第二十一幕

契約


「うぃっす!」
「あ、ベルドさん!」

長鳴鶏の宿204号室、要約するとギルド「紆余曲折」の男子部屋、さらに要約するといつもの場所に帰ってきたベルドはしゅたっと手を挙げて帰還の報告をした。部屋にいたのは彼らのメンバー・ゲリュオとツァーリ、それから女子部屋から出てきたカレンであった。帰還宣言に返事をしたのは言うまでも無いがカレンだ。

「どうだ、勝てたのか?」
「うん、ばっちりだよ!」

ゲリュオの確認に、ベルドの背後からひょこっと顔を出してヒオリが答えた。そうか、と頷いたゲリュオの横で、カレンが確認をする。

「ということは、これからも五人で探索が出来るということですね?」
「おおよ、心配かけたな!」

この前日、ベルドはリーシュに戦いを挑まれたことをカレンとツァーリに詳細に話していた。三対一まで可能なことも、ベルドたちが勝てばアーティミッジは手を引くことも。その時ゲリュオはまだ帰ってきてはいなかったはずだが、勝負の結果を尋ねたあたりカレンかツァーリから話を聞いたのだろう。

「ついでにヒオリの身分も奴隷から平民へランクアップだ! 褒め称えろ貴様ら!!」

その言葉と共にびしい、とヒオリを指差したベルドは、ゲリュオに笑いながら肩を叩かれた。言葉も無いその行為には、彼なりの心からの賞賛が込められていた。

 

 

「……ベルド」
「ん?」

そして、その夜。屋上でフェンスに寄りかかっていたベルドは、ふと声をかけられた。

「おう、ヒオリか」
「うん。……隣、いい?」

そう聞いた後、答えも聞かずにヒオリはフェンスに体を預ける。別段ベルドも断ろうとは思っていないので、何も言わずに隣を見る。

「……ベルド」
「なんだ?」
「今日からボク、平民になったんだよね?」
「そうだな」

ベルドの答えを聞き、ヒオリはフェンスから体を外す。その行動から、真面目に聞くべきだと思ったベルドもフェンスから体を外してヒオリに向き直った。

「……ベルド。見てもらいたいものがあるんだけど、いい?」
「……なんだ?」
「……これ」

そう言うと、ヒオリはすっと左目の眼帯に手を添える。そして、それをそっと取り払った。

「――――!!」

それを見たベルドは言葉に詰まる。閉じられた左目のまぶたに焼き付けられていたもの――それは、それが奴隷であることを示す焼印だった。

「な、なんで……」
「奴隷はね、それが奴隷であることを表すために、体の一部に焼印を押されるんだよ。知らなかった?」

それは知っていた。知っていたが、本来押印される場所は左右どちらかの手の甲だったはずだ。それか、背中の場合もある。だが、ヒオリの左目に焼き付けられていたのは、間違いなく奴隷の焼印だった。

「なんで、そんなところに……」
「……ボクね、生まれつき左目が見えなかったんだ。それを見たコルディアは、目立つ場所に焼けるって喜んでね。こんな所に押されちゃったんだよ」

顔と髪は、女の命と言われる場所だ。だが容赦なく焼かれた印のせいで、彼女の左目はもう開かない。たとえ見えないとしても、その瞳が開くことはもう無かった。文字通り、光を奪われたのだろう。

どこよりも目立つ場所に押され、ヒオリはずっと眼帯で隠していた。ずっと傍にいながら、それに気づくことも出来なかった。自分の馬鹿馬鹿しさに嫌気が差し、ベルドは軽い自己嫌悪に落ちる。

「それから、もうひとつ見てもらいたいものがあるんだ」

そう言うと、ヒオリはいつかのように服のボタンを外し始める。ベルドが制止の声を上げる間もなく、ヒオリは上半身裸になった。

「おい、何やってる?」

ベルドの疑問の声を気にも留めず、ヒオリはくるりと背を向ける。それを見て――ベルドは再度、声に詰まった。

肩甲骨の辺りから腰まで、バッサリと切り裂かれたようにつけられた傷。わきの下にある、抉られたような跡。煙草か何かを押し付けられたのだろうか、火傷の痕跡。その他大小さまざまな傷が、ヒオリの背に無数に刻まれていた。

「仕事に失敗した時の罰則。顔とか頭とかには見てくれが悪くなるからって、胸とかその辺には男性客が興奮しなくなるからってつけられなかったけど、背中には容赦なくつけられた」
「…………」
「痛くて熱くて、悲鳴を上げたらもっとやられて――今更ボクが平民になっても、この傷だけは多分、絶対消えない」
「ヒオリ……」
「ボクは今までやられたことを忘れない。自分が奴隷だったことも、つけられた傷の痛みも。ボクは絶対、忘れない。忘れることも、出来ないと思う。この眼帯だって、男性客の性欲処理のために渡されたものだもん」

言葉が出ないとはこのことだ。傷を隠す眼帯さえも、嫌な思い出しか詰まっていなかった。嫌な思いを別の嫌な思いで隠す、その心境はいかなるものだろうか。

「……強いな、お前は」

なんともなしに、そんな言葉が漏れる。痛みと苦しみと、その中で生きてきた地獄の日々。それでも絶望だけはせず、希望を求めて逃げ出してきた。

「……ねえ、ベルド」

そのまま、ヒオリは首だけをベルドのほうに向ける。彼女の体に刻まれた傷は、その全てが月光の元でベルドの下にさらされる。

「幻滅した? こんなボロボロの女の子を、顔にも醜い痣がついた女の子を、ベルドは抱ける?」
「……………………」

ここで言われる『抱く』の意味が分からないほどベルドも鈍くはない。そして、何の関係も無い場所で出した性的言動――恐らく、ヒオリはそれを通して、こう言いたいのだ。

――今更、平民になっても意味など無いのだ、と。


それが間違っているとは言わない。だが、合っているとも言いたくない。だからベルドは、ヒオリの不安を真っ向から粉砕にかかった。

「……ああ、抱ける」
「……本当に、そう言える?」
「言える」

刹那の躊躇も無く、ベルドは言い切った。

「お前が俺に不安要素を見せるのなら、俺はその度に何十回だろうと何百回だろうと言ってやる。お前に傷があろうが火傷があろうが、奴隷の押印があろうが角が生えてようが牙と尻尾があろうが言ってやるさ」

ヒオリに歩み寄り、紅の隻眼を両の瞳で真正面から見つめる。

「俺はお前が好きだ。どんな姿であろうとも、お前が好きだ」

ああ畜生、なんでこんな難儀な女に惚れちまったんだ。内心で頭を抱えるベルドを、ヒオリは一つしかない目で見つめる。対するベルドも、その目を真っ向から見つめ返す。長い沈黙の後、口火を切ったのはヒオリのほうだった。

「…………じゃあ、証明して」
「……どうやってだ?」
「……ボクは今まで、奴隷でした。たとえ平民になったとしても、この印がある限りこれから先も奴隷として見続けられるでしょう」

奴隷の押印。それは、それほどまでに強い効果を持つ。たとえ自分で平民だと言い、事実平民であるとしても、押された焼印を見た人はその人を奴隷だと思うだろう。なんのことはない、それはそういうものなのだ。

「……そして今、『奴隷』のボクに、持ち主はいません」
「……ああ」
「だから、ベルド……ボクのことを、買ってください」
「……いくらだ」
「ううん……お金は要りません。ただ、普通の幸せを、ボクにください。友達と、仲間達と笑って、また樹海に探索に行って、そして――ボクの隣に、いてください。意味も無く殴ることなんてしないで、朝はおはようって言って、夜はおやすみって言って、一緒に泣いたり笑ったりして――それが、ボクの買値です」
「…………」

なんて――なんて条件だ。でも、それがおそらくヒオリが求めて止まなかったものだろう。ただ当たり前の、平民としての生活。それにずっと憧れていた、一人の少女が目の前にいた。

だから、ベルドの返事は決まっていた。

「――いいだろう。その条件で、お前を買おう」

だが――、と、ベルドは言葉を続けた。

「こっちからも一つだけ条件だ。その言葉を、俺が喜ぶように言い直してみろ」
「……え?」
「買ってくれ。その言葉じゃ、俺はお前の隣には立たない。何のためにお前を平民にしたのかを考えて、それでその言葉を別の言い方で俺に言え。手っ取り早く言えば――俺に、お前を買わせる気にさせてみろ」
「え、えと――?」

言葉の意味が分からなかったのかしばらく戸惑っていたヒオリだったが、やがて答えに行き着いたらしい。その瞳が、ベルドを捉えた。

「――えっと、ベルド」
「ああ」
「ボクと……」


「――ボクと、付き合ってくださいっ!」
「――及第だ」

そう言うと、ベルドはヒオリの頭に手を載せた。そのままヒオリを抱き寄せて、そっと頭を撫でてやる。

「頑張ったな。ずーっとお前のこと、大事にするからな」
「うん……ずっと、大事にして……?」

返事は、抱き寄せる力の強まりで返した。いつまでもこうしていたかったけど、ベルドはゆっくりとヒオリの体を引き離す。ヒオリは嫌がるように抱きついてきたが、名前を呼ぶと力は弱まる。

「さてと……いつまでもアーティミッジの刻印があるのも、考え物だな」

にっ、と。自分でも笑みが漏れるのが分かる。ヒオリは「え」とだけ声を漏らすが、でもと小さく言ってきた。

「でも、消えないよ?」
「上から別の刻印つける。とはいえ、そのアーティミッジの刻印と一緒につけるとごっちゃになりそうで嫌だ」
「ベル、ド……」

声が、少し震えた。言ってしまってから、自分は軽く後悔する。どうしてこうも、自分は口が悪いのか。

案の定、ヒオリは震えるようにして、顔を下へと伏せてしまった。

「……い、痛いの、やだ……」

それ見たことか。とはいえ、言ってしまったものは仕方がない。頭を撫でてやりながら、ベルドは明るい声で返した。

「ばーか。誰がお前を痛い目にあわせなきゃなんねーんだよ」

……ところで、逃げないのはどうしてだろうか? 少しの疑問を覚えながら、ベルドはヒオリの顎に手を当てる。ぴくりと震えたのは、自分が悪い。

「こっぱずかしいから、一回しかやんねえからな。嫌じゃなかったら、目ぇ、閉じろ」
「ぇ……」

小さな声が漏れた。その言葉を理解していないのか、きょとんとした目でベルドを見て……理解……した瞬間、一気に耳まで赤くなった。

「……で?」

にぃっ、と。唇の端を吊り上げた、いつもの無敵で不敵な笑み。好戦的で、軽薄そう。そんな印象を与えてしまう、ベルドという人物の評価を一定以上に上げない笑み。自分でも悪い癖だとは思っているのだが、この不敵な笑みとそれに伴うハッタリは、冒険者としてやっていく上では必須機能だ。

……使いすぎている気もするが。

だけどヒオリは、その奥にあるものを見抜いたのか。軽く爪先立ちになると、軽く首を傾けて、紅の瞳を静かに閉じた。ベルドも目を閉じながら、ヒオリの唇に自分のそれをそっと重ねる。

実益つきの、甘い契約。ヒオリの口から、吐息のような声が漏れた。ゆっくりと口を離してやると、ヒオリは名残惜しげな声を出す。ぽうっとした頬ととろけた瞳が、ベルドの理性を刈り取っていく。

「……まだ、支えられる甲斐性もねえから。続きはまた今度だ、忘れんじゃねえぞ、その刻印」
「……ふぇ……」

それだけ漏らすと、ヒオリはベルドの胸板に顔を埋めた。離すまいとする強い力が、ベルドの体を抱きしめる。ベルドはヒオリの頭を何度も撫でて、穏やかな時を過ごしていく。

やった自分も、かなりこっ恥ずかしかった。しかも、その後に見せられたヒオリの顔で、理性を横殴りに殴られた。落ち着くまでに時間がほしいのは、自分もヒオリと同じだった。

やがて、ヒオリの力が少しだけ緩まる。ゆっくりと目線を合わせてくると、ヒオリはほにゃっと微笑んだ。とはいえ、ないと思うがこのままもう一回などとねだられても困るので、ベルドはいつも通りの口調でほざく。指を差すのは、ヒオリの脱ぎ捨てた上半身の下着と寝巻き。

「……ま、さしあたって、とりあえずはこいつを着とけ。これじゃ俺、犯罪者だ」
「え……う、うわあ!」

半瞬遅れて、ヒオリは自分の格好に気づく。大慌てで地面の服を掴むと、ぱっと離れてこれまた大慌てで服を着だす。

そんなあたふたとしたヒオリを見て、ベルドは自然と笑みが零れるを感じていた。そんなベルドと目が合い――ヒオリもくすくすと笑い出した。


夏の盛り。全てを受け入れた、少年と少女の夜だった――

 

 

 

「ちょ、ちょっと待ってくれーっ!」
「……えっ?」

リーシュ戦から一晩空けた翌朝、エトリアの街の入り口で、ベルドは去り行く姿を呼び止めた。

「や、やっと追いついた……」
「ベルドさん?」

驚いた顔で振り向くのは、自分を鍛えたあの槍使いの少女だった。ベルドは額の汗を拭い、息を整えて少女に聞く。

「――もう行っちまうのか?」
「うん。もうこの街に私の助けを必要としている人はいないからね」
「……俺、まだあんたに昨日の報告してないんだけど」
「いらないよ。どうせ勝ったんでしょ?」
「……負ける可能性は考えなかったのか? 敗北って結果だって十分ありえたぞ?」
「それはないよ。だって私が鍛えたんだもん」

その自信はどこから来るのか、それともただの自意識過剰か。どちらにせよいい度胸である。


リーシュ戦から一晩開けた次の日、朝一番に勝利報告をしに行こうとしたベルドであったが、すでに部屋はもぬけの殻であった。たまたまそこを通りかかった従業員に聞くと、先ほど出発したばかりだという。ならば十分追いつける可能性はあると踏んだベルドは、勝利報告をすべく取るものもとりあえず飛び出して走ってきたのである。

「それに、勝ってくれなきゃ私が鍛えた意味が無いじゃない」
「……確かに、そりゃそうか」

ベルドは苦笑して首を振った。確かに、頭下げて弟子入りしといてそれでも結果は変わらなかったら師に申し訳が立たない。そんなベルドに、少女は声をかける。

「それで、用件はその勝利報告なのかな?」
「まあな」
「別に、しなくてもよかったのに」

と彼女は言うが、元々リーシュに打ち勝つために弟子入りしたのだ。ならば結果報告はするのが筋ってものだろう。少女はいいかもしれないがベルドが納得できない。

「まあ、その報告は受け取っておくよ」
「ああ。一週間、ありがとな」
「どういたしまして」

ベルドの礼に、少女も礼儀正しくそれに答える。返事を聞き、ベルドは次の言葉を出した。

「それから、もう一つ頼みたいことがあるんだがいいか?」
「なに?」
「……俺と、戦って欲しいんだ」

その申し出を聞いた少女は、一瞬きょとんとした顔になる。半瞬遅れて、言葉の意味を理解した少女は笑みを浮かべた。

「私に鍛えられた力で私に挑むの?」
「結果的にはそうなるかもな。でも、今回は違う。今までの師匠と弟子って関係じゃなくて、単純に一人の戦士として、自分よりも高い実力を持つ人間に挑みたい。この感覚は分かってくれるかな?」
「……うん。なんとなく」

ベルドの問いに頷いた少女は、肯定の返事を返して槍を抜いた。

「だったら、貴方がその覚悟で来るのなら、私も全力で相手をさせてもらう。いいよね?」
「勿論だ」

そしてベルドも、剣を抜いた。

 

 

「…………」

エトリアの街郊外で、剣を抜いたベルドは少女を注意深く観察していた。対する少女は槍を中段に構えたまま微動だにしない。その状況のままかれこれ二十秒近くが過ぎていた。

通常、槍に――というよりは、自分よりも長いリーチを持つ武器に対して先手は取れない。まずは打たせて後の先を取る。それが常道というものだ。しかし今までの訓練において、少女はほぼ確実にベルドをヒオリ諸共一撃で戦闘不能に追い込んできた。まずは打たせ――たらそのまま敗北しかねない。だが、だからといって先手を取ることも出来なかった。ベルドが戦いを挑んだ理由の中に、少女の一撃を見切りたいという願いもあったからだ。

さらに十秒、その時は来た。少女が槍を素早く突き出す。刹那、その先端から迸った強烈な風の刃がベルドめがけて襲い掛かった。

「――――!」

そして、ベルドの瞳孔がそれを捉える。跳躍したベルドに半瞬遅れて、風の刃が駆け抜けていく。このときベルドは、初めて少女の一撃を回避した。そして、勢いに乗ったベルドは空中にもかかわらず一気に猛反撃に打って出る。

人間にかかわらず、大半の生き物は空では自在に動けない。だが、呑気に着地していたら少女は既に第二撃目を放っているだろう。先の攻撃をかわせたのだって、自分の実力もあるにはあるがまぐれに近い。自由に動けないからといって、今反撃を仕掛けなければ一撃を入れられる可能性ははっきり言ってゼロだ。

おそらくチャンスはたったの一度、そして結果にかかわらず少女はもうこの街を去る。失敗したら後は無い。一週間、二十回近くも戦ってきて、ただの一撃も加えられないまま終わることになる。無論、今反撃に出たからといってその可能性はやっぱりゼロに近かったりはするのだが、ゼロに近いのと実際ゼロなのとでは天と地ほどの差がある。

少女が槍をベルドに向ける。風を槍に乗せて放てる少女にとって、相手が空中にいようが地中にいようがどこだって射程範囲内だ。だが少女が攻撃を仕掛けるより速くベルドは左腕を振るった。あらかじめ止め具を外しておいたベルドのアームプロテクターが少女めがけて飛び、さすがにこれは想定外だったのか少女の動きが一瞬止まる。

その間にベルドは上空から襲いかかった。右手に握った剣を振るい、トルネードを放つ。剣から放たれた烈風と、それに伴う作用・反作用の法則でベルドは一直線に突っ込んだ。

この攻撃は予想できなかったらしく、少女は槍で受け止める。だがベルドは止まらない。すぐに剣を振り下ろし、正面からの第二撃目。それも合えなく受け止められる。しかし、予想外の攻撃を二回連続で打ち込まれたためか、さすがに体勢を崩し気味となった。とはいえ、その程度で済むのが恐ろしい。

「っだああぁぁぁっ!!」

だがベルドの執念は止まらなかった。相手の槍を引っつかむと、力任せに引き寄せる。宙に浮いた体を逆利用して、少女めがけて渾身の頭突きを叩き込んだ。


――直撃、少女の体が大きく曲がって吹っ飛んだ。だがベルドもむちゃくちゃな攻撃方法を行ったため追撃には移れない。べしゃ、と自分が地面に顔から滑り込む音がやけに大きく響いた。

「……っくぅ……」

顔を上げると、少女は片膝をついていた。ベルドはそのまま立ち上がり、突き刺した剣を引き抜いた。見ると、少女は特に攻撃を仕掛けるでもなくベルドを見つめていた。

「……お見事。やられたよ」
「……あれだけ全力攻撃仕掛けといて結果は片膝だけか、恐ろしいな」

苦笑したベルドは、分かってはいたが隔絶した実力差を改めて見せ付けられ、片手で頭を抱えた。

「じゃあ、お礼に私も一瞬だけ全力出させてもらうよ?」
「ああ、来いよ! 遠慮すんなって言っただろ!!」

その距離は五メートル。風の刃で攻めてくるか、それとも接近戦に持ち込んでくるか――答えはそのどちらでもなかった。少女は右手を軽く掲げ、ベルドに世間話をするかのように話しかける。

「……前に一度、ベルドさんにも言ったよね? 私の本職は魔術師だって」
「……っ、まさか!?」

ベルドの顔が驚愕に染まる。そう、風の刃を使わなくとも、距離を詰めなくとも。五メートルの距離など、魔術師にとっては無きに等しい。

「……死なないでくださいよ、ベルドさん」

少女の右手に、ぽうと淡い青色の輝きが宿る。それを突き出し、少女は叫んだ。

「――バギクロス!!」
「っがあぁぁっ!?」

刹那、ベルドの周りに発生した巨大な真空の竜巻が、彼を回避も防御もさせずに飲み込んだ。なす術も無く翻弄され、完全に体勢を崩して地面に叩きつけられかけたベルドめがけて、少女は軽く地面を蹴って疾駆してきた。

たん、という軽快な踏み切り音しかしなかったはずなのに、その速度はベルドの最大速度を軽く抜いていた。一瞬で距離を詰められ、少女は容赦なく槍を繰り出す。

「聖槍秘術――」


「――千烈槍!!」

その声と同時、槍が霞んだ。繰り出される攻撃は、一刹那の内にに十七連撃。相殺どころかただの一撃も防御することは出来ず、次の瞬間ベルドの体から――正確には、そこに穿たれた傷から――間欠泉のように血が噴き出した。

全身から血を撒き散らして吹き飛ぶベルドに、少女は魔法を唱えた。瞬間、地面に風が巻き起こり、ベルドの体を優しく受け止める。

「……ぅ……ぁ……」

最早断続的な痙攣しかしなくなったベルドの体に手を当て、少女は何事かを呟いた。瞬間、当てられた掌から緑色の光が走り――その傷をあっという間に回復させた。

「……え!?」

驚いたのはベルドである。あれほど深刻なダメージを受けていたのに、もう体には傷一つ無いのだから。

「驚いた? 私はね、本来回復や補助魔法の使い手だから。攻撃魔法だって、そんなにレパートリーは多くないんだよ」
「……そのレパートリーの多くないヤツにこうもあっさり負けるか、俺は」

分かってはいた。勝てるはずなど無いと。分かってはいたが、こうもあっさり負けると悲しくなってくる。

「ふふ。それでも、強くなったじゃない。千烈槍の直撃を受けて気絶もしないなら、それは誇れることだと思うよ」

だが少女は、素直な賞賛をベルドに送った。その言葉を受け、ベルドは再び少女を見る。

「……なあ」
「なに?」
「もしも、俺がもっともっと強くなって、またいつかどこかで会えたなら、その時は再戦してくれるか?」
「……うーん、私あんまり戦いは好きじゃないんだけどなぁ……。まあ、ベルドさんならいいよ。強くなったら、お相手するよ」

にこりと笑った少女は、槍を背に納める。そして、強い意志を秘めた瞳でベルドを見た。

「そしたら、ベルドさん。鍛えたその力で、ちゃんとヒオリさんを守ってあげるんだよ?」
「当たり前だ」

言うにや及ぶ。見つめてくる少女の瞳を、ベルドは真っ直ぐに見つめ返す。その返事を聞き、少女は安心したように笑った。

「それじゃあ、私はもう行くね?」
「……待て!」

それきりベルドに背を向けて、街を出て行こうとする少女にベルドは最後の質問をする。

「最後に教えてくれ。俺に武術を教えてくれた、あんたの名を」
「言わなかったかな? 私はあくまでさすらいの旅人。わざわざ名乗る名前なんか、持ってないよ」

それは、ベルドが修行を申し込んだ時、名前を聞いた彼に答えた言葉。その時はベルドも分かったと引き下がったが――

「確かにな。自分でわざわざ名乗る名は持っていないかもしれない。だが――俺がわざわざ聞く名は、あんたは持っている」

名乗りたくなければ名乗らなくてもいい。遠ざかっていく背に、そう付け加えてベルドは言葉をぶつけた。歩いていた少女の足が静かに止まり、振り向く。そして――


「……フィオナ」

 

 

 

 

 

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