の放出が止まることがある。その後に、持ち主は自分の意志に応じて斥力を放てるようになるのだ」
それと併せて考えると、可能性は三つある。そう言った人間は、指を三つ立てて話を続けた。
「一つは、その侍の精神が既におかしくなっており、黒刀の力を受け付けなくなった場合。二つ目は、侍の『気』が底なしである場合。そして三つ目は、夜影刀と同じように、黒刀がその侍を認めた場合……」
「……どうやら、三番目の線が強そうだな……」
ウルスの超人離れした力と、黒刀を振るいながらも苦しげな表情一つ見せなかった様子、そしてアルカナから聞いた彼の話を考えるに、気が狂った可能性はありえない。
二番目の可能性も、当たっているとは言いにくい。ウルスの『気』は膨大ではあっても無限ではなかった。世界樹の迷宮に挑む前からあの刀は振るっていたから、世界樹の力で底なしの『気』を得たというわけでも無いだろう。
となると、三番目の可能性が濃厚だ。無論三つとも外れという可能性も無いわけではないが、四番目の可能性を考えるよりもこっちのほうが現実味がある。
「なるほど……よく分かった。礼を言う」
伝説からも消された禁忌の黒刀――相手がそれの持ち主であることが確認できただけであり、結局強敵であることに変わりは無いが、ともかくこれでやることは見えた。
「ならば、本題だ」
「ふむ?」
唇の端を吊り上げるその人間に、ゲリュオはゆっくりと刀を抜く。
「夜影刀を、遣して貰おう」
「……ほう」
静かに「気」を走らせ、戦闘態勢を整えたゲリュオは、敵対の言葉を誤解の余地無く明確に告げる。
「挑むのか、侍よ」
「ああ」
そう――少なくとも、同じ土俵に立てなければ、戦えない。
「……いいだろう。夜影刀を振るうに値する人間か、見極めてくれる!」
ゲリュオ、人間、共に上段。同じような構えを取り――戦いは始まった。
「っ!」
先手を取ったのは、相手の人間だった。消えたかのような速度でゲリュオの前に現れると、上段から刀を振り下ろす。斬馬といわれる、上段構えの侍が最初に覚える基本中の基本技だ。
対するゲリュオは、素早く身を捻って回避する。そのままお返しとばかりにツバメ返しを放つが、素早く振るわれた人間の刀で受け止められる。そのまま人間は大きく飛び退くと、腕から何かの塊を打ち出して攻撃してきた。
「はっ!」
ゲリュオはそれを、気炎の矢を放って迎撃にかかった。一本目で塊を打ち落とし、二本目が敵を焼き払わんと迫る。だが、人間の前方に半透明の大盾が出現したかと思うと、炎の矢はあっさりと受け止められてしまった。
しかし、ゲリュオもそれくらいは予測の内だ。盾を出現させて受け止めるという具体的な方法まではさすがに予測できなかったが、『当たらない』という結果が推察できれば十分だ。
炎の矢は、実際そこまで大した威力を誇る技ではない。勿論、威力を込めようと思えば込められるが、ゲリュオの戦いは基本的には近距離戦だ。受け止めるのか回避するのかは知らないが、要するにあの矢はただの牽制。本命は懐に入り込んでから放つ――
(もらった!)
――必殺のツバメ返し。ゲリュオの刀が空気を分断し、銀色の刃が逃れようの無い速度で相手を襲う。盾を解除したばかりで隙だらけの人間に逃れる術などあるはずもなく、ゲリュオの刀は相手の人間を一気に四等分して斬り裂いた。
だが。
「――――!!」
反射的に、ゲリュオは大きく地を蹴った。半瞬遅れて、敵から打ち出された無形の塊が、ゲリュオの立っていた地面を吹き飛ばす。とっさに刀を構え直すゲリュオの前で、煙がゆっくりと晴れていく。
そこにいたのは――
「……なんだと?」
コマを巻き戻したかのように完全な形でそこに立つ、夜影刀の守護者だった。