第二十九幕

螺旋の邂逅


「頼みがあるのだけど、いいかしら?」
「――なんだ?」

世界樹の迷宮地下十八階・モリビトの里中央広場で、ゲリュオ・キュラージとフリードリヒ・ヴァルハラ(愛称ツァーリ)はふと声をかけられた。振り返ると、そこには見ず知らずの女性が立っている。金髪碧眼、中華風の衣服――だが何よりも右手に嵌るその篭手から、その女性がアルケミストであることをゲリュオは直感した。

「直接会話するのは初めてよね。私はローラ、カレンの母親よ」
「……ゲリュオ・キュラージだ」
「フリードリヒ・ヴァルハラ。ツァーリでええ」

名乗られたら名乗り返すが武士の礼儀。同年代のその女性に、ゲリュオも軽く自己紹介をする。そして、ツァーリも自己紹介を終えたのを確認すると、ゲリュオはいきなり切り出した。

「で、用件は?」
「ええ、それなんだけど……」

単刀直入。要らない世間話や下らない社交辞令など必要ない。余計な前置きは一切省いて、ゲリュオはローラに用件を問う。その聞き方が伝わったのか、ローラも前置き無しに用件を切り出してきた。

「カレンに、『紆余曲折』を脱退するように言ってくれる?」
「……なに?」

ゲリュオは眉を顰めて聞き返す。ローラが接触してきた以上、カレン絡みであることは推測出来たが、いきなりギルドを抜けろと言い出されることはさすがに想定外だった。

言葉をなくしたゲリュオに代わり、ツァーリがローラに返事を返す。

「いきなりその話はびっくりやな。理由を聞いてもええかの?」
「理由? そんなの、あの子を見ていれば分かると思うけど……」


「あの子は、私がいないとやっていけないからよ」


久方ぶりに、時間が止まった。

「……はぁ?」

ゲリュオが珍しく呆けたような声で返す。一体何を言い出してるんだ、こいつは――思わずそう返しそうになったが、すんでのところでそれを堪える。その間に、またしてもツァーリが返事をした。

「いきなり何を言い出すのかは知らんが……」

前置きを置いて、ツァーリは『紆余曲折』側からの所感を述べる。

「……そちらの思っているようなことにはなっとらんぞ。少なくともサガラ卿は、今までうまくやってきた。それはわしらも評価する」

ツァーリの意見に、ゲリュオも頷く。相性は最悪であるにしろ、戦友の評価を個人的な感情で捻じ曲げるようなことはしないし、してもならない。『紆余曲折』を脱退させろというのは、要するに『異国の月』に入れたいということだろう。ゲリュオ個人としてはカレンがいようがいまいがどうだっていいし(メディックが欠けるという点では少々痛いが)、抜けたいというなら別に抜けても構わない。

だが、何故それを今になって言い出すのか。結局、この場で言うんだったら――

「ならば、何故最初からカレンを連れて行かなかった」

そう、問題はそこだ。今になって脱退話を持ちかけてくるのであれば、そもそも最初からカレンを連れて行けばいい。少なくとも姉のサクラは連れているらしいし、だとするならどうしてカレンだけ置いていったのか。疑問点はそこにある。

その質問に対し、ローラは一つ頷いて答えた。

「私はそうしたかったわ。だけど、あの子がそれを望んだの」
「どういうことだ?」
「私たちの国が、イズモであることは知ってるわね?」
「……いや、知らないが」

ローラの確認に、ゲリュオは硬い口調で否定してみせた。聞いていないぞ、そんなこと。単に自分がカレンと仲が悪いから聞いていなかっただけかとも思ったが、横に居たツァーリも知らないようであり、どうやらカレンは誰にも話してはいないらしい。

そもそも仲間全員の出身地を把握しているというのも、決して当たり前ではないのだ。話したくない人間は話さないだろうし、例えば自分の出身地も「和国」という東方の国であるが、知っているのはベルドくらいのものだ。ついでに、隣に立っているツァーリの出身地なんて誰も知らない。わざわざ聞く必要もないし、冒険に直接関係する話でもないからだ。

だが、ローラにはそれが意外だったらしく、少々驚いて話を戻す。

「東方の国・イズモよ? 知らない?」
「イズモという国があるのは知っているが、カレンの出身地がそこだというのは知らなかった」
「特に聞いてなかったし、話されもしなかったからの」
「そう……じゃあ、イズモという国がどんな国かは知っているかしら?」
「詳しくは知らないが、教育制度に力を入れているとは聞いたことがある」
「ええ。私たちは、そこのイズモの出身なの」

そこまで話すと、ローラはどこか遠くを見る目をした。数年前に思いを馳せ、旅立ちと別れの理由を話し出す。

「……私たちがこの『世界樹の迷宮』を目指すと決めたとき、カレンはまだ十七歳だったわ」
「四年前か五年前ってことやな」
「始まりは本当に唐突だった。いきなり、サクラが何年も前から未だに踏破されていない『世界樹の迷宮』っていう大迷宮があるって話をどこからか聞きつけてきてね。全員でそこに向かうことにしたの」

ああ、サクラっていうのは私の娘ね。カレンのお姉ちゃんよ、と注釈を入れ、ローラは続ける。

「サクラはその時、もう学問所を卒業してたわ。だけど、カレンはまだその学問所の生徒だったの。私としては連れて行きたかったけど、周りの人間が大反対してね。それに、あの子自身も残って卒業することを望んだの」
「ってことは、娘さんを一人で放ったらかして行ったわけか?」
「家事全般はサクラが全部カレンに教えていたから、一通りのことは可能だったわ。それに元々その学校が全寮制だったから、問題は無いって結論が出たの」

そう言って話を締めたローラに、ゲリュオはしばらく黙考して答える。

「……なるほどな。だから、学校も終わって合流も出来た今、カレンを自分達のところへ引き込みたいから、俺たちに紆余曲折からの脱退話を切り出してくれと言いたいのか」
「そういうこと」
「……で、当のカレンの意見は」
「正直、揺れているわ。私たちのギルドに、カレンの師匠であるクランベリーって人がいるんだけど、彼女の言葉でますます、ね。だから、貴方達にカレンの背中を押して欲しいの」
「話にならないな」

ローラの希望を、ゲリュオは一言で切って捨てる。

「紆余曲折を抜けるんだか異国の月に入るんだか知らないが、そんなものは自分で考えて決めることだろう。俺たちがどうこう言うことじゃない」
「でも――」
「でも、何だ。卒業を望んで、それを受け入れたのはお前だろうが。そんなに心配だったら、あいつに首輪でもつけておけ」
「――言い過ぎや、キュラージ卿」

容赦なく言葉を放つゲリュオに、ツァーリがやんわりと止めに入る。だが、ゲリュオもその程度では止まらなかった。

ローラはもちろん、「紆余曲折」の面々でさえ誰も知らないが、ゲリュオ・キュラージは兄弟がおらず、しかも十三歳のときに両親と死別していた。その一ヵ月後に侍としての師匠に拾われたものの、それまでは完全に自分ひとりで生きてきた。そのため、他人に物事を任せるのを基本的に嫌っている。正直、ベルドとヒオリにも若干「情けないな」と思う局面もあったほどだ。

全くの偶然であるが、こういった話を持ち出すのには最も不向きな相手であったといえる。

「お前らの家族の都合なんて知ったことではないが、巻き込まれるのはごめんだ。そんなもの、お前ら自身で解決しろ」

とどめの一言を言い放ち、ゲリュオはローラの横をすり抜けて歩き去っていく。だが、後ろからローラの低い声が追いかけてきた。

「――待ちなさいよ」
「なんだ」
「……あなた、カレンをそんな目で見てるの?」
「何がだ?」
「首輪とか何とかって、あの子は犬なんかじゃない!」
「物の例えだ、馬鹿者が」

言葉の意味を大真面目に受け取ったらしく、ローラの瞳が怒りに燃える。やれやれ、ここまで来ると親馬鹿を通り越して過保護だな――あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いさえこみ上げてくるが、ゲリュオはそれを押さえ込んだ。代わりにため息をついて感情を排出するが、それもローラの癇に障ったらしい。篭手を向け、術式を組み上げてきた。

「……もういいわ。貴方達に、あの子を任せることは出来ない」
「任せる任せないはともかく、そんな考えならお断りだ」

術式の展開が終わり、後はそれを解き放つだけとなったローラに、ゲリュオも静かに「気」を走らせる。場の空気が急速にちりちりと帯電していき、一触即発の空気が漂い始める。そして――

「――やめないか、馬鹿者が」

今まさに戦闘が開始されようとしたタイミングで、男の声が割って入った。三人の視線が一挙にそちらに注目され、ローラが呟く。

「キョウスケ……」

その男――キョウスケは、ローラのそんな様子を無視して、ゲリュオに頭を下げてきた。

「済まない。ローラが失礼をした」
「え? あ、ああ……」
「ちょっと!」

いきなり謝られて戸惑うゲリュオに、ローラの声が割って入る。

「なんで頭なんて下げてるの!? こいつ、カレンを犬扱いしたのよ!?」
「ほぉ、そうなのか?」
「いや?」

ゲリュオは肩をすくめた。全く馬鹿には困ると、その全身が語っている。

「だそうだ」
「だそうだ、じゃないわよ! 貴方、私よりこの失礼な侍の言うことを信じるわけ!?」
「落ち着け、馬鹿者」

キョウスケは哀れむような目で、気炎を吐く妻を見つめる。

「お前はどうも、子供達のことに関して過保護になる傾向がある。さしずめ『あの子は私がいないと駄目だから紆余曲折を脱退するように言って』とでも頭ごなしに言ったんだろう」
「うっ……」
「いいか。カレンにも、カレンなりの事情というものがある。少なくとも、彼らとじっくり話してみなければ、何も分からないだろうが」

見事なまでに図星を突いた言葉は、さすがは長年の付き合いといったところだろう。相手の性格をよく分かっている。さらに、娘の事情を慮って冷静に判断するその姿は、どこかゲリュオ本人にも似通った所があった。しかし、なんでこの二人が結婚したんだ? 全くもってどうでもいい疑問を覚えつつ、ゲリュオは顔を別の方角へ向ける。そこには、全身を重鎧で包んだ一人の女性と、カレンと同じメディックの女性がいた。その視線に気づき、キョウスケは再び会釈をしてくる。

「さっきは済まなかったね。私はキョウスケ。ローラの夫だ」
「ゲリュオ・キュラージ」
「フリードリヒ・ヴァルハラや。ツァーリと呼んでほしい」

自己紹介をしてくるキョウスケにゲリュオとツァーリも自己紹介をする。ゲリュオとツァーリだね、と確認を入れると、キョウスケは本題を切り出した。

「カレンのことで、話がある」
「なんだ?」
「あの子の、身の振り方についてだ」
「だろうな」

話題は、完全にゲリュオの予想通りだった。それはそうだろう。『異国の月』の面々が四人も揃って訪ねてくれば、用件など簡単に推察できる。そんなゲリュオの様子を見て、キョウスケは話を続けた。

「今あの子は、『異国の月』に来るか『紆余曲折』に残るかを決めかねている。そのことについて、カレンも交えて君らと話をしたいのだが、よろしいだろうか?」
「別に構わん。どういう内容かはおいておくにしろ、双方納得のいく形で話がつけば言うことは無いしな。しかし、こちらとしてもいろいろ面倒な状況に陥っていてな。今すぐには応じられないのだが――」
「勿論、今ここで話し合いに応じてくれとは言わない。いきなり言い出したのはこっちだし、何より今はカレンがいない。本人を抜きに、話は始められないだろう」
「ああ」

キョウスケの言葉に、ゲリュオも頷く。筋と理を考えて行動するこの男に、ゲリュオは好感を持っていた。

「我々の宿舎の場所は知っているか?」
「ああ」
「では、都合がついたら我々の宿舎まで連絡してくれ。そうしたら、細かい場所や日時はそのときに決めよう」
「そうだな――っ!?」

と承諾の返事を返したゲリュオだが、次の瞬間物凄い殺気を覚えて振り返る。キョウスケたちはその行動が理解できないようだったが、数秒遅れてそれに気づく。さらに数秒の間を置いて――それは、現れた。


怖気すら走るほどに透明な瞳の、地獄さえ従えたと錯覚させる剣士が。


「ベル、ド……」

ゲリュオは半ば呆然として呟いた。あまりにも濃厚な「死」の気配を撒き散らす、彼の知っているベルドとはあまりにも違いすぎるその姿に、彼は言葉を失ってしまう。まさか。まさか――

「お前……さっき、誰に会った?」
「ヒオリ・ロードライトとセレン・メトリックだが、それがどうした?」

にぃ、と唇の端を吊り上げて哂うその男に、ゲリュオは全身が総毛立った。問い詰めたくなる感情を全身で押さえ、ゲリュオはベルドを睨みつける。その様子を歯牙にもかけず、ベルドは小さく哂って歩き去る。その姿が小さくなり、やがて消えた。

「キュラージ卿……」
「馬鹿が……」

声をかけてくるツァーリに、ゲリュオは吐き捨てるように唸った。当分会うなと言って別れてから、一時間と経っていない。自分の意志で会ったのか、それとも偶然で遭遇してしまったのかは知らないが、そんな事はどうでも良かった。冷や汗を流すゲリュオを見て、何かに気づいたのかキョウスケが聞いてくる。

「もしかして、あれが……」
「ああ。わしらの『問題』や」

ゲリュオの代わりに、ツァーリが答えた。

「話をするもクソも、まずはあやつをどうにかせなあかん。すまん、また連絡する」

それだけ言い置くと、ツァーリはゲリュオを促した。ゲリュオも頷き、急いでベルドのほうへ向かおうとする。と、その時、一つの影が転がり込んできた。

「ベルドはっ!?」

そう切羽詰まった声で聞いてくるのは、彼らのメンバーの一人、ヒオリ・ロードライトだった。ベルドの恋人でもあるが、今はある事情により、彼ともども複雑な位置に置かれている。その声に、ゲリュオが反応した。

「今さっきまで、ここにいたぞ」
「そう――ねえ、どうしよう! ベルド、正気失っちゃったよ!」
「見れば分かる。お前、ベルドに会ったか?」
「会った! それで、セレンも来て、言い合ってたらあんなになっちゃって、ボク、ベルドにひどいこと言っちゃんだ! ずっと一緒にいるって約束したのに、今のベルドも、何年前のベルドも、全部同じベルドだって言ったのに、それなのに、否定するようなこと言っちゃって――」
「……分かった」

ヒオリの話から大体のことを読み取ったゲリュオは、話を止めるように右手を出した。おそらく、セレンと言い合いになった時、セレンはベルドを、そしてヒオリはグレインを否定するようなことをそれぞれ言ってしまったのだろう。ただでさえ「自分」を見失いかけている時に、最愛の少女に同時に否定され――おそらく、ベルドは自己同一性を失ってしまったのだろう。となると、あれは――

「ベルドでも、グレインでもないな……」

およそ最悪の結末を想像してしまい、ゲリュオは苦い顔で唸った。その横で、ツァーリがヒオリに問いかける。

「それで、お前さんはどうするんや?」
「え、どうするって――」

なにを言っているのか分からないという顔をするヒオリに、ツァーリは話を続ける。

「そう意図したかどうかはともかくとして、お前さんはベルドを否定した。そして、ベルドは自分を失った。お前さんはそれを後悔した。で、そこから先はどうするんや?」

ヒオリの目を見つめて、小さく笑って、ツァーリはその質問を投げかけた。

「――まさか、ここでずっとめそめそしているわけでもないんやろ?」
「――――!!」

ヒオリの動きが、止まった。


「――うん」

しばしの沈黙を破り、ヒオリは強く頷いた。

「ボク、ベルドのところに行く。行って、謝ってくる。それで、ちゃんとベルドはベルドだからって、そう伝える」
「よし」

ヒオリの頭を、ツァーリは軽く叩く。そして、ゲリュオのほうを向いた。

「……というわけや」
「ふん」

ゲリュオは鼻で笑うと、そのままベルドの消えた方角めがけて走り出す。

「すまんの、スチュワート卿。これが片付いたら、追って連絡をする」
「ああ」

ローラが何か言いかけていたがキョウスケはそれを目で制し、ゲリュオたちに再び会釈した。

 

 

「ベルド!」

そして、それから数分――中央広場からやや北に離れた所で、三人はベルドに追いついた。歩いていたベルドは、その声を聞いて振り返る。

「なんだ?」
「え、えっと……」

聞き返されて初めて気づく。そういえば、どう切り出すべきかを考えていなかった。いきなり「ごめん」と謝るべきか、内容説明を先にすべきか。だが、ヒオリが対応を決めかねている間に、ベルドはふうとため息をついた。

「だから、用が無いなら話しかけるなといっただろう。俺は忙しいんだ、おしゃべりなら後にしてくれ」
「――ちょっと待て」

その言葉に、ゲリュオが低く割って入った。顔を向けるベルドに、ゲリュオは問う。

「お前、ベルドじゃないな?」
「だからどうした?」

一瞬の躊躇も無く、ベルドはゲリュオに言葉を返した。だからどうした? そう切り返され、ゲリュオの言葉が詰まる。それを見て、ベルドは小さく笑った。

「お前らがどうして俺を追ってくるのかは知らんが、さっきも言ったとおり、俺は今忙しい。さしあたり、こいつらと遊んでいてもらおうか」

その声と共に、ベルドはばっと片手を振るう。瞬間、左右の木が淡く輝き、そこから二人の女性が現れ出てきた。

一人は、モリビトと同じ緑色の髪をした女性。服は何も身に着けておらず、その髪が体の要所を隠している。目の色は髪に隠されて不明だが、髪の先端は赤く、先端の尖った長い蔦を握っていた。

もう一人は、深い紫色の髪を持つ女性。髪の先端も、少し淡くはなっているものの、分類するなら紫色である。先の女性と同じく一糸纏わぬ全裸姿をしているが、握っている蔦は先端が二つに分かれていた。

(うわっ……)

二人の姿を見て、ヒオリは思わず頬を染めた。出ているところは出て、引っ込む所は完全に引っ込んでいる。細身で巨乳、その色香――

全くどうでもいいが、「女」としては、ヒオリの完敗だった。特に、スリーサイズの一番上。

最低限のところしか隠されていないその女性は、同性のヒオリが見ても思わず頬を染めてしまうほどに艶かしい。

(ベルドも、こんな身体が好きなのかな……)
「……何やっとるんじゃ、ロードライト卿?」

ほとんど凹凸のない自分の体を眺めながら、ずーんと沈んでいるヒオリに、ツァーリがあっけに取られたように声をかける。その声を聞いて、ヒオリはわたわたと首を振った。いささかデリカシーに欠ける質問であったが、今はそんなことを考えている場合ではない。兎にも角にも――

「……キュラージ卿。こいつを片付けて、エルビウム卿を追うぞ」
「ああ。だが……」

頷いたゲリュオは、ベルドの消えた森の奥を指差すと、二人に告げる。

「お前らはとっととベルドを追え。この場は俺が引き受けた」
「お前さん一人でか!?」

その声には答えず、刀の柄に手を当てながらゲリュオは続ける。

「ヒオリ。お前は、ベルドにいろいろ言わなきゃいけないことがあるんだろう?」
「それは、そうだけど……」
「そうなったら、万が一殴り合いになった時に、お前一人じゃ荷が重い。だからツァーリ、お前も行け」
「だったら、食い止める役を――」

言い返しかけたツァーリの言葉が、途中で止まる。ゲリュオの意図するところに気づいたからだ。

「――なるほどな。じゃあ、危険かもしれんが、お前さんに任せてええかね?」
「ああ」
「分かった。ならば――」

そう告げると、ツァーリは二人の女性にメイスを向ける。同時、ヒオリもその二人に篭手を向けた。

「虚構に彩られし偽りの腱、まやかしで作られた仮初の筋、我、其を以って、総てを正しき道へ還さん!」
「炎よ、焼き払えっ!」

力祓いの呪言と大爆炎の術式。厳密に制御された二発の呪は、敵対する女性達だけに影響を与え、ゲリュオにはその威を振るわない。先制攻撃を叩き込まれ、怯んだ隙にゲリュオが居合いの構えに刀を揃えて斬り込んだ。

「頼むぞ、キュラージ卿!」

ツァーリの声に、ゲリュオからの返事は返ってこない。だが、二人の女性と果敢に戦うその背中が、さっさと行けと告げている。それを見て、ヒオリとツァーリは踵を返してベルドを追った。

 

 

「ベルド!」
「――――?」

そして、それから数十秒と経たぬ内に、二人はベルドに追いついた。意外そうな顔でベルドは二人を振り返り、そしてふっと息をつく。

「意外と速かったと思えば、ゲリュオがいないな。足止めか」
「ああ。せやから、今は無駄口を叩いている暇はないんや」
「だったら、なんだ? 尾けられているというのは、物凄く気分の悪いもんなんでね。さっさと用件を言ってもらわないと――」


「――殺すぞ」

その言葉と同時、ベルドの「気」が爆発的に上昇した。素人でも分かるその高まりは、絶対的な威を以って二人を襲う。だがその中で、ヒオリは一歩も退かなかった。

「ベルド――」

一つ一つ、言葉を選ぶように。漠然と考えていた言葉を、ゆっくりと繋げて。ヒオリは、ベルドに語りかける。

「――ごめんなさい」
「…………?」
「ボク……約束、破っちゃったよね」
「約束……?」

ヒオリの言葉に、ベルドは眉を顰める。記憶の共有は起こっていないのか――推測している暇は無い。

「二年前のベルドも、十年前のベルドも、何もかも全部ひっくるめてベルドなんだって言っておきながら、ボク、ベルドのこと否定しちゃったし」
「……………………」
「だから、ごめんなさい。そして――」


「ボクは、ベルドが好きです。今のベルドも、昔のベルドも。だから、きっとグレインも好きになれると、そう思います。だから……」

文章にもなっていなくて、だからこそ赤裸々に綴られる想いと言葉は、それが真実であるということを暗に語っている。

「お願い、ベルド。お願いだから、戻ってきて――」
「……………………」

涙ながらに訴えるヒオリを、ベルドは醒めた目で見つめていた。永遠とも思える長い沈黙の後、ベルドはふっと笑ってヒオリに告げる。

「だったら、何故……」


「……あいつに、そう言ってやらなかった……?」

ベルドの呻きは、ヒオリの心を貫いた。何故そう言ってやらなかった。理由なんて、自分でもよく分かっている。後悔したって遅かった。なぜなら。なぜなら――

「気づいたのが……ほんとに、今さっきだったから……」
「そうかよ……」

力なく笑うベルドの顔に、暗く荒涼とした素顔が覗く。空気が漏れるような笑いを漏らし、ベルドは哭いた。

「……遅いよ……もう、遅いって……」

乾いた声。流れる、血。

グレインのときも、そうだった。

ベルドのときも、そうだった。

ただ、自分は――


「――どいつもこいつも、否定しやがって。終わった先に、お前かよ」


ヒオリにはグレインを否定され、同時にベルドも否定された。

セレンにはベルドを否定され、同時にグレインも否定された。


「もう、消えろ……」
「……ベル、ド……」

――もう、見ていられない。

もう、見たくもない。

「消えろよ、ヒオリ。もう、俺の前から消えてくれ……!」
「……いやだ」

だが。

その問いに対して、ヒオリは小さく答えを返した。

勝手だと分かっていながらも、ヒオリにとっても、絶対に出来ない相談だった。

自分はどうして、馬鹿なことをしたんだろうと。後悔しても遅いなら、もう壊れてしまったのなら。

「……いやだ!」

どんな形でも、責任を取ろう。叶うなら、もう一回、戻ってきて欲しいから。

グレインでもベルドでも、そんなのはどうでも良かったのだ。彼女が好きになったのは、彼なのだから。

「……離せよっ!」
「いやだ!」

身をよじったベルドに、ヒオリは全力で飛びついた。ベルドは思い切り舌打ちすると、ヒオリの体を力任せに薙ぎ払う。

「っがっ!」
「離せ、っつってんだろうがぁっ!」
「いや――」

言い終わる前に、ベルドはヒオリを手近な木の幹に叩きつけた。ヒオリの言葉が途中で止まり、一瞬力を失った体がベルドから落ちる。だがヒオリは、ベルドが逃れる前に腕に力を入れなおして、ベルドの足にしがみついた。

「行っちゃやだ、消えちゃやだぁ!」
「うるっ、せえぇっ!」

――手加減なんか、なかった。

ベルドを認め続け――グレインを否定したヒオリと話をしていることは、同時に自分を否定されてるも同じだった。

ヒオリの腹を、女の子の下腹部を、思いっきり蹴り上げる。その体が思いっきり宙に浮かび、地面に墜落する前にベルドはヒオリの首を掴んで再び木の幹にたたきつけた。

「死ねよ! てめえなんか、さっさと死んじまえよ!!」
「か……は……」

ヒオリの両手が、ベルドの腕を剥がそうとする。だが、前線で戦ってきた剣士の腕は、魔術師の力では逃れられない。ぎりぎりと首を締め上げる腕を引き剥がそうと、魔力を込めたその瞬間――

「――止めろ、エルビウム卿!」
「――――ッ!!」

ツァーリの声が、ベルドの体をたたきつけた。

「貴様、ロードライト卿を殺す気か! ……貴様が、その娘を助けたんやろうが!」

地面に落ちて激しく咳き込むヒオリの前に、ツァーリは憤然と割って入る。しかし、なおも言い募ろうとしたツァーリを、ヒオリは止めた。

「いいんだ……」
「なんやと?」
「いいんだよ、ツァーリ。ベルドをここまで追い詰めたのは、ボクなんだから……」

まだ、少しだけ咳き込みながら。ヒオリは再び立ち上がる。

「ベルド。……グレイン」
「…………」

二人の名前を、同時に呼んで。果たして効果はあったのか、ベルドの動きが少しだけ鈍る。

「ごめんなさい。謝ることしか出来ないけれど、ボクはベルドが、好きになってしまいました」
「…………」
「グレインは、直接はボクは知らなかったけれど。でも、グレインが過去のベルドなら、ボクは、ベルドと一緒に好きになります」
「……ヒオ、リ……」
「だから……もう一回だけ、チャンスをください。ベルドと、グレインと、話し合えるチャンスをください。……ボクは、ベルドのものだから。そのためなら、ボク、君になら、どうされてもいいって思えるから。ちゃんと伝えられるなら、もう、殺されてもいいって、思えるから」
「…………!!」

――そいつが、剣を振り上げる。それこそ振り払うように叩き下ろした剣から、真空の刃が迸る。ヒオリは何もせずに、甘んじて体で受け止めた。衝撃を逃がすために、吹き飛ばされることすらせず。踏みとどまって、一撃を受けた。

「ごめんなさい。今、ボクの前にいる君は、どっちなのか、今のボクには、分かりません。だから、ベルドでも、グレインでもいいから、返してください。君が話を聞いてくれるなら、どうか、話を聞いてください」
「…………」
「……ベルド。どうすれば、戻ってきてくれますか。何回、ごめんなさいって謝れば、戻ってきて、くれますか……?」

音もなく、ベルドは歩み寄る。ヒオリの目の前まで歩いてくると、揺れる双眸でヒオリを捕らえる。ヒオリはその目を正面から見つめ返し、ベルドの瞳に問いかける。ベルドは顔を逸らすと、今度は拳を振り上げる。そして、そのまま――

「――――っ!!」

ヒオリの鼻っ面に、痛烈な一撃を叩き込んだ。防御行動も取らず、ヒオリはやはり体で受ける。追い討ちは来なかったが、ヒオリはくらりとよろめきかかる。それでも、倒れることはせずに、やはりベルドを正面から見つめ返す。ベルドは顔を悲痛にゆがめると、三度拳を振り上げた。

「よせ、エルビウム卿!」
「やめて、ツァーリ!!」

ベルドを止めたツァーリの声を、ヒオリの絶叫がかき消した。出てくる鼻血も拭わないまま、ヒオリは大きく首を振る。

「ベルドは、何も悪くないんだ! 悪いのは、全部ボクなんだ! 裏切ったのは、全部ボクで、騙して傷付けたのも、全部、ボクで――」

結局、自信が無かったのだ。溺れるほどに愛されたいと言ったベルドのあの言葉は、嘘なんかではなかったのだ。だから、自分がいると言ったのに。どんなことがあったって、一緒にいると言ったのに。

「今更、分かったような口を――ッ!」

三度目の拳が、ヒオリの右目を直撃する。まともに食らえば、失明したっておかしくない。今度こそ、光を失ってもおかしくない。なのに――ヒオリは、動かなかった。

本当に、一緒にいるつもりだった。

ベルドと、歩いて行きたいと思ったんだ。

そう、思っていたはずなんだ。

「だから、だから、お願いだから、ツァーリは口を挟まないで! ベルドは、なんにも悪くないんだから! ボクは――それだけのことを、したんだから!」

思っていた、はずなんだ。

――今でも、思っているはずなんだ!

「ロードライト、卿……」

殴られても、斬られても。かつての家で、リーシュに、ゴーンに、名も知らぬ貴族達に、痛めつけられた記憶が蘇る。だけど、今はそんな記憶に、苛まれている場合じゃない。

まだ、目は潰れてなかった。

よかった。

まだ、ベルドを見ていられるから。

ベルドが、振り払うようにヒオリを殴る。木に体を押し付けて、強引に何かを追い出そうとする。ベルドが今、何から逃れようとしているのかは、ヒオリ自身にも分からなかった。でもそれが、ベルドの痛みだとでも言うのなら。

「えへへ、聞こえるかな、ベルド。いたいよ」
「て、め、えっ……」
「ふふ、いたい。ボク、この場で、殺されちゃうのかな」
「…………!!」
「まだ何も、してあげて、なかったのにね。まだ、なにも、返せて、いなかったのにね。えへへ、ねえ、もう一回、戻ってきてほしいよ。ボクのこと、何やってもいいから、殺してもいいから、犯してもいいから、忘れてもいいから……戻ってきて、ほしいよぅ……」

首が、絞まる。だんだん、意識が薄れかかる。ベルドは今、ヒオリを殺しかかっていることにすら、気付いていないだろう。

だから。

止めてくれると、思わないから。

ヒオリは最後に、もう何度も告げたはずの、この想いを、何度だって届けたかった。

「好き、だよ、ベルド。もう、何されても、幻滅なんか、出来ないぐらい、大好きだよ。……好き、だよ、ベルド、大好き、だよ……」
「…………ッ!!」

 

 

(一体、何がどうなってるんだ……!?)

ベルドは訳が分からなかった。

何故、ヒオリごときの言葉でここまで揺れなければならないのか。いや、それどころか、今では完全に圧されている。

『何故』、その言葉が、ベルドの脳裏で幾度と無く繰り返されていた。

『何故』、ヒオリの言葉に戸惑うのか。
『何故』、ヒオリは倒れないのか。
『何故』――ヒオリを、殺さなければならないのか。


「――――っ!!」

浮かんだ疑問は、ベルドの思考を止めさせる。考えるまでも無いことのはずだった。自分は今忙しい。邪魔をするなら、容赦なく――

――何に、忙しいんだ?

(決まってる。そんなもの、俺を否定したものを片っ端から消し去るためだ。俺はただ、そのためだけに――)

――本当に、そうか?

(当たり前だ。でなければ――)

――それが、否定され続けてきた少女を、かつて自分がその価値を認め、愛した少女を、その手にかけることになってもか?

(それは――)


「ヒ……オ、リ……!」

搾り出した言葉は、彼女の名だった。

そして。

「ベルド……?」

間髪いれず、最愛の声が届いてきた。

 

 

どうして、ヒオリは食らいついてくるんだろう。

意味も無く殴ることなんてしない――それは、ヒオリと付き合うときに決めたことで、理不尽な暴力は最早トラウマになっているはずで、あんなことされたら絶対に離れるはずだったのに。

緩んだ腕の隙間から、ヒオリの体ががくりと崩れた。地面に激しく咳き込んで、それでも再び立ち上がってくる。

「ベル、ド、ベルド……!」

咳き込む喉の合間から、ヒオリが名前を呼んでくる。

ベルド。

たった三文字の、何も与えられなかった小さな響き。記憶を失ったグレインの上に張り付いた、偽物に過ぎないマガイモノ。

本物では、ないのだ。

否定されるべきはずの、マガイモノだったはずなのだ。

なのに。

なのに。

「ベルド、グレイン、ねえ、ベルド、ねえっ、ねえっ、聞こえてますか!?」

自分と交互に、もう一つの名前を呼んでくる。

グレイン。

たった四文字の、何も与えられなかった小さな響き。自分に意義を持たないまま生まれ、ベルドという人格で打ち消された、亡霊に過ぎないマガイモノ。

もう、生きては、いないのだ。

否定されるべきはずの、マガイモノだったはずなのだ。

なのに。

なのに。

「――ヒオリ」

どうして彼女は、訴えかけてくるのだろうか。

「ベルド!?」

どうしてそんなに、嬉しそうな顔をするのだろうか。

「……セ、レン……」

そして。少なくとも本物だったはずの彼を、受け止めてくれたはずの彼女は、どうしてここにいないのだろうか。

「……リ……」

彼女を、求める。

「あ……リ……セ……、リ……」

偽物は本物と一緒に受け入れてくれるといっていて、でも本物は偽物との間で迷ってだけど本物で偽物が本物で本物で偽物で

「……、リ……、ぅぁ、リ、セリ、どこにいるんだよ、セリ――ッ!」
「…………!!」

“セリ”。セレンと、ヒオリと。グレインとベルドがごちゃごちゃになった、あの時の状況と同じものだ。

「ベルドッ!」

戻ってきた。どちらでもなくなり、飲まれてしまった状態から、この状態まで、戻ってきた。

「ベルド、聞こえる!? ねえ、ボクだよ、ヒオリだよ!」
「……ヒオリ? ヒオ、リ、セリ、ヒオリ、ヒオリ、どこに、なあ、今、どこに――ッ!!」
「ボクはここだよ、ここにいるよ! ずっとずっと、ベルドの隣にいるんだから! ベルドが好きで、でもグレインは昔のベルドで、だからグレインも好きで、でもベルドのほうが好きで! ごめん、やっぱりボクは、ベルドがいないとだめなんだよ!!」
「ヒオリ、あく、ヒオ、リ――!」

手が、探るように空を動く。その手がヒオリの体に触れた瞬間、ベルドはヒオリの体を探る。まさぐるというよりは、そこにいることを確かめるように、その体がどこにあるかを探し、求め、すがりつく。

「ヒオ、リ、ヒオリ――!」
「ベルド、ベルド! ねえ、ずっと、ずっとずっと、ボクはベルドの傍にいるよ! 迷惑だなんて言われても、もう離れてなんかあげないんだからぁ!!」

ベルドが消える絶望を、心の底から味わった。もう、失いたくないと、本気で思った。痛いほどに強く自分を抱き締め、すがり付いてくるベルドを、ヒオリも渾身の力で抱き締め返す。他の一切を、気にかける余裕もなかった。後先を考える、余裕もなかった。喉から声と共に血をも迸らせてるんじゃないかと思えるほどのベルドは、ひたすらに叫び、子供のように泣き喚いて。ヒオリもただただ、ベルドの声に、偽りない思いを返していた。

 

 

「……………………」

夢。

夢を、見ていた。

上っていくような落ちていくような、不思議な感覚。そんな中で、ベルドはふと、目を覚ます。身を起こして周囲を見渡すが、何も分からなかった。

「……どこだ、ここ?」

周囲は真っ暗で、何も見えない。確かにここに立っているという感覚はあるのに、微妙な浮遊感は未だに体を支配していた。

「……君自身、だよ」

そんなベルドに、どこか懐かしい声が聞こえてきた。記憶の奥底にある、澄んだボーイソプラノの声。真っ暗だった闇の中に、一人の少年が輪郭を結ぶ。

「はじめまして、かな。直接会話するのは、初めてだよね」
「……そうだな」

目の前の少年の正体を、分からないベルドではなかった。その姿は、まるで自分の生き写し。鏡に映した自分の姿から、七年の歳月とへらへら笑いを差し引けば、ちょうどこんな姿になる。

それは紛れも無く、七年前に失ったもう一つの人格、グレイン・フランティスだった。

「だが、どうして俺たちは会話できてるんだ?」
「最初に入れ替わった時が、いつだったか覚えてない?」


ベルドの問いに、グレインは答える。最初に入れ替わった時というと――ああ、直後にヒオリに「誰?」とか聞きやがった時か。ええと、確かあれは……

「……いつだ? 寝てる最中か?」
「そうだね。君が寝ている最中に、僕が体を乗っ取った」
「やれやれ、勝手なことするんじゃねえよ」
「そうかな? それでも、僕を受け入れることが出来なかったのは、君自身なんだよ?」
「そういや、そうだな。そりゃ、お互い様だ」

へっと笑ったベルドに、グレインも笑って話を続ける。

「体の入れ替えは、相手の魂を身体の奥底に沈めこんで、空っぽになった肉体に自分が入り込んで行われるみたいなんだ」
「へぇ……言われて見れば、たしかにそんな感じだな。自覚症状無かったけど」

そうだろうね、とグレインは頷く。なんでお前は知っているんだ、というベルドの問いに、グレインは笑って返す。

「そりゃあ、何回も入れ替えを行っていれば、なんとなく感覚で察しはついてくるよ」
「ちっ……」

どうやら、「グレイン」は「ベルド」よりも勘が良かったらしい。全くの偶然という可能性もあるだろうが。

「だから、僕がベルドの魂を体の奥底に引きずり込んで、そのまま対話を行っているんだよ」
「……つーことは、今の俺は?」
「寝ているよ。ヒオリさんの腕の中で、泣き疲れてね」
「……おいおい、泣き疲れて寝るって、いくつだよ」

致し方ない部分もあったといえど、ベルドは小さくため息をついた。ああ、そういえば、ヒオリを散々に殴っちまったな。誠心誠意、謝んなきゃな。そんなことを思うベルドに、グレインは本題をぶつけてくる。

「でも、あのヒオリさんの姿を見て分かったんだよ。君は、否定なんかされていないってね」
「どういうことだ?」
「確かに僕らは否定された。それぞれの、最愛の少女の手によってね」
「ああ」
「でも、君は同時に、認められてもいた。その背を見て近接戦闘の参考にした男がいて、君自身をリーダーにして結成したギルドがあって、そして何よりも、君の事を真剣に求めてくる少女がいた」
「それは……お前とて、同じなんじゃないのか?」
「セレンのこと?」
「ああ」
「確かに、彼女はね。だけど、そのレベルが違いすぎるよ」

首を振って、グレインはベルドに話を続ける。

「セレンは、ヒオリさんの言ったとおりなんだ。彼女にとって、僕はあくまで『大切なものの一つ』でしかない。家族がいて、友達もいて、仲間もいて――そんなものたちに囲まれて、その上に求めるものに過ぎないんだ」
「…………」
「だけど、ヒオリさんは違う。彼女にとって、君は『何物にも変られない、たったひとつの大切なもの』なんだ。セレンにとっての僕の価値と、ヒオリさんにとっての君の価値は、決して等価なんかじゃない。君のほうが、圧倒的に大きいんだ」
「……かも、しんねえな……」
「だから、僕は――」

遠くを見て、小さく頷くベルドに、グレインは一拍置いて結論を告げる。

「――この体を、君に譲ろうと思う」
「……え?」

ベルドの動きが、止まった。

「……どういう意味だ?」
「別に何も意味なんか無いよ。言葉どおりの意味さ。僕は、この体を完全に君に渡す。それ以外の意味なんて無いよ」
「だが、それはお前自身の消滅を意味することでもあるんだぜ?」
「それも分かってる。だけど、僕はもう、君の体を使う意味なんてないんだよ」
「何故、そう言える」
「さっきも言ったでしょ? ゲリュオ・キュラージ、フリードリヒ・ヴァルハラ、そして何よりも、ヒオリ・ロードライトという一人の少女。君はもう、これだけの人間に必要とされているんだから。対する僕にはセレンしかいないし、そのセレンもヒオリさんと比べれば圧倒的に小さいしね」

確かに、その想いは二人の行動を見ていれば分かる。自分の記憶が間違ってなければ、暴走して出てきた時、グレインでもベルドでもなくなったことを二人共に示していたはずだった。それに対してセレンは愕然としていたが、ヒオリはそれでも追って来た。

殴られようが首を締め上げて殺されかけようが、ただがむしゃらに、「彼」を求めた少女の姿。それは紛れも無く、出会って数ヶ月と経っていない少女が、数年の付き合いを跳ね返してセレンを圧倒した瞬間だった。

「少なくとも、彼女は君を必要としている。そして、外的要因が理由といえど、ここ数年この体を使ってきたのは君なんだ。僕なんて、もはや何年も前に消えたはずの、記憶の残滓に過ぎないんだから」
「……そうかね」
「七年前、僕は記憶を封じられると同時に消滅した。そして、その上に生まれたのが君なんだ。だから、君はまだまだ、この世界で生きる義務がある。第一、あのヒオリさんを捨てて消えられるほど、僕も君も、冷徹に出来てはいないだろう?」
「…………、そうだな…………」

『ベルド・エルビウム』として得たものと失ったもの。得たものが周囲からの信頼であり、ヒオリからのあそこまでの愛情であった以上、その全てを背負っていくことはベルドとしての義務であり、そして何より必然だ。無かったことには出来ないし、忘れることも出来ない。リセットなんて、出来るはずがなかった。

「それに――君は、強かったよ」
「何がだ?」
「君は強かった。そう言ってるんだ。本当は僕も……君の記憶は、持っていたんだから」
「……なんだと?」
「分からないかな? 多分一度だけ、君の記憶から言葉を引っ張り出したことがあると思うんだけど」
「……………………?」

グレインの言葉を受け、ベルドはしばし黙考する。そして――唐突に、それに気づいた。


「人違いじゃないの? ……さっきからベルドベルドって、僕はベルド・エルビウムなんて名前じゃないよ?」


「……気づいたみたいだね」
「……だったら、なんで……」
「怖かったんだよ。君の記憶を受け止めることで、僕自身がどうなるのか、皆目見当もつかなかった。だから、君の記憶は封印して、僕は『グレイン』だけで振舞おうとした」

だけど、君は違った。ベルドもグレインも受け止めて、二人分で悩んでいた。そう言って、グレインは話を続けてくる。


「二人の狭間で悩んだ君と、自分の問題だけで悩んだ僕が、同じような結果になったなら、やっぱり君は僕以上に強いんだよ」

「……だから、か……?」

「うん。だから、もう行きな。君を必要としている人が、君の帰りを待ってるから」

 

 


「……オ、リ……?」

抱きしめている少年が、ぴくりと動いた。対するヒオリは、少年の名を呼び返す。何十度と続けたやりとりだが、ヒオリはその名をもう一度なぞる。

と。

「…………」

少年が、ベルドが顔を上げてきた。青緑の双眸が、ヒオリのことを捉えている。ごそごそと腕を動かすと、その手がゆっくりと伸びてきて。そのままベルドは、ヒオリの乾いた血の痕を拭った。

「……ごめん」
「……え?」
「……痛かった、よな。本当に、ごめん」
「ベル、ド……!」

その声に、ヒオリはベルドの回復を悟る。もう何か考えるよりも早く、ヒオリはベルドを力いっぱい抱きしめていた。

「ベルド、ベルド……! ねえ、もう、大丈夫なの?」
「……ああ。ごめんな」
「――――っ!!」

喉奥が詰まって、言葉が全然出てこない。ベルドも含めたギルドで一緒に戦って、ベルドと二人でデートして、そんなありふれた幸せがまた帰ってきたことが、直感的に分かったのだ。ぶんぶんと大きく首を振り、ヒオリはほとんどベルドを押し倒すようにして、地面へと一緒に倒れこんだ。

「ごめん、ごめんなさい……! ボクが、ボクが、全部……!」
「……ごめん。本当に、ごめん」

記憶はあるのか、ベルドも何度も謝ってくる。そんなことなくて、ベルドは全然悪くなくて、ヒオリは何度も首を振る。

「ねえ、もう、おかしくなっちゃったりしない?」
「ああ。もう壊れはしないし、グレインの奴とも話し合いはついたからな」
「うぇ、ひぐっ……!」

謝らなければならないのに、言いたいこともたくさんあるのに。帰ってきたと分かっただけで、こんなにも涙腺は緩んでしまって。気がつけば、いや、気づくより早く、ヒオリはベルドの首筋に顔を埋めて、ただひたすらに大泣きしていた。

「……うぁ、あ、ベルド、ベルド……!」
「うん。うん……」

ベルドは何事もなかったように、ヒオリの頭を撫でてくる。いつも通りのやりとりが、ベルドがまた帰ってきてくれたことが、何よりも何よりも嬉しくて。感情が訴えるまま、安堵感のままに大泣きする。

死ぬのなんて、怖くなかった。でも、ただひたすら、ベルドと離ればなれになってしまうのが嫌だった。

えぐえぐとしゃくりあげて、また泣いて。何度かそれを繰り返して、少し落ち着き始めたころ。ベルドは、小さく聞いてくる。

「……あの、さ。その、ずっと、俺の隣にいてくれるって……あれ、その、本当に、俺の傍に、いてくれるの、か……?」

言葉にするには、まだしゃくりあげていて。その代わりにと何度も頷いて返すヒオリに、ベルドは不安げに確認してくる。

「その……俺なんかで、いいの、か……?」

強く、首を横に振る。そんなんじゃないんだ。そんなんじゃなくて――

「ベルドじゃなきゃ……ベルドじゃなきゃ、グレインとも、折り合いをつけてこれるほど強くて、リーシュを倒せるほど強くて、かっこよくて、ボクだけの英雄になってくれた、ベルドじゃなきゃ……ベルドじゃなきゃ、ベルドじゃなきゃ、嫌だぁ!!」
「ヒオリ――ッ!!」

ベルドも、ヒオリを思い切り抱き締め返してきた。

 

それからは、二人してぐしゃぐしゃになった。泣いて、謝って、また泣いた。自分のほうこそと言い合って、何度も何度も、泣いて泣いて謝った。どこか信じられなくて、これが今の現実であると、何度も何度も確認した。

悪いのは自分だったと思い込んでいて、でもそれは、本人以外には変えられなくて。お互いの全てを受け入れて、また泣いて。


ベルドは、ヒオリとグレインを受け入れて。

ヒオリは、ベルドとグレインを受け入れて。


彼らは、その夜、成長して。心ごと、生まれ変わった。

ただ互いだけを、強く強く、抱き締めて――

 

 

 

 

 

 

 

第二十八幕・破滅の双曲線

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第三十幕・絆が生んだもの

 

 

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