第三十六幕
交差する決意
凍てつく冷気が吹き抜けていく山の中で、一人のおっさんが滝に打たれ続けていた。
滝の水温はかなり低いはずだが、寒さに震える様子も無い。氷みたいな水に当てられながら微動だにしないそのおっさんは、素人の目から見ても実は驚異的な精神力の持ち主であることがはっきりと分かった。
おっさんの名はゲリュオ・キュラージ。ただのおっさんとは思えないほどの鋭い気配を放つ理由は、滝から少し離れた場所に置かれている彼の私物を見れば誰しも納得がいくだろう。
硬い甲羅で出来た頑丈な手甲。鬼神の絵が描かれた護符。そして何より、日本刀を振るったものなら誰しも分かるであろう、強大な業物の刀。
そう、ゲリュオは侍だった。
ついでに言うなら、この地もまともな場所ではない。標高・緯度、いずれも高く、氷雪に阻まれる山の中に切り拓かれて作られた極寒の自治区――和国。その山の奥深くに、この滝はあった。
並の人間なら一発で凍死するであろう氷のような滝の水。そこに打たれ続けながら、ゲリュオは微動だにしていない。
「――喝ぁっ!!」
と、その目がかっと見開かれた。ゴォッという音を立て、ゲリュオの体から凄まじい量の「気」が吹き上がる。その「気」は熱に、そして火に変換され、ゲリュオの周りを取り巻いた。
焦げた鉄板に水をぶちまけたような――というか、ほとんどその通りなのだが――音と共に、ぶつかり合った炎と水から真っ白な水蒸気が立ち上る。ゲリュオの体に炎が走り、極限まで冷やされた体温をゆっくりと戻していった。
ゲリュオは再び目を閉じて、精神を集中する。「気」を見れるクラスまで成長している者が見たら、彼の制御している「気」の量とその質に仰天しただろう。
停滞させず、されど暴走もさせず――そんな微妙なバランスを保ちながら、ゲリュオは「気」を体内に循環させて、平常値まで戻した体温を保っていた。膨大な量の「気」を漲らせ、変換させ、そしてそれを制御する――それが、「気炎」という力に目覚めたゲリュオの新たな修行だった。
やがて、体内を循環していた「気」は熱と火に再び変換されて放出され、滝と体の間に薄い防護膜を展開した。そのまま十数秒の時が流れ、ゲリュオは膜を自ら破る。当然、何の防御も無い体は再び水に冷やされていく。
そして――
「――喝あぁっ!!」
ゲリュオは再び「気」を解き放った。
「ソビエト・ロシアでは、新聞があなたを編集する!!」
一方その頃世界樹の迷宮では、相も変わらずフリードリヒ・ヴァルハラ(愛称ツァーリ)が永劫の玄王に大演説……もとい、呪言を駆使して戦いを挑んでいた。その横で、ツァーリの横を駆け抜けた炎の弾丸と風の刃が永劫の玄王に炸裂する。
第三階層・千年ノ蒼樹海――それが、今現在冒険者達が戦いを繰り広げている場所だった。
冒険者の内訳は「紆余曲折」というギルドメンバーから三人、そして「アルヴェーン」というギルドメンバーから一人である。
ギルド「アルヴェーン」は、かつてこの魔物の手により壊滅的な打撃を受け、解散の憂き目にまで追い込まれていた。そのこと自体は決して珍しいことではなく、樹海全体に目を向ければ、打ち倒され解散させられた冒険者ギルドなどごまんといる。全滅だって日常茶飯事の話だった。
だが、ここからが少々異なる点といえよう。
潰滅した「アルヴェーン」の中で一人生き残ったメディックのオルタネット・レイラインは(正確にはもう一人いるにはいるのだが、樹海の厳しさに挫折し故郷に帰ってしまっていた)、いつかこの永劫の玄王を打ち倒して仲間の敵をとってくれると息巻いていた。ちょうどその頃、ある事情でメディックを欠かすことになった「紆余曲折」は彼女の実力に注目し、オルタネットは一時彼らの仲間入りを果たしていた。
そして、まさに紆余曲折あってそのメディックは無事再合流を果たし、彼女の助力を必要としなくなった彼らは、今度はオルタネットの目的を果たしに出撃し、今に至るというわけである。
「紆余曲折」のメンバー内から出撃したのは、ベルド・エルビウムとヒオリ・ロードライト、そしてフリードリヒ・ヴァルハラの三人。特にベルドとヒオリのタッグは目下エトリアの冒険者の中でも最強のコンビで、二人が組めばエトリアの冒険者達に敵はいないとまで言われていた。
で、当の永劫の玄王は硬い甲羅で物理攻撃に大きな耐性を持っているため、ヒオリの魔法攻撃を主軸に攻めていく戦い方を取っていた。かつてこいつと戦った「紆余曲折」は、こいつの弱点が氷であることも知っている。
――吹雪を吐くくせに何故氷に弱いのかは不明だが。
「氷よ、突き抜けろっ!」
「こいつも食らえ、チェイスフリーズッ!」
トルネードの風と吹雪のブレスが激突し、その直後にヒオリの氷結の術式が炸裂。間髪入れずにベルドがチェイスフリーズで追撃をかける。二連撃を叩き込まれた永劫の玄王は体を仰け反らせて咆哮し――
「――行っけえぇ、オルタネットーッ!!」
「わああぁぁぁぁーーーーーっ!!」
フリーズオイルを塗られた杖によるオルタネット渾身の攻撃で、その巨体は闇に沈んだ。
ちなみに、今回の呪言は封の呪言・頭首である。
「倒した――倒したよ、みんな……」
倒れた永劫の玄王を前に、オルタネットは感動で涙を流していた。見事仲間の敵を取ったのだから、喜びもひとしおだろう。この後彼女がどうするかは知らないが、これで「紆余曲折」とオルタネットの協力関係も終わることとなる。
「ほい」
と、そのオルタネットの前に、ベルドは永劫の玄王から剥ぎ取った巨大な甲羅を差し出した。ほい、とか軽く言いながら渡した割には、両手でやっと支えられるくらい重い。きょとんとした顔を向けるオルタネットに、ベルドは笑ってそれを差し出す。
「百年甲羅、っつー代物らしい。仲間の墓があるんなら、こいつを売って花でも買って供えてやれ。心許ないんだったら直接供えてもいいかもしれんが」
「え? で、でも……」
「でももくそもねえ。お前のもんだ、持って行け」
「あ……えっと、ありがとうございます」
ベルドたちに持っていかれるとでも思ったのかもしれない。オルタネットは、意外そうな顔で百年甲羅を受け取った。途端、支えきれずにバランスを崩す。体勢を立て直したオルタネットは、やはり重かったのか、甲羅を地面に置いた。そのまま黙考すること十数秒――
「……すみません、持って行っていただけませんか?」
「あいよ」
やっぱりその言葉が出てきた。まあ、アリアドネの糸は渡していたが、これくらいはサービスしてもいいだろう。ベルドは長いロープを取り出すと、自分の背中に百年甲羅をくくりつけた。
「おう、いたいた。カレンー」
「あ、ベルドさん。どうかしたんですか?」
「ん? ああ、ちょっと渡すもんがあってな」
「渡すもの、ですか?」
それから数時間後、今日の修行を一区切りつけたカレンは、司祭たちの訓練場の出口でベルドと遭遇した。待っていたらしいベルドはカレンを見つけると片手を挙げ、懐から取り出したものを差し出してくる。
「ほい、これ。オルタネットから」
「あ、どうも……えっと、菓子折りですか?」
「ああ」
中を見たカレンは、何の変哲も無い感想を下した。
そう、それは菓子折りであった。何の変哲も無い、普通の菓子折りである。
墓参りや報告を一通り終え、エトリアを去ることになったオルタネットは、「紆余曲折」のメンバーに菓子折りを買って渡していた。その際、ヒオリが別にそんな気遣いなど要らないと言ったそうだが、オルタネットに是非にと言われて受け取ったらしい。
結局、代表としてリーダーであるベルドが受け取って全員に手渡すことになり、そのためカレンの所へやってきた、といったところだろう。一応、形式上とはいえリーダーはベルドだし。
「じゃ、そういうことで。きっちり、渡したからな」
「あ、はい」
カレンが菓子折りを手渡して、ベルドは少しせかせかしながら向きを変える。女性しかいないヴァルドやドルイドの訓練場に、いつまでも男が待っているのも浮くのだろう。それに、ベルドは(というよりグレインは)このモリビトの里の中ではいろんな意味で有名人だ。あんまり長居はしたくない。
「んじゃ、そういうこって。またなー」
周囲の目線を黙殺しつつ、でも居心地は悪いので、超足早に撤収する。
――だからこそ、彼は気づかなかった。
その中で、とりわけ暗い目線を向ける、一人の女の存在に。
「にしても、ずいぶん遅くなっちまったなー」
手元に二つの菓子折りを持ちつつ、ベルドはぼやいた。残った分は、ゲリュオのものである。彼は今現在和国へ修行に戻っており(ベルドたちは知らないが)、手渡す手段がないのである。一月で帰ってくるとは言っていたので、その折にでも渡せばいいだろう。保存の利くものであったのは幸いといえる。
時刻はもう、夜である。カレンの菓子折りは一応先ほど彼女本人に手渡したので、これでゲリュオを除いてはひとまず全員に渡し終えたことになる(ヒオリ・ツァーリはベルドと共にオルタネットから直接受け取ったため)。とりあえず、明日からまた修行だし、ちょっと早いけどもう寝よっかなー、とか何とか思いながら宿舎に戻り、自分の部屋の扉を開け――
「――――っ!?」
客が、居た。
その姿を、ベルドはよく知っている。月光を受けて淡く輝く、モリビト特有の緑色の髪。伝承者の服装がとてもよく似合うはずのその少女を、ベルドはよく知っている。
それは、
それは――
「――セレン・メトリック……」
――それは、少女なんて言葉では言い表せない。幻想――違う、妖精だ。
かつてのベルド・エルビウムの恋人にして、グレイン・フランティスの「人格」を求めたその少女。ヒオリをも超える整った顔と、メリハリのついたその体。自分を巡ってヒオリと戦い、勝負の結果は、他ならぬ自分が証明している。
その姿を見た瞬間、ベルドは金縛りにあったかのように動けなくなった。
セレンは、かつてこの部屋でヒオリと争い、自分を暴走させたときに、杖をこの部屋に忘れていた。ベルドはセレンの家を知らないため(グレインの記憶も自分のものになっているため、グレイン時代から知らなかったらしい)、取りに来るまでここに置いておくことにしていた。
だから、そう遠くないうちにセレンが来るのは分かっていた。
そして、そのときに自分がどうなったか、それを話して、杖を渡してきっぱりと別れるつもりだった。
だが、その目論見は、あえなく崩れた。窓の傍に立つ、『セレン』を見て。
「何故だ……」
かすれた声で、ベルドは呟く。
何故だ。
何故、お前は――
「……何も、着ていないんだ……?」
息を呑むくらい綺麗な肌。少女と大人が混同した、魔法がかかったようなその姿は、妖精という言葉がそのままぴったり当てはまる。
少年の声を聞いたのか、妖精はゆっくりと振り返る。
そして――
「グレイン……?」
一糸纏わぬ妖精は、手を伸ばして、かつての自分の、名を呼んだ。
「お前……どうして、裸なんだ……」
空白になる意識の中、ベルドはそれだけを搾り出す。セレンの姿を見た瞬間、己の中にあった何かを全て奪い取られてしまったように、体に力が入らない。
「お風呂入ってー、気持ちいいからそのまんまー」
悪戯っぽい声でそう言うセレンは、ベルドのほうに歩いてくる。何の迷いも細工も無く、ただ真っ直ぐに歩いてくる。思わず後ろへと逃げようとするが、すぐに壁に背をつけられて止まってしまう。目線を戻すと、すぐ目の前に、セレンのほころんだ顔があった。そして――
「――――っ!」
とす、と、手で軽く押すだけの小さな衝撃を、ベルドに加えた。それだけなのに、ベルドの体はあっさりとバランスを崩し、完全に脱力していた体は背中から仰向けに倒れこむ。反射的に受身を取れたことからすると、最低限の力は残っていたらしい。だが、思ったよりも軽い衝撃しか来なかった。
背中越しに、倒れたところを見やる。そこは、モリビトの宿舎に用意された、草を編んで作られた布団だった。
そしてベルドは、上を見る。
そこには――
――少年の上に馬乗りになり、こちらを覗き込んでくる妖精が居た。