第二十三幕

流れる砂と共に全てが動き出した場所


「……なんだ、こりゃ……」

第四階層、地下十六階――地下十五階にいたコロトラングルの横を通り過ぎ(ヒオリとカレンが律儀に頭を下げていた)、その先にあった階段を下ったベルドの言葉である。

世界樹の迷宮は、基本的に地下五階ごとに階層が変わる。地下五階の階段を下りれば緑溢れる樹海が亜熱帯の大密林に変わり、十階の階段を下りれば蒼き樹海へと変化する。その流れで行けば、確かに地下十五階の階段を下りたら環境が変わるというのは容易に想定できる話だった。

だが、今回の変化はそんなものではなかった。

「しかし、水辺の次は砂漠か。極端やな」
「極端を通り越して不気味なくらいだ……地下迷宮だというのに、この変貌は異質さを覚える」

あまりの変化に、ツァーリが顎に手を当てて言う。それにゲリュオが眉をひそめて考察を述べた。そう、今までの水辺の風景とはうってかわり、砂と枯れた木々とに包まれた、静かな風景がそこには広がっていた。

「……………………」
「……どうした、ベルド?」

だが、その光景を見たベルドは――


「……ってる……」
「え?」
「……知ってる……」

ぽつりと、言葉を漏らした。

「知ってるって、何が?」
「……この光景……俺、多分、ここに来たことがある……」
「貴方が? かつてですか?」
「……分かんねえ。ただ、なんとなく……なんとなくだけど、懐かしい感じがする」
「頭は痛むか?」
「いや、痛みはしねえな」

どこか心ここにあらずという感じで、ベルドは呆然と返事をする。一体何なんだ――? この森そのものに対し、ベルドは強烈な既視感を覚えていた。だが、あまり深くは考えず、その思考を追い払う。変に何か考えて、頭痛を起こして他の面々に迷惑をかけたらたまったものではない。ついでに形式上とはいえリーダーは自分なのだ。

首を振って、ベルドは近くの扉を開け――

「――――は!?」

素っ頓狂な声を上げた。扉をくぐった瞬間、踏んでいた大地が動き出したのだ。あっという間に視界がぶれ、左にずるずると引きずられていく。

「流砂だとっ!?」

状況を把握したゲリュオが愕然と答え、その横をすり抜けてツァーリが砂に飛び乗った。いくら高い戦闘能力を持つゲリュオといえど、孤立したらその危険度は大幅に跳ね上がる。即座にゲリュオ、ヒオリ、カレンも砂に飛び乗り、ベルドを追った。


はたして、ベルドは――いた。さすがに肝を冷やされたのか、少しだけ呼吸が乱れている。そして、そんなベルドに頓着するはずもなく、木の陰から魔物が飛び出してきた。

フィンドホーンの亜種だろうか、長い角を持つ大型の鹿。全身が真っ赤な体毛に包まれたネズミ。光るその目は、一行を敵としてみなしていた。

各々の武器を構えようとするベルドたちを、ツァーリとカレンが止めた。

「……いい、お前さんらは見てろ」
「は?」
「わしらとてな、一週間無駄に過ごしていたわけではないんや。それを見せてやる」
「ツァーリさんと相談して決めたんです。私たちも修行の成果は見せてやろうって」
「……まあ、それならいいけど……とりあえず、やばくなったら加勢するぞ?」
「ああ、そうなったら頼むわ――よし、いくぞ!」

気合を入れたツァーリは、杖を構えたカレンと共に、一歩足を踏み出した。

 

 

「同志よ! 悪しき反革命主義者に正義の鉄槌を与えるのだ!!」
「とりあえずその呪言なんとかしろーーーーーーーーーー!!」

どーん、という効果音とス○ーリンの幻影をバックにツァーリが叫んだ。続いて後ろでベルドが叫ぶ。畏れよ、我をの呪言で(文言・我が名はソ○エト共産党書記長ヨ○フ・ス○ーリンである)ネズミの自由意志を奪い、そのネズミにさらなる呪言を投げかけ操作する。ネズミは大口を空けて火炎弾を吐き出し、まさかその方角から攻撃されるとは完全に想定外だった鹿を直撃した。続いて鋭い牙を向いたネズミは、仲間から襲われて平常心を失い、浮き足立った鹿の喉笛を切り裂いた。一声上げて鹿は崩れ落ち、次の瞬間ツァーリは呪言の呪縛を解除する。

体を制御する意思が他人のものから自分のものに入れ替わり、状況が理解できずに一瞬止まった小さな隙――そこにカレンがつけ込んだ。大きく杖を振りかぶって跳躍し――

「どーん!」

ぐちゃ、という音と共にネズミの五臓六腑があたりに撒き散らされる羽目になった。


「…………」
「新技ヘヴィ・ストライクです」
「……いや、『どーん』って威力じゃねえだろ……」

ぐっ、と親指を立ててきたカレンに、ベルドは疲れたように突っ込んだ。

 

 

「ん?」

それは、全くの不意に起こった。あちこちを歩き回り、下り階段を探しながら地図を作っている最中、ゲリュオがふと遠くに一つの気配が現れるのを感じた。その気配の正体を理解するまで一秒。ゲリュオのよく知っているものだった。

が。

「……ツスクル?」

正体を推測したゲリュオは自信なさげに呟いた。そう、その気配は幾度となく世話になった先輩冒険者、呪い師の異名を持つ凄腕のカースメーカー・ツスクルのものだった。

ツスクルはいつも、氷の剣士・レンと二人一組で行動している。そもそもカースメーカーそのものが近接戦闘に向いているものではなく、ブシドーのレンはともかく、ツスクルが単独で行動するのは危険極まりない。まあ、「カースメーカー」という枠ではなく、「ツスクル」という枠で判断しなくちゃならないような気もするし、ツスクルなら一人でも行けるんじゃないかという気もしなくは無いのだが……

「……とりあえず、行ってみようぜ」

ここで考えていても仕方が無いという結論に達し、紆余曲折の面々はその気配の元へ急ぐことにした。

 

 

「ツクルスさーん!」
「ツスクルです」

ずざざざざ、と流砂に乗って流されてきたベルドは、遠くに立っていた黒いローブの少女を見つけて手を上げた。名前を間違えられることには慣れているのかゼロコンマ一秒で返事が返ってくる。

「こんにちは、お久しぶりですね」
「……そうね、久しぶり」

続いてやってきたカレンが頭を下げると、ツスクルもぺこりと頭を下げる。

「何をしているんだ、こんなところで?」

砂の流れる方角の問題もあり、一行はツスクルのところにたどり着くまでぐるりと回って行動しなければならなかった。たどり着いたのは結局、ゲリュオがツスクルの気配を感じてから優に二十分が経ってからだ。

最もな質問を受けた少女は、視線を動かすと流れる砂を見つめた。


「あなたたちが、ここまでくる日をずっと待っていたの。流れる砂の音を一人で聞きながら……」
「さみしーヤツだな」

反射的に感想を述べたベルドをツァーリが殴った。ベルドは頭を抑えて呻き、それからやおら顔を上げた。

「あ、つまり友達がいな――」
「命ず、輩を喰らえ」
「卸し焔」
「ぎゃああぁぁぁ!!」

念のため言っておくが、ツァーリはゲリュオに呪言をかけてはいない。ツァーリはアホくさくなってゲリュオにぼやき、とりあえずお前は黙れという点において同意見だったゲリュオは応じるように卸し焔を放った。地味に炎属性で弱点を突くあたりがナチュラルに残酷である。


どたばた騒ぎを柳に風と受け流し、視線を上げた赤毛の少女・ツスクルは、力強い視線で一行を見た。そして、おもむろに言葉を投げる。


「……私は、レンが心配」
「え?」
「レンが心配。そう言ったの」

いきなり何の前触れも無い話だが、全く何の関係も無い話というわけではないだろう。そう推測した彼らは、とりあえず聞きに回ることにする。

「……彼女は、過去にとらわれすぎてる。このままじゃきっと、いつかダメになっちゃう」
「……過去?」
「それを防ぐためには、誰かがこの迷宮の真相をあばく必要があると思うの」

少女の小さな手が、ツァーリのほうに差し出された。その手には、一つの巻物が握られていた。

「これは、私たち一族の秘伝書。物凄く強力な呪言が入ってる」
「……これを、わしに?」
「ええ。きっと、貴方なら使いこなしてくれると思うから」

言葉と共に巻物を渡すと、ローブ姿の少女はきびすを返し、もう用はないとばかりに歩き出す。姿が消え、ツァーリはとりあえずその巻物を広げてみる。

「なるほど、確かにこの呪言は相当精神力が強くないと使えないな……」

ツァーリの呟きは、一行にツスクルがどれだけの期待をかけたのかを連想させるに容易かった。

 

 

「……ん?」

そこは、ツスクルとあった場所から東に少し歩いた場所だった。行く手を塞ぐように木々の壁があり、そのうちの一つに、明らかに人工的なくぼみが存在する。

「何かの隠し場所か……ツァーリ、地図はどうなっている?」
「まだ完成していない場所もあるが、正直階段がありそうなところはないな」

難しい顔でゲリュオが考え、横のツァーリに質問する。ツァーリは羊皮紙に書いた地図を見ながらそれに答え、しばし沈黙すると己の考察を述べた。

「……キュラージ卿、たしか執政院に石版を渡したよな?」
「ああ、渡したが?」
「石版?」

ゲリュオの返事に、何のことかよく分からないベルドが質問を重ねる。ツァーリはああと頷くと、ベルドに説明した。

「そうか、お前さんはたしか頭痛で蹲ってたからの。見ていないのか」
「ああ。なんのことだ?」
「地下十五階であの少女がコロトラングルをけしかけたやろ? それで、本人はそのまま駆け去っていった」
「だったな。よく見てないが」
「で、何度も現れては消えていく少女に不信感を抱いたキュラージ卿が、踵を返した少女を捕まえようと手を伸ばしたんやが、すんでの差で捕まらなくての。せやけど、その手は少女の首にかかっていた紐にひっかかって、その紐が切れて石版が転げ落ちたんや」
「へぇ……」
「その子は石版を未練ありそうに見つめていたが、何分本人が捕まったら元も子もないと思ったのか、何か振り切るように走っていったんや」
「……で、その石版は執政院に届けたんだな?」
「ああ、お前さんが寝ている間にな」

ベルドの問いに、ツァーリは肯定の返事を返した。あまりにリーシュ戦からが忙しすぎて忘れていたが、そういえば執政院から「樹海の奥にいる謎の生物を調査して来い!」とのお触れを受けていた。その生物が執着を見せた石版というのは、たしかに重要な証拠になるかもしれない。渡すのも頷ける話だ。

「ってことは何だ? その石版とこのくぼみのサイズが一致するとか?」
「大体やけどな」

とはいえ、下り階段候補として他に有力な場所は無い。そんなわけで、彼らは一旦引き返すことになるのだった。

 

 

「久しぶりだな、紆余曲折の諸君……確か、石版を借り受けたいという話だったね」

というわけで、エトリアの街執政院で、石版を返して欲しいと頼み込んだ紆余曲折の面々は、長・ヴィズルの元へと案内されていた。応対に出てきたのはいつもの受付の人だったが、執政院全体にも関わる問題であるからか、彼の一存では決められなかったらしい。ヴィズルは案内されたベルドたちに、重々しく口を開いた。

「……実はあの石版を調べて分かった事があるのだ。君たちが遭遇した亜人の娘は『モリビト』という樹海の住人で、人とは違った進化を続けた、樹海に住まう生物のようなのだ」
「モリビトぉ!?」

そこまで説明したとき、カレンが素っ頓狂な声を上げた。そこへヒオリが聞いてくる。

「どうしたの?」
「いや……ネーミングセンスなさすぎなんじゃないですか?」
「……それでいいんじゃない? 分かりやすいし。いくら捻ったって『グレートドラゴン人』とかつけられたらわけ分かんないじゃん」
「だけどあまりにもそのまますぎるじゃないですか。どうせなら『グレートフォレスト人』ぐらいひねればよかったんじゃないですか?」
「いや、そこは樹『海』だからあえて『グレートオーシャン人』とか……」
「ヴィズル殿、気にせず話を続けてくれ」

ケフト施薬院で処方してもらった頭痛薬の錠剤(水もいらない新型タイプ)を飲みながら、ゲリュオがヴィズルに続きを促す。ヴィズルはゲリュオに哀れみの目を向け、話を続けた。

「……どうやらモリビトは樹海を聖地とし、立ち入る人間を敵対者として始末しているらしい。このままでは、樹海の探索を続ける事など出来ない」
「……………………」
「そこでキミたちに頼みがある。どうだろう、モリビトを、殲滅してくれないだろうか?」
「はあっ!?」

ベルド、ゲリュオはいうまでもなく、ぎゃあぎゃあ騒いでいた後衛三人組もその言葉で動作が止まる。数秒の沈黙が流れ――いち早く我に返ったゲリュオが、ヴィズルに氷点下の眼光と言葉を飛ばす。

「ちょっと待ってくれ。いくらなんでも、殲滅はいきなりすぎるだろう」
「そうですよ、話し合いだって出来ると思います、なのに――」

ゲリュオとカレンの言葉を、ヴィズルは問答無用で叩き斬る。

「いや、奴らに話し合いの余地などない。モリビト殲滅、それを条件に石版を貸す事にしよう……さぁ、どうするかね?」
「……いらねえよ、そんなもの」
「……なに?」

想定外の速さで返事を返され、ヴィズルの眉がぴくりと上がる。ヴィズルだけでなく、その場にいた全員の耳目が、返事を叩き返した少年に集中した。

「殲滅なんて条件に乗ってたまるか、だったら石版無しで突破してやる!」
「え、で、でも――」
「行くぞ、お前らっ!!」

青緑の瞳に怒りを湛えて、ベルドはヴィズルを怒鳴りつけた。そのまま、くるりと踵を返して部屋を出て行く。

ベルドの怒りは分かる。分かるが、いくらなんでも勝手が過ぎる。

だが。

何も言うな――無言のうちにその背がそう言っている気がして、ゲリュオたちも何も言うことは出来なかった。

結局、その日はそのまま宿に戻ることになった。

 

 

「どうするつもりだ」

長鳴鶏の宿204号室、ギルド「紆余曲折」の男子部屋で、ゲリュオはベルドを問い詰めていた。

先も述べたが、決してベルドは間違った判断を下したわけではない。ついでに、ゲリュオもモリビトたちをむやみに殲滅しようとは思わない。そういうわけではないが、仲間たちの意見も何も聞かずに独断を下すというのはさすがに看過できない問題だ。

「……頼みがある」

そして、その言葉を受け、ベルドが言葉を発した。

「明日、もう一回あのくぼみの場所へ連れて行ってくれ」
「……どういうことだ?」
「もしかしたらだが……あの場所を、突破できるかもしれない」
「……なんだと?」

どか、と床に座り込み、胡坐をかいてベルドは話す。

「それだけだ。確証も保証も無い。だが……俺にどうこう言うのは明日失敗してからにしてくれ」
「……お前、やっぱり……」
「何も言うな。そして、話すな。何度も言うが……確証も保障も、何も無い」

あるのは拭いきれない不快感と焦燥感、そして――頭痛。ずっとだった。枯レ森に入ってからずっと、ベルドはその感覚に襲われ続けていた。それを振り払うように、ベルドは首を振った。

「全ては明日だ。それからにしてくれ」

それだけ言うと、ベルドは話を打ち切るように、再び首を振った。

 

 

「……ここだ」

そして、翌日。行く手をさえぎる木々の壁、そこにある人工的なくぼみの前に一行は再び立っていた。

「……………………」

ベルドが一歩、前に出る。左手はしっかりとヒオリの手を握って、ベルドはくぼみに右手を添える。

「……………………」

目を閉じる。暗闇の奥に、境界線が見える。その向こうに手を伸ばす感覚。そして感覚が境界線を踏み越えたとき、その口は自然と開いていた。

「言霊は流れる、荘厳なる意志は今此処に、現世の導を照らすは森人なり――」


「――呼びかけに応え、その道へ通せ、森よっ!」


――枯レ森が、応えた。

 

 

「……え?」

気がつくと、彼らは見知らぬ場所へ立っていた。周囲は高木に覆われており、目の前には地下十七階へと通じる階段がある。そして、後ろには――

――冷や汗をびっしょりかいたベルドが、ヒオリに背中をさすられていた。

 

 

頭が痛い、体が寒い。何か踏み越えてはいけないものを踏み越えてしまったせいか、身体の異変が止まらない。せわしなく上下する背中をさすってくれるヒオリの片手と、左手を握り締めてくれるもう片方の手、ツァーリが一時的に貸してくれた状態異常に強い抵抗力を持つロイヤルリング(カレンがリフレッシュの薬瓶に一晩漬け続けてくれた特製品)が無ければとっくに正気を失っていたかもしれない。

ゲリュオの声も、遠くに聞こえる。カレンがキュアの準備をするのが見える。そして、不安げな顔で背中をさするヒオリが見える。

「……っく……」

だが、ヒオリにはそんな顔をさせたくなかった。揺れる視界の中、ベルドはど根性で立ち上がる。背をさすっていたヒオリが驚いた顔になるが、とりあえず悲しげな表情は吹っ飛んだ。

「……行くぞ」
「い、行くって、お前顔色真っ青だぞ!?」
「うるせえ、大丈夫だ。行くぞ」
「行くぞって……ええい、カレン!」
「何ですか」
「ベルドにキュアを頼む。こうなったらこいつは止まらん」
「了解です。最近覚えた超強力なやつを入れてあげましょう。ベルドさん、リフレッシュは必要ですか?」
「……今はいい」

やったらその部分の記憶が消えてしまうし、そうなったら樹海探索に支障が出てくる。まあ、この時点で十分支障が出ているような気がしないでもないのだが。少なくとも、メンバーに迷惑はかけまくっている気がする。

 

 

「お前は……!」

ベルドの体調が回復するのを待ち、踏み込んだ地下十七階――枯れた草を分け進む一行の前に、一人の少女が現れた。

その姿は今まで何度も見てきたもの。執政院の話が正しければ、彼女がモリビトという種族の少女のはずだ。

少女は一瞬あっけに取られた顔を浮かべるが、きびしい顔で一行を睨むと、強い口調で話しかけてきた。

「……貴様ら……どうやってここまで入ってきた?」
「どうやってって……」

強い口調で聞いてくる少女は、敵意に満ちた目で一行を見つめる。

「……そもそも、人は我らモリビトとの間に結んだ協定があるはずだ。忘れたのか、森の奥に進まぬという約束を」
「協定? 何の事だ? そもそも、モリビトとは何者なんだ?」

眉を顰めて問い返すゲリュオに、少女は呆れた様に呟いた。

「我らの存在すら忘れたのか……人とはそこまで、忘却してしまうものなのだな……」

どうせ全てを忘れ暮らすならば、そのまま樹海のことも忘れるが幸せだったであろうにな。そう続けて、少女は再び口を開いた。

「モリビト……すなわち我らは、樹海で生を受け、人とは違いこの森を守る運命にある者だ。故に我らは、貴様たち人が樹海に潜ることを許すわけにはいかぬ」
「ならば、協定とは何だ?」
「古き時代……。神の樹木によってこの樹海が生まれた頃、我らもまた、ここに生を受けた」
「それは、どれだけ昔の話だ?」
「我らが忘却するにはまだ新しい話だが……お前たちが忘却に及ぶには、充分な時だったようだな」

少女は苦笑を浮かべ、首を振った。

「樹海の外にいた貴様たち人間は、樹海に驚き、我らの住む地へ足を踏み入れたのだ。当然、中にいた我らと人は激しく争い、多くの血が流れた」
「……侵略か。いつの世にもある、人の性、か……」

ツァーリの言葉に、少女は一瞬目を向ける。その瞳に宿る光は――侮蔑だ。だがそれも一瞬で消え、少女は再び言葉を紡いだ。

「……そして、長引く戦いに終止符を打つため、互いの長が話し合った。その結果、人は樹海の外で、モリビトは樹海の中で生きる事になった。そして互いの生活に干渉しないと協定を結んだのだ」
「……………………」
「……以来、人がこの樹海の奥に足を踏み入れることは禁じられ、樹海は我らのものとなった」

そこまで語ると、その少女は右手を突き出した。

「……理解できたら戻るがいい。これ以上進んだ時には、その命、保証できぬと思え」

叫んだ少女は、だが――と、一拍置く。

「その前に一つだけ教えろ。私は、貴様らが逃げたのだと思っていた。貴様らにコロトラングルをぶつけた後、数時間経って見に行ってみれば、ヤツは空を飛び回っていた」

少女は先ほどまでの表情と違い、純粋に疑問を浮かべた顔でベルドたちを見る。それに対して、まだ若干冷や汗を浮かべながらベルドが答えた。

「馬鹿抜かせ、ただの門番扱いしていたやつの命令で、友達砕くほどあいつは馬鹿なヤツじゃねえよ」
「……友達、だと!? 馬鹿な、コロトラングルに友などいないはずだ!!」

達観していた表情を浮かべていた少女の顔に、初めて驚愕が張り付いた。吐き捨てた少女は、おそらくその時はじめてベルドの顔をまともに見ただろう。その驚愕がさらに増大し、少女は焦った声で聞いてくる。

「……答えろ! 貴様、十年前、どこで何をしていた!!」
「……切羽詰っているところ悪いが、そりゃ答えられねえな。俺は、七年以上前の記憶がなくて――」

少女の動転、ここに極まった。そうか、そういうことか――うわごとの様に繰り返し、その顔がだんだんうつむき加減になっていく。やがて、肩が震え――そして、爆発した。

「ははは、そうか、貴様があの『忌み子』か! そうかそうか、道理でコロトラングルを倒さずにここまできたわけだ!!」

樹海に哄笑を響かせた少女は、森の奥をびしりと指差す。

「いいだろう、前言撤回だ! 失われた貴様の記憶と出生の秘密、知りたければ来るがよい!!」

少女はそう叫んで指を鳴らすと、身を翻して駆け去っていった。そして――


「……ベルド」
「……………………行くぜ、みんな」

ベルドは奥歯の底から絞り出すような声を出し、樹海の奥を睨み据えていた。

 

 

 

 

 

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