第二十八幕

破滅の双曲線


その叫びは、人のものではなかった。

消え行く自我のその中で、せめて己の存在だけは証明しようと叫ぶ、生命体の断末魔。赤子が聞いたら一生もののトラウマを起こしかねない、そんな咆哮だった。

生き物の放ったその叫びに、叫ばせた元凶達の動きが止まる。

「……ベル、ド?」
「ぐううぅぅぅああああぁぁぁぁぁぁぁぁ―――――――っ!!」

その絶叫が最後だった。元凶――ヒオリ・ロードライトとセレン・メトリックから逃げ出すように、断末魔を上げた生命体は転がるように逃げ出していく。

制止の声は間に合わず、追うことも出来ず。ヒオリとセレンは、呆然とその場で立ち尽くすしかなかった。

 

 

「…………」

同刻。ゲリュオ・キュラージは、モリビトの長・アルカナの住居を出てどこへとも無く歩いていた。元の顔は決してカッコいいとはいえないが、黒髪で総髪、左目に負った傷に幾多の修羅場を潜り抜けてきたが故の鋭い眼光と、一部の女性に地味にモテそうな外見であるが(本人自覚ナシ)、そんな女性達も今は決して話しかけないであろう雰囲気が今の彼からは漂っていた。

一言で言えば、不機嫌だった。モリビトの長・アルカナの屋敷を訪れたゲリュオは、ベルド・エルビウム消滅の話を受けた。その真意を問いただしたとき、アルカナは笑みを浮かべて、たった一言こう言った。

そのうち分かるときが来る、と。

その「分かるとき」はベルドが消滅してからなのか、それとも手遅れになってからか。アルカナを尋問して問いただしてもよかったのだが、さすがにモリビト全てを敵に回す愚かさを知らないゲリュオではない。結果、悪い宣告を受けた以外進展は無く、ともすれば不機嫌になるのも当たり前だった。

「……相変わらず凄い顔だの、キュラージ卿」
「なにっ!?」

反射的に飛び退る。一体何者だ――刀の柄に手を当てたゲリュオだったが、相手はそれが予想外だったらしく、うおぉいと言って両手を上げる。なんだ――? そのときになって、ゲリュオは初めて相手の正体を把握した。

全身黒ずくめの真っ黒な法衣。体を取り巻く金の鎖。魔術師とは思えないほどの重装備をするその男は――

「フリードリヒ・ヴァルハラ……」
「何故いきなりフルネームや?」

で、あった。よほど考え事に集中していたのか、こんなに近くにいるのにその気配に気付かなかった。不覚だな、そう思いつつ、ゲリュオはフリードリヒ(愛称ツァーリ)に話しかける。

「何か用か?」
「いや、そういうわけではないんやけどな。お前さん、何か物凄い顔やったからの。悩み事でもあるのではないかと思って聞いてみたんや」
「そうか……」
「何かあったんか?」
「いや、な……」

ツァーリの質問に、ゲリュオは言葉を濁す。言ってしまっていいのかどうか――しばし逡巡するが、すぐにそれが無駄だったことに気付く。口止めされているわけでもないし、する必要も無い話だからだ。

「ベルドのことなんだが……」
「エルビウム卿?」

こいつなら信頼できる。そういう価値基準もあって、ゲリュオはツァーリに話し出した。

どんな冒険者ギルドの中でも、メンバーの相性の良し悪しはある。「紆余曲折」もそれは例外ではなく、中でも抜群の相性を持つのが、現在話題の渦中にあるベルドとその恋人であるヒオリのタッグ、それからゲリュオとツァーリの二人だった。ちなみに最悪の相性を持つのはゲリュオとカレンのコンビで、例えばここにいたのがカレンだったらゲリュオも決して話さなかったに違いなかった。


ベルド・エルビウム。彼らのギルド「紆余曲折」のリーダーにして、現在非常に微妙な立ち位置にある少年である。

ベルドは、自分が冒険者になる前の記憶を失っていた。だがその記憶は自然に失われたものではなく、モリビトの手によって封印されていたことも明らかになった。モリビトと人間の混血児である彼は、その体内に「グレイン・フランティス」というモリビトの人格を併せ持っている。ベルドとグレイン、両者ともかなり強い自我を持つが故に人格統合は未だに行われず、二人は一つの体を巡って激しいぶつかり合いを起こしている。アルカナに指摘されたのはここであり、曰く、人格同士のぶつかり合いの中で、当の人格自身が耐え切れなくなって崩壊し、グレイン・フランティス諸共ベルド・エルビウムは消滅する、そういう話だった。

アルカナから聞いてきたことの大体のあらましをツァーリに話し終え、ゲリュオは眉を顰めて相談した。

「……というわけなんだが、どうするべきだろうか?」
「せやな……」

ツァーリは腕を組んで考える。だがひとまず、確認しておきたいことがあった。

「まだ、エルビウム卿は消滅してはいないのか?」
「ああ、最後に見た限りではな」
「人格が衝突するタイミングは分かるか?」
「ベルドでいるときにセレンに会うか、グレインでいるときにヒオリに会えば、人格は衝突を起こして入れ替わるな」
「となると、今のところの対処法としては――って、ん?」

ゲリュオの意識が集中され、ツァーリの口が開かれた時――


目の前に、渦中の少年が転がり込んできた。

 

 

「はあっ、はあっ、はっ、は……っ」
「おい、大丈夫か!?」

転がり込んできた少年の様子を見て、ゲリュオは思わず声を上げた。顔面は蒼白で、その顔には一面冷や汗が浮かんでいる。尋常ではない様子に、ツァーリも質問をぶつけてきた。

「何があった、エルビウム卿」
「――――っ!!」

その言葉に、少年はびくりと反応した。大きく体を痙攣させ、その体が断続的に震える。その震えはだんだん小さくなり――そして、止まった。

「そうか……俺、ベルドなんだ……」

うわごとのように呟く少年――ベルドを見て、ゲリュオに嫌な予感が走った。即座に「気」の探知を起動、少年の体内に走らせる。数秒の間を置き、ゲリュオの顔が顰められていく。隣に立っていたツァーリが聞いた。

「どうした、キュラージ卿」
「……『気』が、打撃を受けてやがる……!」
「……なに?」

『気』の減少。文字にすればほんの数文字のこの事実が、ゲリュオをどうしようもなく焦らせた。『気』が減少したということは、魂、つまり生命力そのものが打撃を受けたことに等しい。どうしてこんなことになったのか――理由など、推測するまでも無かった。

「お前……ヒオリとセレンに、同時に会ったな?」
「……ああ……会った……」
「手っ取り早く言う。ヒオリとセレン、どっちかならまだしも、両方同時には絶対に顔を合わせるな。これ以上やると、お前の命にかかわる」
「……何のことだ」
「とぼけるな。お前だって、薄々感づいてはいるだろう」

聞き返すベルドを、ゲリュオは容赦なく追い詰める。いつも歯に衣を着せないゲリュオであるが、今回はいつにも増して苛烈であった。というのも、ベルドの気の減りようからゲリュオには簡単に推測できてしまったからだ。もしも、次にヒオリとセレン、この両名に同時に会ったとしたら、ベルドは確実に崩壊する。むしろ、今均衡を保てているのが奇跡に近いレベルだった。

「……分かった」

ゲリュオらしくも無い切羽詰まった声音を聞いて、ベルドも真剣な顔で頷いた。ベルドはゲリュオと違い「気」を読む能力はない。だが、そんな能力があろうとなかろうと、長い間死地を潜り抜けてきた冒険者たちで、自分の体の不調に気づかない奴はいないだろう。そんなことも分からないようであれば、とっくにどこかでのたれ死んでいる。

「分かったら、とりあえず今日は帰れ。出来れば、当分ヒオリにもセレンにも会わないほうがいいだろう」

それは、もしかしたらヒオリの誓いを破ることになるかもしれない。「誓い」と呼べるようなものでなくとも、交わした約束を違えることの厳しさを、ゲリュオはよく知っている。

だが。

(……許せ、ヒオリ)

今回ばかりは、そういうわけにも行かなかった。

 

 

「……ひどい顔だね、どうかしたの?」
「レンム……!」

数分後、自分の宿舎に帰っていたベルドは、ある人物と遭遇した。モリビトの中でもかなり高い地位を持つ、儀式行事を執り行う家系の嫡男――レンム。人並みはずれた幸運の持ち主で、同時に「掟」厳しく排他的なモリビトの中でも、人間の世界に興味を持つ珍しい少年でもあった。

直接の面識こそ少なかったものの、「人の世に興味を持った問題児」であるレンムと、「忌み子の男」グレイン。両者は両者とも、互いの存在を強く意識し続けていた。

「聞いたよ。最近、ベルドって人と人格がごちゃごちゃになってるんだってね」
「……ベルドは俺だ」

笑いかけてくるレンムに、ベルドは苦い顔で切り返す。ああ、それは失礼したね。そう言ってレンムは、ベルドに用件を切り出した。

「面倒くさいし、単刀直入に行こうか」

レンムの言葉を、ベルドはある程度予測していた。高い地位にいるなら、当然彼は知っているはずだ。むしろ、知っていなければおかしいし――

「セレンと、ヒオリさんって言ったっけ。彼女たちに対してなんだけど――」

――それを聞いてこないほうが、不自然なのだ。

「――結局、君は、どうしたいんだい?」

具体性の欠片もない、それ故にあまりにも明瞭な問い。そして、それに対する答えを、ベルドは持ち合わせていなかった。星空を見上げ、途方に暮れたように言葉を返す。

「……分かんねえ。もう、分かんねえよ」

星空を見上げて――力なく地面に座り込んで、ベルドは自嘲交じりに呟いた。

 

 

「……いた?」
「いなかった。そっちには?」
「こっちにもいないよ」

モリビトの里・コタン神社の境内で、ヒオリとセレンは息を切らしていた。二人が探しているのは、突如として絶叫を上げ、怯んだ隙に走り去ってしまった少年である。我に返った二人は手分けして少年の捜索を開始したが見つからず、結局同じ場所に戻ってきてしまった。

「うぅ、どこ行っちゃったんだよ……」

不安げに呟きながら、ヒオリは視線を走らせる。そんなヒオリを、セレンが鋭い目で睨みつけた。

「……あんたのせいよ」
「……何がだよ」

呟かれたヒオリも、ムッとしてセレンを睨み返す。そんなヒオリに、セレンは冷たく張った声で言い放つ。

「あんたがグレインからベルドなんて人格を呼び出すから、グレインがおかしくなっちゃったんじゃない」
「それを言うならセレンだって同じじゃない。ベルドとグレインを入れ替えれば、ぴったりセレンにも当てはまるよ」
「そうかしら? 元々、あの体はグレインのものよ。ベルドなんて人格は、記憶を封印されて抜け殻になったあの体に張り付いた、作り物に過ぎないんだから」
「でも、今の『彼』はベルドなんだよ。そんな過去の幻影に、いつまでもしがみついてんじゃないよ」
「じゃあ、あんたはグレインのことをどれだけ知ってるのよ? 趣味は? 癖は? あの優しげな目をどうしてするのか、あんたはそれを知ってるの?」

痛烈な反問を打ち返され、ヒオリの言葉が詰まる。あるいは、他の言葉だったら反論できたのかもしれない。だが、趣味も癖も、いずれもヒオリは知らなかった。気がついたら傍にいて、気がついたら好きになってて、気がついたら告白されて、気がついたら恋人同士で――そこへセレンは、ヒオリを追い詰めるように言葉を放つ。

「どれだけ一緒にいたのか知らないけど、そんな薄っぺらな付き合いで、グレインに近づかないでくれる? 何も知らないで纏わりつかれても、彼も迷惑なだけなんだから」

自分の優位を確信したのか、冷笑を載せた高飛車な声で。セレンはヒオリを切りつける。

「だいたい、グレインには私たちと一緒に森を守る使命があるの。あんたらみたいな人間のように、何も考えずに忘れ暮らして、ぬくぬくと育ててくれる親の元も飛び出して、同じような連中と集まって楽しく冒険しましょうねとかふざけたことやってられる連中じゃないのよ」

ヒオリの顔が、だんだんうつむき加減になっていく。ほら、何か言ってみなさいよ。そう言ってとどめを刺すセレンに、ヒオリはぽつりと呟いた。

「……いんだよ」
「え?」
「いないんだよっ!!」

言葉がうまく聞き取れず聞き返したセレンに、ヒオリの感情が爆発する。

「いないんだよ! ボクには誰も! 奴隷として、ただの労働力として、代替物として産み落とされて、道具のような扱いしかされなくて! 殴られて蹴られて、親も家族も友達もいなくて、ボクに安らぎなんて無かった!」

叩きつけられる激情に、セレンは特大の地雷を踏んでしまったことに気付く。だが、一度決壊した堤防は、そう簡単には止まらなかった。

「君にはいるんでしょ!? あったかい家族も、笑いあえる友達も! でも、ボクにはベルドしかいないんだよ! 家族も仲間も誰もいないの! だから、お願い――」


「――ボクから、ベルドを取らないで!!」
「――――っ!!」

涙声で叫んだヒオリは、踵を返して駆け去っていく。それに対し、セレンは反論することも追うことも出来なかった。

セレンはヒオリの過去を知らない。何があったかなんて、彼女がどれだけベルドという存在に助けられているかなんて、そんなものも分からない。セレンは、取り立てて特徴のある家に生まれたわけではなかった。代々吟遊詩人をやり続けている、平凡な普通の家。だからこそ――ヒオリの言葉の端々からにじみ出ていた恐怖と絶望は、その片鱗だけでも、十分にセレンを縛り付けていた。

それでも。

それでも――

「――諦められるわけ、ないじゃない……」

遠い過去に思いを馳せ、セレンは小さく呟いた。


十二年前。セレン・メトリックは、異様な速さでヴァルドとして覚醒した。何の訓練も受けず、自分でも分からぬまま、唐突に。だが、それを知った家族の反応は凄いものだった。


天才。神童。奇跡の再来。


そんなんじゃないのに、自分はもてはやされ続けた。家族の目の色は変わり、遊びの時間は全て特訓に奪われた。辛くなって、家を飛び出して逃避行したこともあった。実際はただの遊び場である広場に行っただけで、すぐに連れ戻された小さな家出だったけど、それでもあの頃は必死だった。

なのに……


――今さら、何しにきたんだよ。


かつての仲間達の反応は、あまりにも冷酷だった。子供の集まりは、時として残酷だ。何日も遊びに出なければ、それだけで内部のメンバーは入れ替わる。


――ごめんな、三人三人で分かれるから、お前は悪いけど入れられないや。


そう言われて立ち去られたとき、仲間にも見捨てられたことを幼心に悟ったとき――その男は、現れた。


――なに、やってるの?


顔を上げた先にいたのは、他のモリビトとは違う、青みのかかった髪の持ち主。グレイン・フランティスという忌み子がいることを、セレンも話に聞いて知っていた。


――あんなのと話しちゃいけません。あれは、あなた達とは違うんだから。


そう言われて、今まで一言もしゃべらなかった。だからこそ、その時は親への反発もあったのかもしれない。捕まって引きずり戻されるまで、ずっとグレインと話していた。

それ以降は親も考え直したのか、厳しい特訓は無くなった。今までどおり自由に家を出て、遊ぶことも許された。だが――セレンは、もう友達と遊ぼうとはしなかった。いつも一人でぽつんと立ってる、青緑の髪を持つ男の子と話すのが、いつしか彼女の日課になっていた。

それを知った親の怒りは凄かった。グレインは思いっきり殴られ、その親を介した執拗な嫌がらせも始まった。グレインが同年代の男の子たちにいじめられはじめたのも、確かちょうどその頃だったろう。

自分のせいだと思った。だから、自分はもうグレインとは会わなくなった。心に鍵をかけて、忘れようとしたことも覚えている。

だが――もう、できなかった。疲れ果てていたあの時に、たった一言投げかけてくれた言葉――ほんのそれだけのことから始まった付き合いなのに、そんな彼の存在が、いつしか大きくなりすぎていた。気がついたときには手遅れで、自分はどうにもならない気持ちを抱えて泣いた。たまに顔を合わせるとき、弱々しく笑うグレインを見て、何度胸をかきむしりたくなったことか、もう数えてもいない。

そして、七年前。グレインは唐突に姿を消した。

そのときはむしろ喜んだ。純真で無垢で、何も知らなかった幼い恋――やっとこの想いから開放されると、皮肉にも想い人が消えた瞬間にそう思った。

 

なのに――七年ぶりに会った少年は、かつての幻想と何も変わらぬ姿をしていて――またこうして、セレンの胸をかき乱す。

どれだけヒオリの過去が辛かったのか、苦しかったのか、セレンはそんなの知らなかった。だが、それがどれだけ大きなものであっても、この想いを譲る気にだけは、絶対になることは出来なかった。

 

 

「……………………」

ギルド「紆余曲折」に貸し与えられた宿舎の自室で、ベルドは布団の上に仰向けに寝転がっていた。


――結局、君は、どうしたいんだい?


レンムと交わしたその言葉は、彼の頭の内部を未だに渦巻いている。思考は堂々巡りを続け、結論は未だに出ないまま。時間だけが過ぎていくという言葉の意味が、嫌というほどよく分かった。

否、結論など出るはずがないことを、もしかしたら分かっていたのかもしれない。己の体内で脈動する、もう一つの「彼」の存在が故に。

グレイン・フランティス。自分の数年前の人格にして、己の中で同居する「過去」。「ベルド」とあまりにも相反する性格の故に人格統合が起こらず、場合と状況によっては二人の人格が入れ替わるような状況も起こっていた。

この二重人格状態を何とかしない限り、完全に結論は出ないだろう。片やヒオリと共に、片やセレンと共に歩む結論を出してしまっているのだから。

だが、どうやって人格を統合させればいい。話し合いで解決するにしろ、肉体が一つしか無いのだから話せるわけがない。文字通り「自分の胸に聞いて」みても、人格がベルドであるならベルドの答えしか返ってこない。それこそ夢の中でもう片方が出て来でもしない限り、彼らは対話することさえ出来ないだろう。


こん、こん。


「……ベルド、いる……?」

控えめに呼ばれたその声は、「彼」の片割れの恋人、ヒオリのものだ。ああ、いるぞ――投げやりに答えたベルドの声に、遠慮がちに扉が開かれる。

「体調……どう?」
「……ああ、一応はな」

答えになっていない答えだったが、ヒオリは一応、納得したようだ。部屋の中に入ってくると、ベルドの隣に腰掛ける。それをベルドは、追い払うことも出来ずにそれを見ていた。


――出来れば、当分ヒオリにもセレンにも会わないほうがいいだろう。


そう、ゲリュオの言葉が蘇る。

彼の言っていることは正しい。どちらにも会おうとしないのなら、ついうっかり遭遇したときにも早急に別れれば何とかなるが、どちらかに会っている状態でもう片方に遭遇してしまえば、確実に先ほどのようなことが起こるからだろう。

だけど。

「無理だ……もう、無理だよ……」
「何が?」

今の状況で、無防備な笑顔で、無邪気な表情で寄って来られて、拒絶なんて出来るわけがない。もしもこの場にゲリュオがいたら「情けないな」の一言で切って捨てたことだろう。それ以前に、自覚が出来てしまうレベルであった。

「……レンムの野郎に会った」
「うん」
「で、あいつに『お前はどうしたいんだ』って聞かれてさ」
「……うん」
「……そんなもん、分かるわけねえだろうが。俺はお前と一緒にいたくて、あいつはセレンの隣を望むんだから。人格は二つあんのに、肉体は一つしかねえんだぜ? この体を真っ二つに引き裂いてやることが出来たなら、いっそ楽なのかもしれねえのにな……」

畜生。腕で目を隠して、強がることも無く赤裸々に。ベルド・エルビウムは、呟いた。

 

 

意外だった。

いつもへらへら笑って、軽口叩いて、おどけてみせるあのベルドが、ここまで弱音を吐いている。レンムとやらに言われたことが相当図星だったのか、強がりさえ言おうとはしなかった。

「ねえ、ベルド……」

言うべき言葉なんて思いつかない。ここまで弱ったベルドを、どう元気付けてあげられるのかも分からない。だけど、放っておくことはできなかった。何を言うべきか分からなくて、それでも何かしてあげたくて、だからヒオリは、口を開く。

そして、そんな、最悪のタイミングで――


「グレイン、いるの?」


その女は、やって来た。

 

 

「セレン・メトリック――ッ!!」

その姿を見た瞬間、ベルドは絞り出すように声を発した。ヒオリはベルドをかばうように前に立ち、両手を広げてセレンの前に立ちはだかる。それを見て――セレンの表情が侮蔑に歪んだ。

「狂ってどこかへ走り去ったかと思えば――」

ふっ、と嘲笑を口元に浮かべて、セレンは嘲う。

「――しっかりグレインに媚売ってるんだ、淫乱女」
「うっさいな、黙れよ」

せめぎあう眼光が、虚空に火花を散らす。焦燥と嫉妬――あまりにも必死で、そしてあまりにも意地汚い眼光。その均衡を崩すのは、やはりセレンだった。

「また、ベルドになってるわけ?」

ヒオリの後ろで歯を食いしばるベルドに、セレンは眉を顰めて言葉を飛ばす。ベルドが何か答えようとするも、ヒオリのほうが先だった。

「だから何さ?」
「しつこいってことよ。その体の持ち主が誰か、分かっているのに譲らない。『この体は俺のものだ』って、そういってへばりついてる、くだらない存在ってことよ」
「それはこっちのセリフだって言ってるでしょ。今の彼はベルドなんだ。グレイン・フランティスなんて人格は、七年も前に消えたんだから」
「ぐうぅっ……!」

言い返しかけたセレンのセリフは、ベルドの呻きによって中断された。ベルドがグレインに入れ替わる、予兆のようなその呻き。だが、今回の呻きは少し違った。自分の胸に五指を突き立て、頭と胸を掻き毟る。その喉から搾り出される言葉は、既に意味を失っていた。

だが。

「……グレイン!? グレインなの!?」

セレンも、

「――行っちゃやだよ、ベルドッ!」

ヒオリも。

「うるさいわね、その名前を呼ばないでよ!」
「こっちのセリフだっていってるじゃない、しつこいなあっ!」

それに気付くことは、出来なかった。二人の言葉が同時に放たれ、続く言葉は当然のように恋敵に向けられる。そして――

「それに、ベルドもベルドよ! なんで、いつまでもその体を使ってるのよ!」
「黙れよ、グレイン! おまえのせいで、ベルドがどれだけ苦しめられてると思ってるのさ!」

――おそらく二人は、その矛先を、考えうる限り、最悪の方角へ向けてしまった。


「――記憶を失ったグレインの上に張り付いた、表層人格に過ぎない男が!!」
「――何年も前に消えたはずの、幻想に過ぎない偽者のくせに!!」
「――――――っ!!」

ベルドの口から、耳を劈く叫び声が溢れ出た。それは、この世に生きることを否定され、許されなくなった生き物が、末期に残す断末魔。先ほどヒオリとセレンに挟まれた時に放った絶叫を人のものとは思えないと評するならば、これはもはや生物の口から放たれたとさえ思えなかった。苦痛と悲鳴を凝縮し、そのまま音として解き放ったような、そんな音。

少年の断末魔が夜空に轟き、そして消える。そして、それきり何の言葉も発さなくなった。

 

 

「……ベルド……?」

どれくらいの時間が経っただろうか――ヒオリは、おそるおそるその名を呼びかける。

反応は無かった。白目を剥いて倒れた体は、もはやぴくりとも動かない。

「グレイン……」

そして、今度はセレンが声をかける。紡ぎ出された声が、何の役割も果たすことなく虚空に消え――

――少年の体が、動いた。


地獄のように重苦しい静寂を打ち破り、グレインはゆっくりと立ち上がる。絶望に染まった顔のヒオリと、希望に輝く顔のセレン――見事なほどに対称的な二人の姿を、グレインは無表情に見比べていた。

そのまま、一歩、二歩と歩き出し、立てかけてあった剣を手に取った。ふむ、と口元に笑みを浮かべて呟いたグレインに、駆け寄ったセレンは腕を絡める。


だが。


「邪魔だ、セレン」
「えっ……?」

心臓が凍りつくほど冷徹な声で、グレインはセレンに放つはずも無い一言を言ってのけた。そのままグレインは少女の腕を振り払う。そして、彼女の横をすり抜けて部屋の出口へと歩き去っていく。

「ベルドッ!」

呆然とするセレンの横で、今度はヒオリが声を発した。だが、それは「彼」がセレンの腕を振り払ったことに対する喜びの情は微塵も無い。身を引き裂かれるほどの不安と、心が壊れるほどの喪失感――胸の内で暴れる感情を押さえつけながら、ヒオリは少年の名を呼んだ。

「なんだ?」

少女の声に、少年は振り向く。その目を見たとき――ヒオリは言葉を失った。

色が、ないのだ。憎悪も希望も愛情も、その瞳にはなにもないのだ。かける言葉を失って、かといって目を逸らすことも出来なくて――金縛りにあったかのように動けなくなったヒオリに、ベルドは笑った。

「んだよ。用件がねえなら話しかけんじゃねえ」

緊張感の無い緩んだ笑みで、いつもと同じ軽薄な声で。でも、その顔だけは、絶対に違う――

地獄の、貌だった。

 

 

 

 

 

 

 

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