第二十五話
夢と現
「う……ぐぁ……」
大地にたたきつけられ、クエルスはごほごほと咳をする。喉の奥から強烈な塊が湧き上がってきて、クエルスは思い切り咳き込んだ。ぐぶっ、と嫌な音がして、赤い液体が頬を伝う。
「ぐ……が……」
呟かれる言葉は、意味を成さない。強烈な衝撃に打ち据えられ、骨のどこかも折れたらしい。腕は当に感覚を失い、それがそこにある感覚さえも失われた。
「…………」 イルが、小さく何かを呟いた。その声を、クエルスは聞き取ることが出来ない。だが彼女の言葉には、まだ続きが残っていて…… 「……さよなら、お兄さん。いい夢、見させてもらったよ」 そして、その言葉だけは、何故か耳に入って来た。 認めよう――彼は素直に、そう思う。 イルの力は、己のそれなど遥かに上回っているのだ、と。 だけど……それでも…… ……らせたくない。 ……こんな所で、終わらせたくない! ――って 「……え?」 ただ、訴えかける声だけを―― イルの大金鎚が、振り下ろされる。それをクエルスは、半回転して回避した。同時に大地を蹴って飛び上がり、空中で器用に体勢を立て直して着地する。その体には、いつしか蒼い輝きが纏われていた。 「な……っ!?」 イルの顔が、驚愕に揺らぐ。あれだけの直撃を受けて、どこにそんな力が残っていたのか――信じられないものを見たというような顔は、しかし一瞬で引き締められる。 小さな体躯に意思を込めて、イルは鋭く踏み込んでくる。当たれば人など一撃で肉塊に変えてしまうような、暴悪なまでの力は変わらずに。クエルスを、迷いを生み出す少年を、鎧ごと叩き潰さんと迫り来る。 「――おらぁ!!」 対するクエルスは、それを手に持つ盾で受け止めた。蒼い爆発が炸裂し、だがそれは一瞬の元に戦闘の粉塵ごと打ち払う。瞬時にクリアに戻った視界の中で、イルの顔が再び驚愕に彩られた。 手首を返して放たれた第二撃目は、最早受け止めようともしない。気合一括で、蒼い光は結界と化したかのように金鎚の一撃を阻んでいた。 弾かれたように飛び退り、イルは呟く。 「……どう……して……っ!!」 クエルスの目に宿るのは、澄み渡った空を思わせるような蒼き光。それは宝石などで例えられるようなものではなく、どこまでも美しくそこにある。 自分の全てを見透かされるようなその光に、イルはどうしようもない戦慄を覚えた。 クエルスは低く身構え、イルめがけて踏み込もうとする。だがそれより早く、イルが魔法を発動していた。 「――コーラルレイン!!」 イルの周囲の、地面が膨れる。鋭く尖った珊瑚礁の群れを巻き上げながら、渦巻く水流は竜巻の如く上空まで打ち上がると、ベクトルを変更させてクエルスめがけて襲い掛かった。 上空から襲い掛かる、海の暴威。それをクエルスは立ち止まって、見つめるまま。やおら、右手で拳を作って―― 「――ぅらあぁ!!」 突き出した。たった、それだけで。水流と珊瑚は飛沫と化し、力を失い砕け散る。イルの渾身の魔法を、クエルスはあっさりと打ち払った。そのままクエルスは、何事も無かったかのようにイルのほうに向き直った。 「う……うああ、あ……」 恐怖か、別の感情か。震えながらも武器を構えなおした少女に、クエルスはゆっくりと歩み寄る。それでも、まだ何かを拒絶するように――イルは、金鎚を横薙ぎに振るった。 「…………」 ぱし、と。 クエルスは再びその盾で、イルの金鎚を受け止めていた。今度は爆発は起こらない。イルが金鎚を戻すより早く、クエルスはイルの前に立った。 「あんまり、女の子に手荒なことはしたくなかったが――約束したからな」 その言葉と共に、クエルスは剣を鞘に収める。そして―― 「――ちょっと痛ぇが、覚悟しろよ!!」 ――クエルスの握り固めた右拳が、イルの横っ面に炸裂した。 もしかしたら、意識も飛んだのかもしれない。うつぶせに倒れた襟首を、クエルスは片手で引き上げる。首が絞まったのか、イルは力なく暴れた。 「……い……痛い……」 焦点の合わないイルの瞳を見返しながら、クエルスは小さく笑ってみせる。いつの間にか蒼い輝きは消え失せて、いつもの黒い、イルの見慣れた、そんな瞳が戻っていた。クエルスはくるりと体勢を変え―― 「――言っただろ。ぶん殴ってでも、日の当たる世界に出してやるってよ」 されたことが信じられないのか、呟くイルに指を伸ばして。クエルスは、頬についた泥を拭う。 「あーあ、ったく、こんな泥だらけにしやがって……だから大人しく、俺らのところへ来いって言っただろうがよ」 白々しくも、クエルスはほざいてそれに返し―― 「……くそがぁっ!!」 地味に整った顔立ちを阿修羅のような形相にして、陣奥で怒鳴った者がいた。敵総大将、ヴァラン・アルフである。 ヴァランの元に入ってくる情報は、どれも戦局不利を伝えていた。先鋒のさまよう鎧は将を討たれ、キラービーは潰滅状態。ホイミスライムの回復隊はいきなり切り込んできたヤマチュウ・アルマー他ロマリア兵に蹂躙され、遊軍を率いていたイルとセイナは、それぞれクエルスとヤマチュウに撃退されてしまっている。 「ヴァラン様っ!」 手にした軍鞭を力任せにへし折ったヴァランに、配下の一人が声を上げる。 「我々の負けでございますっ! ここは、兵を引くしかないかと……!」 憎悪と怨嗟の籠もった、そんなヴァランの声を最後に――
無様に地面に叩かれたクエルスを、イルは上から見下ろしていた。その仮面はもはや無表情のそれではなく、双眸は何かに揺れている。唇が小さく震えているのは、クエルスの目の錯覚か。
「――――ッ!!」
「うう……ぐっ……!」
クエルスの目の前で、イルが大金鎚を振り上げる。何も出来ない歯痒さに、クエルスの脳は沸騰した。
どこかから、声が聞こえた。
――戦って。
――恐れないで。
――その力を、振るうことを。
「…………?」
なんだ……? 何を言っているのか分からなくて、クエルスは目を細めながら当惑する。それを何と感じたのか、イルが小さく呟いた。だが、そんなものは今は不要。
――そして、救って。
――貴方には……
――それだけの資格が、あるのだから。
「…………ッ!!」
「…………」
「う……」
「うるせ。ちょっと我慢しやがれ」
「う、わ……!」
イルを、放り出した。らしくもなく受身さえ取れず、イルは地面を転がって――仰向けになって、止まった。その目に直射日光が刺さり、イルは反射的に目を細めた。そんなイルの近くにクエルスは歩み寄ると――少女の顔を覗き込んで、笑った。
「……あ……私……」
「泥だらけにしたのは……っ!!」
「なんだ?」
「…………、っ……!」
――それを受けて、イルは、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「くっ……あの、役立たず共めえっ! かかる礼は、百倍にもして返してくれるわ!!」
――郊外で起こった戦は、ロマリア軍の勝利で、終わりを告げた。