第二十六幕
噛み合わぬ記憶
その言葉は、ヒオリの笑顔を凍らせた。
「えっ……?」
最愛の少年が放った言葉は、自分が誰かを問う質問。いたずらをやり返されているのではないかと思ったヒオリは、曖昧に笑ってベルドに返す。
「だ、誰って、ヒオリだよ。たち悪いなあ」
「……ヒオリ?」
だが――その言葉にも、ベルドの返事は変わらなかった。
「ヒオリって、誰?」
「え、誰って……」
「……ベルドさん、ちょっと待ってください。いくらなんでも、冗談が過ぎるんじゃないですか?」
「……冗談? 僕、別にそんなつもりで言ったんじゃないけど……」
ヒオリとのやり取りをさすがに見かねたのか、カレンが横から冷たい声をかける。しかし、その言葉にもベルドは首を傾げるのみ。いたずらを仕掛けたヒオリもヒオリだが、いい加減返事が悪質すぎるんじゃないかとカレンが言い返そうとしたとき。
「グレイン、おはよう!」
「ああ、おはよう」
全く横から現れた第三者が、ヒオリとカレンの動きを止めた。声の主は、緑色の髪に同じ色の目をしたモリビトの少女。草木で編まれた、他のモリビトたちとは少し違うその服は――たしか、モリビトの中でも大気の精と交信する能力を持つ、グリンヴァルドと呼ばれる者達の制服だったはずだ。
少女はそのままベルドのところまでやってくると、親しげに話しかける。
「今日もいい朝だね」
「そうだね」
「ところで……この人たち、知り合い?」
「さあ……知らないな。セレンは?」
「って、ちょっと待ってください!」
二人の会話に、カレンが切羽詰った声で割って入る。しかし、答えたのはベルドではなく少女のほうだった。
「なに?」
「すみません、ちょっと彼に聞きたいことがあるんですが」
「……聞きたいこと?」
眉を顰める少女には構わず、カレンはベルドだけを見つめて言う。
「ベルドさん、今回ばかりは真面目に答えてください」
「…………?」
「本当に、彼女のことが分からないのですか?」
「……うん。それに……」
「それに?」
「人違いじゃないの? ……さっきからベルドベルドって、僕はベルド・エルビウムなんて名前じゃないよ?」
「……え?」
「念のため言っておくけど、僕はベルドなんて名前じゃない。僕の名前は――」
首を振ったベルドに、ヒオリが息を呑んだ。その返事内容が想定できてしまい、ヒオリは思わず制止の声を上げようとする。だがそれも一足遅く、少年は、残酷に、そして淡々と、名を名乗った。
「――グレイン・フランティスだ」
「ああ、カレン。帰ったの?」
「お母さん……」
ベルドがグレインに逆行してしまってから数十分。呆然とするヒオリを半ば抱えるようにして「紆余曲折」の宿舎に戻り、そのまま「異国の月」の宿泊している場所へ帰ってきたカレンは、母・ローラに声をかけられた。
「元気ないわね。どうかしたの?」
「……うん、ちょっとね……」
心配そうなローラの声に、カレンは曖昧に笑って返す。その頭は、ここに来るまで共に過ごしていたギルド「紆余曲折」のことで一杯だった。
紆余曲折。自分と、ヒオリと、ツァーリと、ゲリュオと……そして、ベルドの五人で結成していたギルド。
出会いは本当にひょんなことだった。ツァーリにいたってはストーカーまがいのことをしたのが最初だった。
例えば、とカレンは思う。自分とゲリュオ・キュラージの二人は、本当に相性が悪かった。根暗で嫌なやつで、ずばずばと遠慮なく物事を言う、そんな奴。だけど、あいつはベルドとは息が合っていた。そしてベルドは、ゲリュオだけでなく自分とも上手くやっていた。ヒオリにいたっては惚れて、恋人同士の関係になっていた。
……思えばあのギルドは、「ベルド・エルビウム」という男を中心に回っているギルドだった。あのへらへら笑いの向こうに、絶対に譲れぬ想いを秘めて。
彼がいなければ、とカレンは呟く。あのギルドからもしベルドが抜けてしまえば、自分とゲリュオの仲の悪さは顕在化する。ヒオリも自分の拠り所を失ってしまうだろう。あのギルドにとってベルドは大黒柱であり、潤滑油でもあった。もしも「紆余曲折」にベルドが欠ければ、あのギルドは完全に崩壊するだろう。
そこまで考えたとき、昨日の記憶がフラッシュバックした。
そうだ。どうせ、崩壊するなら――
「お母さん。私……」
ゲリュオはもとよりどうでもいい。ツァーリもまあ、変な男だったが未練はない。ヒオリが若干心苦しいが――それも、すぐに忘れられるだろう。
「……『異国の月』に、入る」
「……、あ……」
ふと、ヒオリ・ロードライトは我に返った。目の前の窓から差し込む朝日に、直接目を照らされたからだろう。どうして、こんなことになってるんだっけ――朦朧とした頭で考えて、ヒオリはそれを思い出す。
「ベルド……」
どうにもならないほどの悲しみが襲ってきて、ヒオリは請い求めるようにその名を呼んだ。だが、それに答える声は存在しない。それが分かり、また例えようもなく悲しくなる。
あの後、ベルドがグレインと化してしまったことを見せ付けられ、自分は全ての力を失った。カレンに引きずられるようにして帰ってこなければ、自分はまだあの場所に立ち尽くしていたことだろう。
カレンと帰ってきて、椅子に座って……どうやら、ずっとそのままだったらしい。のろのろと身を起こして立ち上がると、自分の後ろに食事が置かれているのに気付く。三食分――どうやら、丸一日経ってしまったようだ。
二食分は普通の食事。山菜やらなにやらがいくつか。一応、ここにも米はあるらしい。残った一食は、自分の体調を考慮してくれたのか、梅粥が用意されていた。
そういえば、おなかすいたな――そう思い、ヒオリの記憶はほんの数日前の出来事に飛んだ。
自分が、風邪を引いたとき。相変わらずのへらへら笑いで、ベルドは傍にいてくれた。おなかすいた。その言葉に、ベルドが用意してくれたのは――
「――――っ」
今自分の目の前にあるのと同じ、梅粥だった。
「……うぅ、ぁうぁ……」
出てくる言葉は、意味を成さない。とっくの昔に枯れたはずの涙が、何年ぶりかに湧き上がってくる。辛さではなく悲しみで泣くことを、ヒオリはその時初めて知った。
「……い」
――躓いて、迷いながら――進んでいくのも、悪くねえよなぁっ!!
それはリーシュと戦った時に、ケリをつけたベルドの咆哮。あの言葉は、かつて自分と交わした連歌の、続きの部分だ。
そして、ヒオリは思い出す。
その歌には、まだ続きがあったことを。
そう。
その、歌詞は――
「ひどい……ひどいよっ……」
今を、漂い、願いよ、届けと――
「やっと……やっと、穏やかに生きていけると、思ったのに……」
――絶えた、祈りを、重ねるだけ……
「生まれて、ずっと、苦しめられて……あんなに苦労して、二人で生きていけるって、思ったのに……」
忘れられないだろうとはいえ、思い出となってしまうのだろうか。出会ったあの日、ベルドの肩越しに散った桜のように。
「ボクが……ボクが一体、なにをしたっていうんだよぉっ……!」
波のように揺れる自分の感情を受け止めてくれる人は、もう居ない。
不安を覚えた自分のことを、優しく力強く抱き締めて頭を撫でてくれる人も、もう居ない。
――帰って来い、ヒオリ。お前の居場所はそこなんかじゃねえ。ここだ。
奴隷だと知っても、変わらずに接してくれたあの時の声。
――それがまた蓋を開けりゃ、なんたってこんな難儀なヤツに惚れちまったんだろうな。
リーシュと戦ったときに垣間見せた、あの曖昧な苦笑い。
――分かった分かった。お望み通りいてやるよ。
自分のわがままに付き合ってくれた時の、困ったようなあの表情。
好きだった。
好きで好きで好きで好きでしょうがなかった。
だけど――ベルドは、唐突に姿を消してしまった。
まだ、何も伝えてないのに。
まだ、面と向かって何も言ってないのに。
もう、伝えなくてはいけない言葉は――
「なーにを一人でめそめそしてやがるんだ?」
「……えっ?」
幻聴でも、聞こえたんじゃないかと思った。
「『えっ?』じゃねーよ、この世の終わりみたいな顔しやがって――って俺のせいか、くそ」
歪む視界の向こう側で、苦笑しながら頭をがしがしと掻く男――それは、間違いなく……
「……ベル、ド?」
「おう」
……ベルド・エルビウムだった。
「な、なんで?」
「まー、なんつーか、色々あるんだが……先に顔洗って来い、説明はそれからだ。つか、ひでえ顔だぞ。なんかめっちゃやつれてるし」
「あ……」
丸一日ぼーっとしていた上にこれまた丸一日何も食べていないのだ。ひどくなるのも当然だろう。
こんな顔、見せたくなかったな……そんなことを思いつつ、ヒオリは顔を洗いに出て行こうとする。だが、その動きは無意識の内に止まっていた。
「……ベルド」
「あ?」
「……一緒に来て」
「…………分かったよ」
ベルドはしばらく戸惑っていたが、何かに責任を感じているのだろう、一つ頷いて承諾した。
「……あれ?」
同刻、ギルド「紆余曲折」を脱退する決意を固めたカレンは、そのことを告げるべく彼らの宿舎へと向かっていた。
「異国の月」と「紆余曲折」、この二つのギルドの宿舎は、大きな川を挟んだ反対方向にあり、カレンはいつもこの川を渡って二つの宿舎を行き来していた。「異国の月」の宿舎を出て、川に突き当たったら上流へ行く。そこにかかっている橋を渡って、「紆余曲折」の宿舎へと入る。いつもの通りのこの道順を歩いて、橋を渡りきったとき――その光景は目に入った。
ばしゃばしゃと顔を洗うヒオリの姿と、その眼帯を持っている、かつてベルドだった少年の姿。その横にはゲリュオも立っている。
ツァーリがいないが、まあちょうどいい。手間が省けたな……そんなことを思いながら、カレンは早足で三人のほうへと向かっていく。もう終わると思うと、あのゲリュオと共に行動したこともいい思い出と思えてくるものだ。
「おはようございます」
ヒオリが顔を洗い終わるのに合わせて、カレンはぺこりと頭を下げた。
「あ、おはよ」
「……ああ」
「おう、おはよー」
「…………はい?」
返事が三つ返ってきた。
最初の挨拶はヒオリの声だ。自分よりも高いソプラノの声は、間違いなくヒオリのものだろう。二番目はゲリュオだ。こいつの挨拶が短いのはいつものことなので放置。だが、三番目は、この軽佻浮薄な軽い声は、間違いなく……
「……ベルド・エルビウムさん?」
「なんだそのめっちゃ他人行儀な聞き方――」
「――にもなるでしょうよ! 昨日散々悪質ないたずらしかけておいて、ヒオリさんがどんなに悲しんだか、貴方分からなかったんですか!?」
「……ああ。悪かった、な……」
返事は、少し間があった。その声を聞いて、カレンは気付く。理屈も根拠もないが、それに気付く。
昨日のあれは、冗談なんかじゃなかったと。
「……ベルドさん?」
「……なんだ?」
「……昨日、何があったんですか?」
「……ああ、それは――」
その声に、少年――ベルドは上空に顔を向ける。戻した顔は、途方に暮れたような表情を浮かべていた。そして、ベルドの口が開かれ、カレンだけでなく全員の意識が集中したとき。
「グレイン、おはよう!」
「…………っ!」
横から、第三者の声が割って入ってきた。その声を聞いてヒオリが凍る。おそるおそるベルドのほうを伺うが、こちらも眉を顰めていた。
「……セレン・メトリックか」
「そうだよ? なんで、そんな他人行儀なの?」
首をかしげる少女――セレンに、ベルドはちっと舌打ちをする。セレンはヒオリとカレンを見て、ベルドに聞いた。
「ねえ、やっぱりこの人たちと知り合いなんじゃないの?」
「……ああ」
「……えっ?」
まさか肯定の返事を返されるとは思っていなかったのか、セレンの動きが止まった。そこにベルドが困ったような笑顔を浮かべて、全員の顔をぐるりと見回す。
「とりあえず、紹介しておく。こっちの眼光鋭い男がゲリュオ・キュラージ、黒髪の女がカレン・サガラ。両方とも俺の仲間だ。んで……この眼帯の少女が、ヒオリ・ロードライト。俺の……恋人だ」
その声を聞いて、セレンの表情が変わった。
「あんた……まさか、またベルドになってるの?」
「……ああ」
「ちょ、ちょっと待ってください。それって、どういうことですか?」
「さあね……俺の推測でしかねえんだけど……」
首を振ったベルドは、そうだな、と考えてみせる。何から言うべきか、そしてどういうべきか、慎重に言葉を選んで。
「とりあえず、昨日、俺がお前らのことを完全に忘れていたのは、紛れもない事実だ」
「……どういうこと?」
「俺は……」
「いい」
「え?」
ベルドが始めかけた説明に、セレンが低い声で割って入った。
「いらないって言ってんの。あんたなんかいらない」
「……なんだよ、それ」
「あんたなんかいらないって言ってるのよ! その体はグレインのものよ、あんたなんかのものじゃない!!」
「ちょっと待ってよ、そんなの――」
「……くぅぅあぁっ!?」
セレンのあんまりな物言いに、ヒオリが反論しようとしたとき。突如、ベルドが額を押さえて蹲った。ここに来るまでに何度も発生した、あの頭痛と同じ反応。だが、今回の理由は全く違った。
「……うるせえ、てめえは、出てくんな……! 俺は、俺でしかねえんだから……っ!」
「…………!!」
冷や汗を流しながら、ベルドは呻く。近くに居たゲリュオが肩に手を置き、しっかりしろと喝を入れる。ベルドの言葉に出てきた「てめえ」――その対象が誰か、分からないものはいなかった。
前日にベルドの体に出てきた、目の前に立つ少女と深い関係を持つ少年――グレイン・フランティス。それが、おそらくベルドに内側から干渉してきているのだろう。ヒオリとセレンが駆け寄るが、それも目に入ってはいないだろう。物凄い量の冷や汗を流しながら、ベルドはふらふらと立ち上がる。
その目は、まっすぐにセレンを見つめて……否、睨みつけていた。
「……覚えとけ、セレン」
「な、何をよ……」
「俺は……」
だが、言い終わる前にベルドは再び蹲る。内側の干渉が激しくなったのか――それでも、ベルドがベルドであるうちに、これだけは言い残さんと思い切り叫ぶ。
「俺はそれでも、ヒオリが好きだあぁぁっ!」
その言葉を捨て台詞にするように、ベルドは地面に倒れこんだ。
「ベルドッ!」
それを聞いて、ヒオリがベルドの傍に駆け寄った。まるっきり反応しなくなった少年の体をゆすり、ヒオリは叫ぶ。
「ちょっと待ってよ、告白したんだったら返事させてよっ! ボクだって、ボクだって、ベルドのことが――」
「……違う」
と、ベルドが動いた。すがりつくように当てられていたヒオリの掌を静かに払うと、ベルドはゆっくりと立ち上がる。冷や汗を浮かべたその表情は、どこか申し訳なさそうに笑っていた。
「違うんだ。昨日も言ったよね? 僕は、ベルドじゃないって。それから、悪いんだけどその名で呼ばないでもらえないかな? 何か、その名前を聞くと意識が朦朧とすることがあるんだ」
「……待て」
と、相手の顔色を伺うような声音で言う少年に、ゲリュオが鋭く問いかける。
「お前が、グレインだな?」
「……そうですね。初めまして、ですかね。貴方の推測どおり、僕がグレインです」
「お前にいくつか聞きたいことがある。……答えてくれるな?」
「……分かりました」
頷いたベルド――グレインに、ゲリュオは単刀直入に切り出した。
「まず、最初の質問だ。今朝、俺と会った記憶は残っているか?」
ゲリュオの質問に、グレインはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振る。
「すみません、覚えていません。最近、記憶が飛び飛びで……」
「要らん補足説明はいい。なら、昨日の朝、ヒオリと会った記憶は残っているか?」
「ヒオリさんって、この方ですよね? それは覚えています」
「そうか……そうしたら、最後の質問だ」
「……はい」
「三年前。俺とお前が出会った、街の名前は何だ?」
質問の答えを、ゲリュオはある程度予測していた。もしも、グレインという存在とベルドという存在がゲリュオの予測どおりなら、この質問には「覚えていない」という返事を返すはずだ。
そして。
「……すみません、覚えていません」
ゲリュオの予感は、見事に的中した。苦い顔をするゲリュオの前で、少女はグレインに腕を絡める。
「じゃあ、質問は終わりだよね? そしたら、行こ、グレイン」
「……そうだね」
「――待って!」
その腕を特に振りほどくこともせず、グレインは少女にされるがまま歩き出す。だが、それをヒオリが呼び止めた。
「一つだけ、一つだけ教えてよ!」
「…………?」
「その子は……君にとって、その子は何なの!?」
哀切な願いを込めた、痛切な問い。だが、答える声は無情だった。
「そう、名乗っていいのかどうか分からないんだけど……」
そして、少年は――ベルドの顔で、ベルドの声で、ヒオリにとって最も残酷な答えを、静かに告げる。
「セレン・メトリック。僕の……恋人だ」
わけが分からない。今現在、自分を支配する感情を一言で表現するならそれだった。
結局、「紆余曲折」の脱退は言い出せずじまいだった。「紆余曲折」の脱退は、あくまで「ベルド・エルビウム」が完全に消えてしまうことが前提となる。だが、見る限りベルドは完全に消滅しているわけではなく、まだ、彼の存在は残っていた。
「カレン、おかえりなさい」
「……うん、ただいま……」
宿舎に戻ってくると、ローラが満面の笑みで出迎える。この金髪のアルケミストは、自分が「異国の月」に入ることを本気で喜んでいた。
言うべきか、言わざるべきか。「異国の月」に入る確率は、まだまだ高かった。だが、百パーセントではなくなったし、少なくともベルドがどうなるかを見るまで結論は下せない。
「どうかしたの?」
「あ、うん。えっとね……」
だが、話さないわけにも行かない。先ほどの変化でグレインはもう二度とベルドにならないかもしれないし、どちらかに固定されるのはずっと先の話かもしれない。それまでのらりくらりとかわしていける自信はさすがになかったし、母親を裏切る度胸も持ち合わせてはいなかった。
「ちょっと、聞いて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」
「なに?」
ああ、やっぱり「異国の月」はいいな――何の疑いもない笑みを浮かべる母を見て、カレンは強くそう思う。そんな母のためにも、結論は早めに出さなければいけなかった。ベルドさん、早く消えてくれないかな――ヒオリに知られたら殴られそうなことを呟き、カレンは母親に話し始める。
家族を追ってエトリアに来たこと。
そこで今の仲間達と出会って「紆余曲折」を結成したこと。
ここまで力を合わせて乗り切ってきたこと。
リーダーであるベルドがギルドの中心になっており、そのベルドが記憶喪失だったこと。
彼の記憶が戻って、記憶を失う前の人格に完全に変貌してしまったこと。
そのために「紆余曲折」を脱退し、「異国の月」に入る決意をしたこと。
だが、今朝ベルドが元に戻っていたこと。
そして、さらに記憶喪失前の人格にまたしても入れ替わってしまったこと。
「異国の月」に入る決意をしたのはあくまでベルドがベルドでなくなったからであり、ベルド自身に戻ってしまった今、決断を考え直さなくてはならなくなったこと。
その全てを話し終え、カレンは母に結論を告げる。
「……だから、私は昨日の『異国の月に入る』って話を、考え直したいの」
話の間、ローラはずっと腕を組んでいた。時折笑みを浮かべて、頷いてもいる。そして、全てを聞き終え、ローラは優しげな笑みを浮かべて、返事をした。
「……駄目よ、カレン」
「え?」
「話を聞いて分かったの。貴方、やっぱり私たちのギルドに入りなさい? 貴方はこれ以上『紆余曲折』なんかにいるべきじゃないから」
そうじゃ、ないんだけどな……そう思ったカレンだが、優しげな笑みを浮かべるローラに対して、これ以上何か言うことは出来なかった。
「よお、グレイン。会えて嬉しいぜ」
「……ラザム……!」
夜――グレイン・フランティスは、五人の少年に取り囲まれていた。両腰に直刀を下げた少年が四人と、鉤状の武器を下げた少年が一人。グレインの声に、鉤状の武器を下げた少年――ラザムが、嘲るような笑みを浮かべて話しかけてきた。
「てめえが二重人格になっていたなんて知らなかったぜ。道理であの時俺に歯向かってきたわけだ」
セレンと別れた直後、まるで待ち構えていたようなタイミングで飛び出してきたその少年たちは、数日前、彼のもう一人の人格・ベルドとやり合い、手痛い敗北を食らったあの少年たちであった。
だが、今の「彼」にラザムたちを撃退する力は無い。というより、撃退しようともしないだろう。七年が経った今でも、それはグレインにとっては恐怖の塊でしかないのだから。
それを分かっているのだろう、ラザムはつかつかとグレインの傍まで歩いてくると、ニヤニヤした笑みを浮かべて話を続けた。
「その人格のせいで酷い目に遭わされたからな。きっちり詫び入れてもらうぞ――能無しっ!」
その言葉と同時、ラザムの拳が空を切った。その一撃は狙い違わずグレインの顎を捉え、頭部が跳ね上がったかと思うと続けざまに腹部に拳が打ち込まれる。ごろごろと数回地面を転がり、無様にラザムを見上げるその醜態を見て、残った少年たちがげらげらと笑った。
だが、ラザムにとってはこんなの前置きにもならない。
そのまま地に伏したグレインに歩み寄り、その側頭部を思い切り踏みつけようとした時。
「氷よ、貫けっ!」
「何っ!?」
全く想定していない高い声が、その場に割って入ってきた。とっさに飛び退くより速く、飛来して来た氷の刃がラザムの横頬を切り裂いていった。
「――なんだ、お前……」
頬を伝う血に舌打ちしつつ、刃が飛んで来た方角を見やる。そこには、ラザムの全く知らない少女が篭手を向けて立っていた。
淡い紫のかかった銀色の髪。眼帯で隠された、燃え上がるような紅の隻眼。何よりも、ラザムに向けられているものが、彼女が同族ではないことを明確に語っていた。そう、片手にはまるその篭手は――
「なるほど。お前、ローラと同じか」
「ローラ……?」
だが、少女の反応はラザムの予想とは違っていた。どうやら、ローラのことを知らないらしい。そして、眉を顰めていた少女は、すぐにその疑問を捨てたようだ。鋭い声で、ラザムに言葉をぶつける。
「それより、ベルドを返してもらうよ」
「ベルド……? ああ、この地面に転がっている能無しの、もう一つの人格か」
嘲笑を浮かべて、ラザムはグレインの頭を蹴った。一切の手加減も無く蹴られたからか、グレインは丸くなって頭を抱えた。その様子を見て、少女は再び術式を起動する。だが、ラザムの反応は醒めたものだった。
「おい」
たった一声で、取り巻きたちが動き出す。ラザムはグレインの頭を踏みにじりながら、命令を発する。
「力関係を理解できないそこの女に、礼儀ってもんを教えてやんな。場合によっちゃ、犯っちまってもいいぜ」
ラザムにとって、少女を見逃す選択肢は初めから無かった。まず、久しぶりにグレインを思う存分殴り飛ばせると思った矢先に現れたタイミングが気に食わない。そしてもっと気に食わないのは、ベルドの名を呼んだことだった。
今まで虐げていたはずなのに、手痛い反撃を叩き込んできた男。長い間踏みにじってきた彼にとって、あれほど不愉快なことは無かった。そして、その名前を口に出した少女にも言いようの無い不快感を覚えていた。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというのは、まさにこのことかもしれない。
だが、ほとんど五対一の状況下なのに、少女は怯えた風情を見せなかった。
「ところで、ボク、好きな人がいるんだけどさ――」
少女の篭手に魔力が宿る。淡く輝くその篭手を向かってくる少年たちに向け、少女――ヒオリは、一辺の躊躇も無く、起動した術式を解き放った。
「――今、その人を思いっきり踏んづけられて、ものすっごく機嫌が悪いんだよね」
解き放たれた術式は、自分と想い人の間に立つ障害を、ものの一撃で吹き飛ばす。
「よっく見ときな。多分、そのローラって奴も、こんな術式は使わなかっただろうから」
向かってくる少年たちも、踏みつけている少年も、踏みつけられている少年さえも。
「空間よ――」
炎でも、雷でもなく。ヒオリが制御するのは、場所そのものだった。
「切り裂けぇっ!!」
刹那――場の空気が一瞬で変わり、何も無かったはずの空間から無数の刃が降り注ぐ。それでも最低限の手加減はあったのか、少年たちは誰一人として死ぬようなことはなかった。
――当分、動くことは無理だろうが。
「さて……」
襲い掛かって来たグリンソルジャーたちを返り討ちにしたヒオリは、片膝をついたグリンウォリアーに歩み寄る。取り巻きはものの一撃で全滅させられ、その力関係はグリンウォリアーの言うとおり明白だった。ただし、発言者の意図とは全く正反対の形で。
「さっさとベルドの上からどいてくれない? 邪魔なんだけど」
「……お前だって、さっきこいつを攻撃しただろう!」
「知ってるよ」
グリンウォリアーの声にも、ヒオリは冷徹だった。
「だって、ボクにとって必要なのはベルドだから。グレインなんかじゃないよ」
分かったら、さっさとどいてくれる? そう言い残したヒオリに舌打ちすると、ラザムは足音も荒く帰っていく。それを見届けて、ヒオリはグレインの傍に膝をついた。そして、そのときになって初めて気付く。
ベルドとどうしても話がしたくて飛び出してきたはいいけれど、そういえば話す言葉を全く持っていなかった。今の彼はグレインであり、ヒオリにとって話すべき相手はあくまでベルドなのだ。
「……ベルド、聞こえる?」
でもとりあえず話はしたくて、ヒオリは想い人の名を呼んでみる。
「……とりあえず、助けてくれてありがとう。ヒオリさん、だよね?」
だが、返事は全く関係の無い内容だった。
「ベルド……」
「だから、その名で呼ばないでもらえないかな? それ聞くと、たまに意識が――っぐあっ!?」
と、グレインの体がびくりと跳ねた。グレインは自分の額を押さえ、昼間のベルドのように悶絶する。
「……っくぅっ、またかっ……!? また、なのかっ……!?」
その声を聞いて、ヒオリは悟った。今度はベルドが、内部からグレインに干渉しているのだと。
「ベルド、聞こえる!? ボクだよ、ヒオリだよっ! ここにいるから、早く来てよっ!!」
「その名を、呼ぶな――っ!!」
その言葉が、最後だった。瞳孔は見開かれ、グレインはその場に崩れ落ちる。糸の切れた人形のように動かなくなり、ヒオリはおそるおそる呼びかけた。
「ベルド……?」
……と、その体が、動いた。
「……あの野郎、また人の体乗っ取りやがって……」
そして、ふらふらになりながら、少年は立ち上がる。その口調を聞いて、ヒオリの顔が輝いた。
「ベルドッ!」
「……よお、ヒオリ。また……迷惑、かけちまったみたいだな」
弱ったように笑う少年は――間違いなく、ベルド・エルビウムだった。