第二十七幕

正解のない選択肢


「……ねえ、ベルド」
「なんだ?」

世界樹の迷宮地下十八階、モリビトの里――そこに貸し与えられた「紆余曲折」の宿舎に戻りながら、ヒオリはベルドに声をかけた。返事をするのを確認し、ヒオリは疑問に思っていたことを聞いてみる。

「ベルドってさ、グレインになっているときの記憶はあるの?」
「一応な。とはいえ、その時の体の所有権はあいつにある。俺のほうは寝てる感覚に近くて、あの状態から体を操作することは出来ねえ」
「そうなんだ……」
「だが、ヒオリの言葉を聞くと、どうしてか意志が働くようになるんだ。なんつーか、寝てるのを起こされる感じか? んで、それからグレインの体を内側から乗っ取る感覚に近いな」

あれ、なんか本題から外れてきたな。そう言って頭をかいたベルドに、ヒオリは疑問顔になって話を続ける。

「……でもさ、ゲリュオが質問して分かったんだけど、ベルドになっているときの記憶は、グレインには無いみたいなんだよ」
「……なに?」

その答えは意外だったのか、ベルドは小さく眉を顰めて振り返った。

「うん。例えば、ベルドだったら多分覚えているんじゃないかなっていう質問を、グレインは全然答えられなかったし」
「……あれか。三年前に俺とあいつが出会った街の名前を覚えているかっていうやつ」
「うん。ベルドは覚えてる? ベルドとゲリュオが出会った、街の名前」
「確か、ウィルゼノールだったはずだが」
「ふうん、そうなんだ。やっぱり、覚えてるんだね」
「まあ、忘れるでもねえからな」

ベルドはそう相槌を打つと、ふと前方を指差した。

「ところで、着いたぞ」
「……あ、本当だ」

見ると、そこはもう「紆余曲折」の宿舎前だった。中に入り、自分の部屋の前まで来ると、ベルドはヒオリに笑いかける。

「んじゃあ、おやすみ。また明日な」

片手を上げて、エトリアの宿でもよくやっている行動をするベルドだが、今回のヒオリの返事は芳しくなかった。いつもなら「うん、おやすみ」あたりの返事が返ってくるのに。その態度に不審を抱いたのか、ベルドは眉を顰めてヒオリに聞いた。

「なんだ? なんか言い残したことでもあるのか?」
「……ううん。そうじゃ、ないんだけど……」
「じゃあ、なんだよ。添い寝してほしいって言うんだったら考えないでもないぞ?」

へらへら笑って――ほんの冗談のつもりだった。

なのに。

「……うん。じゃあ、一緒に寝て」
「……は?」

ヒオリときたら、大真面目な口調でそれを望んだ。

「いやお前、ちょっと待て。一緒に寝ろって、お前何言ってんのか分かってんのか?」
「……うん、分かってる」
「あのなあ、一応俺も男なんだぞ。この前添い寝したときといい今回といい、お前危機感欠落してんじゃないのか?」
「かも、しれないね……」

弱々しく笑うヒオリに、ベルドは大きくため息をつく。かわいそうだが、今回ばかりはベルドにも譲る気は無かった。

「とにかく却下だ。さっさと自分の部屋に戻れ。一緒に寝て、俺の理性が吹っ飛んでからじゃ遅いんだぞ」

犯すぞお前。滅茶苦茶軽い口調で言いつつ、ぴっとベルドはヒオリの前に指を突き出す。その瞬間、ヒオリの顔にさっと影がよぎった。

しまった、とベルドは一瞬で後悔する。かつて奴隷だったヒオリにとって「犯す」というキーワードは、おそらくまだ生々しいものとして残っている。冗談でも言ってはいけなかった――自己嫌悪に落ちるベルドだったが、ヒオリの言葉は違っていた。

「……よ」
「あ?」
「いいよ、ベルド。しよっか」
「はあっ!?」

ヒオリがどこかおかしいとは思っていた。自分がグレインと化してしまってから、元気が無くなってしまったのもなんとなく分かっていた。

なのに。ここまで危なくなるなんて、さすがに想定してはいなかった。

「……ああ、もう、分かったよ! 犯さねえから、さっさと布団と枕持ってきやがれ!!」

結局、こうして言うことを聞いてしまうのは、自分が甘いせいだろうか。ベルドは、そう思わずにはいられなかった。

 

 

そして、結局ヒオリは、ベルドの部屋で一緒に寝ることになった。最低限の予防線として布団は別々にすることにはしたが、正直それもいつまで保つか分からない。

――いいよ、ベルド。しよっか。

そう言われたのだから、いっそのこと襲いかかってしまってもいいのかもしれない。だが、一時の性欲でヒオリを傷付けることだけはしたくなかった。

それに、今したとしても、どこか突き抜けきれない感じが残るだろう。

記憶のこと。セレンのこと。そして何よりも、これからも必ず出てくるであろうグレインのこと。

これだけの気がかりがある中で、その行為に及べといわれても無理がある。とはいえ体は正直で、心臓は散々に高鳴ってその行為を望んでいた。言うまでも無く、理性はそれを拒絶している。

相反する感覚のぶつかり合いの中で、ベルドは大きくため息をついた。


――今日は……眠れそうにねえな……

 

 

「超ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーよく寝たぜっ!!」

翌朝、ベルドは河原で大きく伸びをしていた。ため息をついてから二十秒、彼の意識は速攻で闇に落ちていた。したいという体とするべきじゃないという脳は反発しあっていたが、とりあえず「疲れた」という点に関しては同意見だったらしい。

我ながら単純だねー、と思わずにはいられないが、まあ悶々と過ごすよりはマシだろう。そう頷いて自己完結することにする。

ヒオリはまだ部屋にいる。朝、自分の部屋に戻っていったヒオリは「河原で待ってて」との言葉のもと、めっきり出てこなくなってしまった。昨晩離れるなといったくせに自分から離れていくのはどういう了見かは知らないが、彼女に言わせると「だって、寝た後でボサボサになった頭とか汚れのついた顔なんて、ベルドに見せたくないんだもん」だそうだ。そんなこと言われた日にゃ並の男なら泣いて喜びそうなセリフだってことを分かっているのかいないのか。ひとまず、セリフから推測するに一応眠れはしたらしい。その点はまあ、よしとしよう。

「お?」

ヒオリが出てくるのを待っている間、朝日(なのかどうかは知らないが)を受けて輝く川面を見ていたベルドだが、ふと横に気配を感じて目をやった。

「おう、ゲリュオか。おはよーさん」
「ああ、おはよう」

気配の主はゲリュオだった。怪訝そうな顔でベルドを見て、確認するように聞いてくる。

「お前、ベルドだよな?」
「当たり前だ、見りゃ分かんだろ……って分かんねえか、聞かなきゃ」
「ああ。しかし、その言葉遣いはベルドだな」
「そうだな。俺が自分のことを僕なんていうのは、七年前で終わってる」
「質問があるんだがいいか?」

単刀直入。せめて言ったことには返事してから切り出せよとも思うが、それがゲリュオなのだから仕方が無い。いつものことなので、ベルドも特には突っ込まない。

「なんだ?」
「まず一つめ。昨日の朝、俺と会った記憶は残っているか?」
「ああ、もちろんだ。相変わらず難しい顔だなー、そろそろ子種の無いことでも悩みなのかーって聞いたら朝っぱらから殴り倒されたな」
「…………一応、覚えているみたいだな。では、その前日の朝、ヒオリと会った記憶は残っているか?」
「……ああ、残っている。グレイン化してたときだろうが、記憶はある」
「そうか……ならば三年前、俺たちが出会った街の名前は何だ?」
「ウィルゼノール」
「よし。そうしたら、最後だ」
「ああ」
「お前が、グレインからベルドに戻ったのはいつだ」
「昨日の夜、ヒオリに話しかけられた時に、だ」
「……そうか」

全ての質問の返事を聞いて、ゲリュオは一つ頷いた。

そして、その数秒後にヒオリは出てきた。

 

 

「…………」

カレン・サガラは悩んでいた。彼女の悩みは当然、これからの身の振り方である。「紆余曲折」に所属し続けるか、「異国の月」に入るか。正直、彼女の心はもう決まっていた。「紆余曲折」を脱退し、「異国の月」に入る。そう結論を出したのは、昨日の夜遅くだった。

そうなるのも無理はないのかもしれない。カレンももう二十二歳の大人ではあるが、家族と触れ合っていた時間は決して長くはなかったのだから。

東の国「イズモ」で生まれ育った彼女は、全寮制の学校に入れられていた。家族は基本的に冒険者ギルドを結成して各地を飛び回っており、その挙句に行方不明になってしまった。音信不通のまま何年も経ってやっと出会えた家族であり、そのギルドに入らないかと持ちかけられれば、頷きたくなるのも人情であろう。

だが、彼女の頭は現在、父・キョウスケの言葉を反芻し続けていた。

それは母・ローラと会話し、やはり「異国の月」に戻って来いといわれた直後のことだった。

 

 

「……カレン。聞きたいことがある」

そう言って入り込んできたのは、ギルド「異国の月」のリーダー、クランベリー・クラインとメンバーの一人、キョウスケ・セガールであった。前者は自分にメディックとしての技術、そのイロハを叩き込んだ師匠でもあり、後者はローラの夫にして、自分の父でもあった。冒頭の言葉をぶつけたのはキョウスケであり、したがって最初に口火を切るのも彼だった。

「お前はこのギルドを、どう思っている?」
「このギルドって……『異国の月』のこと?」
「そうだ。先ほどローラと話しているのを聞いたから来てみたが、どうにも俺の考えではお前は『異国の月』を正しく捉えていない気がする」
「……どういうこと?」
「言葉通りだ。カレン、お前は『異国の月』をどう思っている?」
「それは……」

聞かれて、即座に答えは出なかった。家族がいて、師匠もいて、自分の帰る場所で、そして――

結局こうだと断言は出来ず、あの時自分はこう答えた。

「……家族のいるギルド、でしょうか」

当たり障りのない言葉ではあっただろう。だが、それは同時に、もっとも真実に近い答えであったともいえる。しかし、それを聞いたキョウスケの答えは非情だった。

「ならばだめだ」
「……え?」
「お前がどちらを選ぶにしろ、真剣に悩んだ末での結論なら否定はしない。だが、安易な気持ちでこちらを選ぶなら、俺はお前を許さない」
「……どうして」
「俺たちの『異国の月』にしろお前の所属している『紆余曲折』にしろ、その本質は冒険者ギルドだ。たまたまそれが家族であるかそうでないかの違いに過ぎん。家族がいるから――そんな理由で選ぶのであれば、俺はお前の加入を認めるわけにはいかん」

いつもは寡黙なキョウスケの饒舌に、カレンは思わず口を閉ざした。

「『家族がいるから』……そんな理由で入ってくるなら、それは必ずどこかで家族への甘えとなって現れる。死と隣り合わせの樹海探索において、甘えはすなわち死を招く。そんな甘ったれた心の持ち主と、俺は行動を共にする気は無い」
「…………」

図星だった。「異国の月」を考えるとき、自分はいつも「家族」という面が先に立っていた。その甘えを指摘され、カレンはぐうの音も出なくなる。

いつも寡黙なキョウスケがここまで語るというその事実は、彼自身どれだけカレンのことを大事に思っているかを暗に語っている。だからこそ、感情的な反論は出来なかった。

キョウスケの話が終わり、入れ替わりに話しかけてくるのはクランベリーだった。

「うち個人としては、カレンが来ることに反対はしない。あなたが来るなら、『異国の月』の冒険も、きっともっと楽しくなるだろうと思うしね」
「クラン師匠……」
「だけど、カレンはそれでいいのかなって思う。あなたは元々『紆余曲折』に所属していた人間でしょ? 今まで積み重ねてきたものは、あまりにも大きすぎる。それに『紆余曲折』のみんなにとっては、あなたはもう必要不可欠な人間なんじゃないかしら?」
「そう、ですよね……」

自分もそれは分かっていた。「異国の月」への加入話を、一番最初に姉のサクラに持ちかけられたとき、即座にイエスと答えなかったのはその辺りの意味合いがある。カレンも馬鹿ではない。自分がここまで来たのは「紆余曲折」の仲間があってこそだと思うし、それをバッサリと切り捨てられる度胸はさすがになかった。

それは分かってはいたが、それでも自分なりに考えて「異国の月」に入るという結論を出した。だが、それを再び師匠に言われると、「紆余曲折」の脱退はさらなる重みを持ってその是非を問いかけてくる。進退窮まったカレンは、ひとまずクランベリーに提案した。

「……とりあえず、『紆余曲折』のメンバーに会ってもらえますか?」
「もちろんよ。ちなみに、サクラも同意見。少なくとも、『紆余曲折』のメンバーとは一回会ってみようというのが、彼女の考えよ」

やはり姉妹ね。そう言って笑うクランベリーの前に、カレンは思ったものだった。

こうやって先延ばしにしてしまうのは、自分が弱いからだろうか、と。

 

 

「……ここだ」
「ここ?」

昼、ベルドの足はある所で止まった。きょとんとした顔で聞き返すのは、彼の恋人・ヒオリである。そこはモリビトの里、そのかなり奥地にある神社の前だった。

「コタン神社っていってな、モリビトの守り神がいるっていわれている神社だ」
「守り神がいるんだ?」
「ああ。少なくとも、人間の世界よりはよっぽど信仰が深いな」
「そういう部族なの?」
「……じゃなくて、実際『いる』んだよ。さすがにこの守り神は見たことないが、その代わりにイワォロペネレプっていう守護鳥がよく姿を現すらしい」
「いわぉろぺれねぷ?」
「イワォロペネレプ。俺も一回しか見たことはないが、その黄金の羽と操る雷鳴でモリビトに害を及ぼすものに裁きを与えるといわれている」

そこまで言うと、ベルドの顔が苦くなった。

「どうしたの?」
「俺の知り合いにレンムっていう大馬鹿野郎がいたんだが……このド阿呆が『人間の世界が見たい』っていって脱走しかけてな。フェザースピアーとかいう技食らって半死半生の目に遭ったことがあったんだ」
「……うわ」
「今あの野郎どうなってんのか知らねえが、また脱走でも企てて今度こそイワォロペネレプに殺された説が有力だな」

と、ベルドが一片の冗談も無く真顔でそう言ってのけた時。

「あ、グレイン。こんなところにいたの?」

その女は、現れた。


「セレン・メトリック……」

ベルドは喉の奥から搾り出すような声で呻いた。名前を呼ばれたことが嬉しいのか、女――セレンは顔をほころばせる。だが次の瞬間、その顔がひどく歪んだ。隣にいたヒオリを見つけたからだろう。

「あんた……また、グレインの傍にいるの?」
「いちゃ悪い?」

対するヒオリも、真正面からセレンを睨みつける。吹雪のごとき鋭氷の眼差しと、氷をも溶かし焼き払う灼熱の眼光――だが、不意にその片一方が矛先を変える。

「まあ、いいわ。この女が隣にいるってことは――あんた、ベルドね?」
「だからどうし――っぐぅっ!?」

どぐん、と心臓が脈打った。そんな馬鹿な。セレンはまだ、グレインを求めてすらいないのに。なのに、何故――

「――お前が、出てくるっ……!!」

内部から攻め立ててくる、もう一つの人格。セレンの存在に反応し、目を覚ましたとでもいうつもりか。押さえ込もうとするがそれも敵わず、セレンの「声」は放たれた。

「来て、グレイン……!」
「っくうぅぅっ……!!」

引きずり込まれるこの感覚。くそ、また入れ替わりか――苦々しい顔で唸るベルドから、グレインが体の主導権を奪い取……

「行っちゃやだ!」
「――――!!」

……る刹那、別の「声」が割り込んだ。消えかかっていたもう一つの自我が、その声に反応してグレインの裡で暴れまわる。

返せ。その体は、俺のものだ。

違う。

その体は、僕のものだ。お前になんか、渡すもんか。

違う。

――違う!

「あ、ぎぃ、がぁっ……!」

この体の持ち主は誰だ。

僕は誰だ。

僕は――俺はっ!!

「違う、俺は、俺でしかない……! 俺は、グレインだ……グレインなんだ……っ!」

その呻きを聞いて、少女達の動きが凍りついた。二人の少年が、体の内部で争っている――少女達がそれを理解したのは、ほぼ同時。だから、同時に――

「しっかりしてよっ! 君はベルドでしょ!? ボクが好きになった――」
「そんな人格なんかに負けないでよっ! 私が、セレン・メトリックが惚れたのは――」

――二人は、叫んだ。

 

 

「アルカナ。どういうことか、説明してもらうぞ」

同刻、ゲリュオ・キュラージはモリビトの長・アルカナのところを訪れていた。用件は当然、ベルドとグレインに関することである。

「どういうこと、とは?」
「とぼけるな。お前、知っていただろう」
「何をだ」
「ベルドのことだ。劣等生だったのが立派な戦士になったとかなんとか言っていたが、あいつの記憶を戻したのはそんな理由じゃなかっただろう!」

だん、と机を叩いて、ゲリュオは珍しく声を荒げていた。

ゲリュオにとって、ベルドはただの仲間でしかない。ゲリュオ自身、不利益と感じれば切り捨てることも厭わないつもりでいるが、ああなってしまって黙っていられるほど浅い付き合いでもなかった。

話しかけるときに敬語を使わずにはいられないような立ち居振る舞いも、ゲリュオにはその影響を及ぼさない。「仲間」に悪影響を与えた「敵」として、ゲリュオはアルカナに向かっていた。

「だとしたら、どうする? 私を斬るかね? モリビト全てを敵にして」
「御託はいい」

笑ったアルカナを、ゲリュオは一言で切って捨てた。だが、アルカナの余裕は崩れない。静かに、淡々と、アルカナは言葉を続ける。

「確かに記憶を封印したのは我々だが、その解除を望んだのは彼だ。そもそも、彼には言ったはずだ。そうしたら彼は、彼でいられなくなるかもしれないと。警告はして、彼自身がそれを望んだのなら、私を責めるのはお門違いではないかね?」
「…………」

ゲリュオの言葉が詰まる。確かに、アルカナはそう念を押していた。そういえば、そうだったな――覚えていなかったことに苦笑しながらも、その眼光は揺るがない。そもそも、それを問い詰めにここへ来たわけでもなかった。

「二つ、聞きたいことがある」
「なんだ?」
「まずはベルドとグレインの、記憶の相違についてだ」
「記憶の相違だと?」

まず第一に、ゲリュオが不審を抱いたのはそこだった。ベルドは、自分がグレインになってしまったときのことは覚えている。そして、それからとった行動の内容も。ヒオリに「誰?」と聞いたことも、無論彼は覚えていた。

だが、グレインがベルドになっていたときの記憶は無いのだ。ベルドがグレインと化す十数分前、ゲリュオはベルドに会っていた。だが、変化後のグレインにその記憶は無い。「最近、記憶が飛び飛びで……」という言い訳のような言葉は、それの真骨頂といえるだろう。

つまり、ベルドはグレインの記憶を共有しているにもかかわらず、グレインにはベルドの記憶は無いという不自然な状態が出来上がる。もしも人格の分離が起きているのなら、それぞれの記憶は独立しているはずだ。

しかし、現在の「彼」はその状況に当てはまっておらず、片一方だけ記憶が共有されているという奇妙な状態になっている。その説明は、納得のいくものをしてもらわなければ気が済まなかった。「ただの例外」という可能性も無論、ありえない話ではないだろうが。

だが、アルカナの答えはあいまいだった。というよりも、アルカナ自身が理解していなかったともいえる。

「……そんな馬鹿な。片一方だけが記憶を共有するパターンだと? 確かに、我々は彼が二重人格になってしまうという予測は立てていた。だが、そんな記憶共有のされ方は起こりえないはずだぞ」
「とはいえ、実際にそれは起こっている。ならば、そのことに関しては調べてもらおう」
「……分かった。それは我々のほうでも調べよう。もう一つの質問とは何だ?」
「その、二重人格のことだ」
「ほう?」
「結論から言おう。ベルドとグレインのあれは――」


「――二重人格なんかじゃ、ないな?」


時間が、止まった。


「……どうして、そう思う」

聞き返すアルカナに、ゲリュオはその前に、と確認を入れる。

「お前、『気』って分かるか?」
「ああ。ウルスという者から説明を受けたことがある。イメージぐらいは掴んでいるつもりだ」

それに、我々モリビトの中にも『気』を探ることが出来るものもいるしな――そう付け加えたアルカナに、ゲリュオはふむと頷いた。

「ならば問題はない。先ほど、ベルドとグレインが奇妙な記憶の共有のされ方をしていたと言ったな?」
「うむ」
「本来、ああいう記憶共有がされるはずが無いことは、俺も知っている。そのため、あいつの内部にある『気』を走査してみた」

その結果――と、ゲリュオは一旦言葉を切った。

「生きとし生けるものにあるはずの『法則』から、あいつは外れていた」
「法則、だと?」
「本来、一つの肉体には一つの魂が宿っている。むしろ、そうでなければおかしいのだ。俺の知る限り、獣も魚も草木も花も、みなその法則に従っている。なぜなら――」
「――二つ以上の魂が宿っているなら、肉体を操ろうとする意志が複数あることになってしまい、体内から勝手に崩壊してしまうからか?」
「そうだ」
「……なるほど」

本来起こり得る多重人格というものも、元となる魂は同じである。複数あるように見えても、その大元は同一のものだ。魂の中にスイッチがあって、そのスイッチで人格が入れ替わっているという表現も出来るだろう。


そもそも多重人格というのは、強いショックを受けた際に嫌な記憶や辛い思い出を隔離するために発生するもので、その本質上記憶の共有は起こり得ない。無論例外もあるが、少なくとも人格同士が激突するようなことは絶対に無いだろう。

直接語られこそしなかったものの、ゲリュオがそう言わんとしていることを読み取ったアルカナは、腕を組んで頷いた。

「……そのことに関しては、答えを出そう」
「なんだ」
「ベルドとグレインは、どちらもかなり強い自我を持っている」
「そうだな」

ゲリュオが走査した『気』の強さは――本来ありえないはずなのだが――ベルドもグレインもほぼ同じだった。そのことに軽く記憶を走らせつつ、ゲリュオは一つ頷いた。

「吟遊詩人の一人に、セレンという女がいる。そして、君らの仲間に、ヒオリという女がいたはずだ」
「ああ、確かにいる」
「セレンは、グレインのかつての恋人だった。見るに、今なお彼のことを想い続けている。そして、この前の行動から推測するしかないが――ベルドとヒオリの関係もまた、恋人なのではないか?」
「……ああ、そうだ」
「ならば、聞こう。ベルドが、そしてグレインが――もう一つの人格に入れ替わるのは、どんなときだ?」
「…………!!」

ゲリュオの言葉が、詰まった。

「彼」がベルドのとき――河原でのセレンの呼びかけで、彼はグレインと化してしまった。そして、それがベルドに戻ったのはいつだったか。その質問に、ベルドはどう答えた。


――昨日の夜、ヒオリに話しかけられた時に、だ。


「……分かったようだな」
「……何が言いたい」
「つまり――ヒオリとセレンは、それぞれベルドとグレインを呼び覚ます鍵となっている」
「……だろうな」
「では、その二人が同時に、それぞれの人格に呼びかけたとしたら――彼は一体、どうなると思う?」

楽しそうに、それでいて何かを試すように、アルカナはそう聞いてみせる。

ゲリュオは何も返さない。否、返せないのかもしれない。

「なるほど。知っていても、言うことが出来ない。もし言ってしまえば、それを認めることになってしまうから――そんなところか」

ならば、私が答えよう。そう言って、アルカナはゲリュオの目を真正面から見つめて来る。そして、淡々と言い放った。

そう。その二人が同時に呼びかけ、そしてそれを続けたとしたら。

 

「決して相容れないが故に、二つの人格はぶつかり合いを起こすだろう。そして、そのぶつかり合いに自身が耐え切れなくなり、やがて、グレイン・フランティス諸共――」

 

「――あの、ベルドでしょ!?」
「――そんな、グレインなんだからっ!」
「ぐうぅぅああああぁぁぁぁぁ―――――――――っ!!」

 

「――ベルド・エルビウムは、消滅する」

 

 

 

 

 

 

 

第二十六幕・噛み合わぬ記憶

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第二十八幕・破滅の双曲線

 

 

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