第四幕

ヒオリの傷跡


「はー……」

風呂に入った瞬間、思わずそんな声が漏れた。貴族の家で風呂に入ったことは何度かあるが、いつ見ても驚くほど規模である。「水の国」なんて呼ばれているこの国で、財力を有する家だからこそできる、公衆浴場にも匹敵せんと思えるほどの大浴場。泉のような浴槽が壁から大きく広がっていて、その横には女性をかたどった石像から、こんこんとお湯が溢れている。床は磨かれた石で固められ、ちょっとした観光名所にでもなりそうだった。

「こんなことができるのは、こういう時ぐらいしかないからねぇ」

打たせ湯のようになっているところに向かっていき、シリィが頭から湯を浴びる。すでにタオルが外れかかっていることに関してはもはや突っ込まないとして(混浴でもあればさすがにもう少しきっちり締めるのだろうが)、フェイスも桶にお湯を汲んで体にかける。給湯設備が優れているのか、誰かが温度管理をしているのか、お湯の温度も最適だった。

と、視線を向けると、所在なさげに突っ立っているヒオリが映る。体にはタオルをがっちりと巻いて、何かを探しているようだった。

「なにをやっているんですか、そんな所で」
「え……えと……」

本当になにをやっているのか。苦笑しつつ、フェイスはヒオリを手招きした。やってきたヒオリを、シリィよろしく頭から打たせ湯に放り込む。

「ひゃぁっ」
「どうだい? こういった豪華な風呂というのも、たまには悪くないだろう?」

縮こまってお湯を浴びているヒオリに、髪をアバウトに留めたシリィがやってくる。と、ヒオリの頬がぴくっと動いた。それに気付いているのかいないのか、シリィは石鹸を泡立てる。

「ほら、座りな。体洗ってあげるから」
「え、い、いいよ、別に」
「なにを遠慮しているのさ。綺麗にしておかないと、ベルドに嫌われるぞ」
「う……」

急展開に戸惑うヒオリを、フェイスが打たせ湯から押し出した。そのまま洗い場に座らせて、シリィがヒオリに手をかける。というか、この時点でヒオリは半分おもちゃであった。方向性はそれぞれ違えどパワーのある二人に押されるまま、ヒオリは腕と首を洗われる。が、さすがにここから先は、二人とも少しはとどまるらしい。

「……このタオル、取ってもいいかい?」
「…………」

ヒオリの身分。一緒に風呂に入ることを躊躇った理由。がっちりと、タオルを体に巻いている理由。それら全ては、恐らくこのタオルの下を見られたくなかったからだろう。大雑把とアドル達に口をそろえて言われてしまうシリィでさえ、確認を取るような気遣いを見せる。フェイスも口元の緩みを消すと、ヒオリに真面目な声で聞いた。

「大丈夫ですよ。軽蔑する気も、引く気もありません」
「…………」

――ヒオリは少しだけ躊躇うと、やがて首を縦に振る。

「……今更軽蔑するなんて、なしだからね」

そう言うと。ヒオリは自分から、そのタオルを取り払った。

「…………!!」

軽蔑する気も、引く気もない――つい今先ほど、フェイスはヒオリにそう言った。だが、「それ」を見た今、フェイスはそれがどれほど軽い言葉だったのかを、嫌が応にも突きつけられる。

肩甲骨の辺りから腰まで、バッサリと切り裂かれたようにつけられた傷。わき腹の横にある、抉られたような跡。煙草か何かを押し付けられたのだろうか、火傷の痕跡。鞭で叩かれたのであろうみみず腫れの跡は、最早数える気にもなれない数。その他大小さまざまな傷が、ヒオリの背中には無数に刻み込まれていた。

「どうかな。大分、治っては来たんだけど」
「ヒオリ……」

大分治ってきたということは、元々はこれよりも遥かにむごい傷だったのだろう。奴隷だった少女の背中につけられた、あまりにも醜悪に過ぎる刻印。続いてヒオリは、右目の眼帯を取り払う。

フェイスとシリィの目が、今度こそ見開かれる。話に聞いてこそいれど、実際に見るのは初めてなのだろう。残酷という言葉以外あらわしようの無い、顔に、右目の上に捺された刻印。彼女が奴隷であることを示す、この世で最低の焼印だった。

「背中の傷は、仕事に失敗した時の罰則。顔とか頭とかには見てくれが悪くなるからって、胸とかその辺には男性客が興奮しなくなるからってつけられなかったけど、背中には容赦なくつけられた」
「…………」
「痛くて熱くて、悲鳴を上げたらもっとやられて――あれから一年以上も経つけど、そんな簡単には治らないよね。最初、ベルドに見せたとき、絶対消えないだろうって思ってたもん」
「ヒオリ……」
「ボクは今までやられたことを忘れない。自分が奴隷だったことも、つけられた傷の痛みも。ボクは絶対、忘れない。忘れることも、出来ないと思う。この眼帯だって、男性客の性欲処理のために渡されたものだもん」

言葉が出ないとはこのことだ。傷を隠す眼帯さえも、嫌な思い出しか詰まってなかった。嫌な思いを別の嫌な思いで隠す、その心境はいかなるものか。

「……強いね、ヒオリは」

一瞬の驚愕から立ち直って、シリィはヒオリにそう言った。フェイスもその琥珀色の瞳を真剣なものにして、何度も頷いて返していく。

生まれてからたったの十六年で、ヒオリは想像を絶する人生を送ってきたのだろう。そのことを想像するだけで、痛ましい気持ちが湧いてくる。

だが彼女に、上っ面だけの同情は残酷なだけだ。彼女にとって幸運だったのは、ベルドという人間に出会えたことだろう。あの軽薄な表情の裏では、ヒオリの背中の傷跡を、もっと酷い状態で見ていたのだ。そしておそらく、夕食のときの話からすると、それほど酷い傷跡と残酷な焼印を持った少女を、ベルドはまるごと受け入れたのだ。心はもちろん、その体さえも。

なんかずるいと、フェイスは思う。そして同時に、うらやましいとも。自分のためにそこまでやって、自分も絶対的に信頼できる男性を、フェイスもシリィも持ってはいない。

「――それじゃ、ちょっとしんみりしたみたいだけど、体の残りを洗っちゃおうか!」

シリィもそう考えたのか、それともわざわざ差別する必要を感じなかったのか。石鹸をもう一度泡立てると、ヒオリの背中を洗い始める。その背中はあっという間に泡に包まれ、ついでに頭もわしゃわしゃと洗う。腰から下はさすがに自分で洗わせると、シリィはヒオリを頭から打たせ湯に放り込んだ。

「わひゃっ!」

いきなりのことに驚いたのか、ヒオリはちょっとだけ飛び上がりかける。フェイスが声をかけてヒオリを流す役をシリィと入れ替え、入念に石鹸を落としていった。フェイスもシリィも、もうヒオリの背中に怯んだりはしない。実際に彼女が平民であることは知っているし、ヒオリの人間性も知っているから、差別する必要も無いからだ。

「はい、おしまいです」

全ての石鹸を落とすと、フェイスはヒオリを外に出す。人から何かをしてもらうことには慣れていないのだろう、終始慌てっぱなしのヒオリを見るのは、ちょっとだけ面白かった。ヒオリは首を振ってお湯を飛ばすと、フェイスとシリィに微笑んでくる。

「ありがと」
「はい」
「ああ」

色々な意味があるのだろうけど、フェイスはそれを受け取った。それを見て、今度はヒオリが石鹸を取って泡立てる。フェイス達に無邪気な笑みを向け、座るようにと促した。

「じゃ、座って座って。今度はボクが洗ってあげるよ」
「いいんですか?」
「えへへ。だって、洗ってもらったしね。ろうじゃくだんじょ問わずに相手をした、奴隷仕込みのテクニックってのを見せてあげるよ」

老若男女、である。が、折角だし洗ってもらうのも悪くない。とりあえずフェイスが洗い場に座ると、ヒオリはてきぱきと洗っていく。さすが、テクニックとやらを言うだけはある。力の入れ具合から速さまで、驚くほどに上手だった。あっという間に上から洗うと、ばーっとお湯で流していく。タオルと素手を上手に使い分けてフェイスの体を洗い終えると、今度はシリィに向き直った。

「ほらほら、シリィも座ってよ」
「じゃあ、お願いするよ」

先のフェイスの洗いぶりを見ていたのだろう。シリィは小さく笑みを零すと、フェイスと同じく洗い場に座る。これまたヒオリは石鹸を素早く泡立てて、やっぱりてきぱきと洗っていく。それを見ながら、先ほど洗われたばかりのフェイスも、感心したように声を漏らした。

「うまいですね」
「えっへへー。貴族屋敷にいた頃だって、しょっちゅうお風呂には入ってたんだよ。パーティーとかあってお客の貴族が泊まっていく時とか、ボクたち借り出されて体洗わされてたもん。護衛の人達も入れれば、凄い数になったからね。それから他の貴族に借りられて、やっぱりお風呂場に呼ばれて体を洗わされるのも、別に珍しくなかったよ? その最中にいきり立った下半身を見せ付けられて、泡立てた手でかけつけ一発処理されられたり」

しれっとヘビーなことを言い放つヒオリに悲しむべきか、それとももう自分たちの前では隠し立てしないでくれることを喜ぶべきか。ちょっと悩むフェイスだったが、結局どっちでもない方向に流すという第三の選択肢を取ることに決めた。

意地の悪い笑みが浮かぶのを感じながら、フェイスはヒオリにこう抜かす。

「ベルドの体も、洗ってあげてるんですか?」
「……それなんだけど、ね……」

微妙に、動きが止まった。それは洗っているのか洗っていないのかどっちなのか。

「あんまり、洗ってあげたことないんだよ。宿屋とかだと、物が盗まれるのを防ぐために交代交代でお風呂に入るし、そもそも男と女って、お風呂別れてるでしょ? それに、ボクはお風呂に入る時間もわざと遅くしているからね。あんまり、背中とか見られたくないし」

言われてみれば、その通りだ。では、個人経営などの小さな宿屋や、山奥にある温泉なんかを見つけたときにはどうしているのか。問いかけるフェイスに、ヒオリは答える。

「うーん、そうやってベルドと一緒に入ることがあれば、洗ってあげようとはしてるんだけどね。ベルド、心のやり場に困るって言って、あんまり洗わせてくれないんだ。それでも時々、洗っちゃうけど。そんな時ね、ベルド、かちこちに凍ってるんだよ」

それはまあ、そうだろう。ベルドは別段上流階級の出ではないようだし、人をそんなふうに使うのには慣れていないのだろう。と、そこまで考えて、フェイスはぴーんと閃いた。直後に口から出てくるそれは、最早爆弾というに等しい。

「では、ヒオリ」
「ん?」
「さっき貴族にお風呂場で処理させられるなんて言ってましたけど、洗っている最中にベルドがそうなったら、ヒオリは処理してあげてるんですか?」

つるっ

ガリッ

「い゛っ!?」

ヒオリに洗われていたシリィが、小さな悲鳴を上げた。どうやら手を滑らせたヒオリが、シリィの背中を思い切り引っかいたものらしい。

「なっ、ななななななな……」

顔を真っ赤にしてうろたえまくるヒオリの姿が、何よりも雄弁に答えを語る。体を洗うどころではなくなってしまって、シリィがたしなめるようにフェイスの名前を呼ぶのだが、フェイスの耳には入っていない。彼女は現在神たる者に、心で許しを乞うていた。

元々仲のよすぎる夫婦で、十分に考えられる関係なのですから、どうか許してください、と。

そして同時に、その光景をちょっと見たいと思った自分は、神官失格なのでしょうか、と。


ちなみにその後、フェイスの妄想がどこまで走り、どのような方法で我に返らせられたのかは、とりあえず語らずして伏せておく。

 

 

 

「それじゃあ、お帰り願いましょうかね」

いっそ清々しいほどの声が、ヒオリの耳に入ってくる。聞きたくないと思っても、自分の周りには誰もいない。

忘れたことはない、忘れるわけもない。その声は自分の持ち主で、生まれてから逃げ出すまで、そして鎖を乗り越えるまで、彼女にとっては絶対的な恐怖の対象でしかなかったのだから。

『完璧』という言葉が相応しい、冗談抜きに整った顔。ベルドなんか及びもつかない、顔だけは認めざるを得ない男。そいつは自分の腕を掴み、どこかへ引きずっていこうとする。

――いや。『どこかへ』なんて、言うまでもなく分かっている。宿舎に放り込まれるか、懲罰室へ引きずり込まれるか。

「なんで、ですか! だってボク、もう奴隷じゃ――」

嫌がって暴れても、そいつは巧みに自分の体を制御する。いらだたしげな舌打ちが、彼女の鼓膜を凍らせた。

「まだ分からないのですか? うっとうしいからって、貴方は売られたんですよ」
「そ、そんな……!」

冷たい声が、彼女を絶望に叩き落す。突き飛ばされてしりもちをついた先は、いつの間にやらベッドの上。周囲にはどこからやってきたのか、たくさんの男。こんなところにいるべきではないイケメンもいれば、見るだけで顔をそむけたくなる脂ぎった男もいる。無駄な努力とどこかで分かりつつ周囲を見ると、少し離れたところに同じくらい冷たい瞳で自分を見つめる少年がいて。

「ねえ、ベルド! 待ってよ、これ、どういうことだよ!?」
「はっ。うっせえんだよ――」

そいつは――そいつに変わったベルドの口元は、酷薄な笑みを浮かべながら、ヒオリに告げた。

「――奴隷ごときが」

その声と同時……周囲の男が、一斉にのしかかってきた。両手両足を拘束されて、瞬く間に衣服を引き破られて、自分は――

 

 

 

 

「わああああああっ!」
「な、なんだぁっ!?」

隣から響いた絶叫に、ベルドは一瞬で飛び起きた。あの声は聞き間違うはずもない、自分の最愛の妻のものだ。枕もとの剣だけを引っつかみ、ベルドは半分転がり落ちるようにベッドから出る。ゼロコンマ一秒で扉を開け、隣の寝室のドアを思い切りこじ開けた。

「ヒオリ、どうし……っ!?」
「――――っ!」

あけてみると、部屋は物凄い惨状だった。絵画は落下し、掛け布団は反対側まで吹っ飛んでいる。部屋の中からぱりぱりという音がして、ベルドの体にもびりっとした電流が走る。

そんな中でも、ベルドはヒオリの姿を探す。いや、探すまでもなく目の前にいた。パニックを起こし、箍が外れたヒオリの魔力が、放電現象を起こしている。寝室の中が次々と破壊されていくのを見て、ベルドはヒオリに駆け寄った。

「ヒオリ、どうした、おい、しっかりしろ!」
「ぁ――ぅ、えぇえっ……!」

首を激しく横に振り、ヒオリは開けられた口から何かを吐き出すような仕草をする。片手で乱暴に唇の端を拭うと、次の瞬間には首と腹を思い切り押さえ、木張りの床に胃の中のものをぶちまけていた。

吐瀉物が放つ強烈な臭いと、ヒオリの絶叫。少女の口から上がったのは、聞く者さえ思わず耳を覆いたくなる、恐怖と悲しみに塗り固められた絶叫だった。

考えるよりも早く、ベルドはヒオリを抱きしめていた。逃げ出してから自分と恋人同士になるまで、よくこんなことを起こさなかったものだ――非常事態にもかかわらず、ベルドは場違いにもそう思った。

「ぁ、ぁっ、ベルっ、ドっ……!」
「大丈夫か、ヒオリ。何か、怖い夢でも見たのか?」
「ぅぁ、あぁ、あ……!」

ベルドの姿を認識したのか、動きが少しだけ静かになる。が、次の瞬間、ヒオリはベルドを痛いほど強く抱きしめて、子供のように大泣きする。

「ごめっ、ごめん、なさいっ、ねえ、もう、迷惑なんか、かけないから、邪魔なんて、しないから、あの家には、あの家にだけは、売り戻したりなんか、しないでっ、やだ、痛いのはやだ、もう気持ち悪いのはやだぁ!」
「ヒオリ――!」

同じくらい強く、ベルドはヒオリを抱きしめ返す。断片的な情報から、ヒオリがどんな夢を見たのか、なんとなくだが想像がついた。

絶対に、見てほしくなかった。そんなこと、思い出してもほしくなかった。

「ヒオリ、止まってくれ! 売らないから、誰もお前に危害なんか加えないから、蔑む奴も、詰る奴も、誰もいないから!」

今すぐ、ヒオリを手放すべきだ。自分の生存本能が、体にそう訴える。精神的なものではなく、魔力の暴走を直接ぶつけられているせいだ。暴走したヒオリの魔力は、ベルドの体に暴波となって、電流となって襲い掛かる。しかしベルドは、歯を食いしばってそれを抑えた。軽薄な人間の自覚はあるが、一番好きだった少女と結婚直後に交わした約束を、破るほどベルドは落ちぶれていない。

「約束したろ! お前と結婚した時に、ずっとずっと一緒にいるって! 背中の傷も焼印も、全部まとめて受け止めるって! だからもう、そんな過去になんか苛まれないでくれ!」
「――――!!」
「ヒオリ、俺が分かるか!? ここにいる、冒険と剣の腕と、軽口しか叩けない小僧のことが、お前には分かるか!?」
「ぁ……ベルド……!」
「ああ、ベルドだよ! リーシュでもゴーンでも誰でもない、お前の夫のベルドだよ!」

ここまで言って、通じるかどうか。最低限、自分のことは認識しているようだが、それで見た夢を振り切れるかどうか。彼女と過ごしたこの時間は、やはり十六年の重荷には勝てないのか。彼女は弱くはないのだと、信じながらどこかで祈る、そんな時間はとてつもなく長く感じた。

「ベルド……ベルド、ベルド……!」

一分だろうか、十分だろうか。長いかもしれないし、短いかもしれない。

――ヒオリの体から、力が抜けた。魔力の暴走は、止まっていた。

彼女は決して弱くは無い。だが決して、強くも無い。あんなに笑って、あんなに元気で――それなのにその内側は、こんなにも追い詰められている。

追い詰められて視野狭窄を起こした、正気と狂気の狭間で揺れる、その瞳。それを前にして、一体誰がこの子にかける言葉を思いつくだろうか。さっきはあれだけ叫んでいたのに、少し落ち着くと何も言えなくなる、自分の臆病さが恨めしい。

「……部屋。明日、一緒に片付けような?」

そのせいで、こんなことしか言えなくて。ごめんなさい、と続けるヒオリに、ベルドはその体を抱き上げる。出会ったばかりのころ、世界樹の中でやむなくおぶった時よりも、その体は重くなった。当時は栄養不足な痩せ方をしていただけで、重くなったといってもまだまだヒオリは軽いのだが。

「寝られるか?」
「…………」
「そうか……」

ベッドに座らせ、目線を合わせて問いかける。ためらった後、ヒオリはふるふると首を振った。

そういえば、何度か聞いたことがある。自分とヒオリがそれぞれ男子部屋と女子部屋に泊まっていたころ、同じ女子部屋に泊まる仲間から、ヒオリは夜闇を恐れていると。

寝つきも悪くて、ほとんど眠れていなかったらしい。目は閉じているようだが、何かに怯えているようで。その仲間はある時、夜中にトイレに行った帰りに覗いてみたら、ヒオリはやはり、怯えるように丸くなっていたと聞く。そうでなくとも眠りは浅いらしく、何度も夜中に起きているようだ、とも。

その時に初めて聞かされた、想定外だったヒオリの状況。思わず呆然としてしまったのを、忘れてしまったベルドではない。男子部屋にたまに枕を持ってきて、添い寝をねだったヒオリの行動は、甘えのほかにも安心感を覚えたかったからかもしれない。

いきなり夜中に踏み込まれて、連れ戻されてしまうかもしれない。ベルドや、おそらくアドル達からもそうそう考えられない事態。だけれども、生まれてからずっと虐げられたヒオリにとっては、冗談抜きで怖かったのだろう。闇は時に、どうしようもなく人を不安にさせることもあるのだから。

「ヒオリ……」

いつもなら苦笑しているのかもしれないが、今日はするりと、その言葉は自然に出た。

「じゃあ……一緒に寝るか?」
「…………、……うん……」
「……分かった」

かつてそうありたいとその名を冠した紅柘榴(ロードライトの瞳を不安に揺らして。やっぱりためらった後、ヒオリは小さく頷いた。立ち上がって中腰になると、ヒオリの体を抱き上げる。部屋を出る前に、ベルドは状況を確認した。

とりあえず、落下したり倒されたりしたものはあっても、破壊されたものはないらしい。不幸中の幸いなのだが、これは明日は夜寝るのは少し遅くなりそうである。

慌てて飛び出してきたせいで、開け放してあった自分の部屋へと入って、ベルドはヒオリを自分のベッドの上に下ろす。貴族様のベッドであるせいか、普通のベッドよりは少し広い。でもこのベッドが、もしかしたらヒオリに恐怖を呼び起こしたのかもしれない。

いや、おそらくそうなのだろう。パニックを起こしていたときに、間違いなく彼女はこう言った。「気持ち悪いのは嫌だ」と。

力仕事、皿洗い、便所掃除に来客の世話、男性客の性欲の処理――行った仕事は多岐に渡ったヒオリ達奴隷にとって、貴族の家の大きなベッドが、いったい何を思い出すのか……考えるまでもなく、答えは出る。

「……ごめん」
「…………?」

自分の浅はかさに嫌気が差して、ベルドはヒオリに頭を下げる。ヒオリはよく分かっていないみたいだが、一々説明して掘り返してもたまらない。

「ちょっと、待っててくれな。水、汲んでくるから」

抱き上げたヒオリの体は、既に寝汗でびっしょりだった。余程うなされていたのだろう、だいぶ喉も乾いているはずだ。とりあえず、寝る前に行っておこうとヒオリに告げ、ベルドは一旦、ヒオリを置いて部屋の外に――

「…………」
「ヒオリ……?」

座ったままのヒオリが、服の裾を掴んできた。振り返ると、ヒオリは何度も首を振る。

「……いっちゃ、やだ……」
「……すぐ、戻ってくるよ」

ベルドも別に、ヒオリをいじめたいわけではない。優しく頭を撫でて、言い聞かせるように言ってやる。それでもヒオリは首を激しく横に振り、ベルドに張り付いて拒絶する。

「いっちゃ、やだぁ!」
「……ヒオリ」

今の彼女に、何かをするのは酷だろう。ベルドの呼びかけに、一旦は首を振るものの、二度目の呼びかけには顔を上げた。揺れる瞳で、ベルドのほうを見上げて――

「――んっ……?」

――ベルドはそんなヒオリに、目を閉じて唇を重ねた。二、三秒。そんな体制を続け、ベルドはゆっくりと顔を離す。目を開けて見つめてくるヒオリに、ベルドは再び頭を撫でた。

「すぐ、戻ってくるから。な?」
「…………」

まだ不安そうだったが、ベルドはそのまま部屋を出る。急いで水をコップに汲んで、ヒオリのところへ戻っていく。上下水道が他の所よりは整備されているのか、近場にあったのはありがたかった。

と、水汲み場から戻ってくると、ヒオリがドアの前で待っていた。小さな体を縮こませて、体育座りをして。ベルドは小さく苦笑して、ヒオリに水のコップを渡す。ヒオリは水とベルドを交互に見ると、やはり喉が渇いていたのか、その水を一気に飲み干した。もう一杯いるかとのベルドの問いには、いらないという返事が戻る。コップは明日洗うことにして適当な台の上に置くと、ヒオリの体を抱き上げた。部屋へと戻って、ヒオリを寝かせて。掛け布団を捲り上げると、自分もヒオリの隣に入った。

「だっこ」
「はいよ」

横を向いて寝るというのは難しいが、ヒオリがそれを望むなら、いくらでも横になってやろう。片腕で彼女の背中を抱いて、もう片方の手で静かに頭を撫でてやる。ヒオリはもぞもぞと腕を回し、ベルドにぎゅ〜っと抱きついてくると、その胸に嬉しそうに顔を埋めた。

「ん……」

やっと安心したような声を出すヒオリの頭を、ベルドは何度も撫でてあげる。ヒオリはまた嬉しそうな声を漏らすと、ベルドに体を擦りつけてきた。すっとベルドの足の合間に割り込ませて、ヒオリは自分の足を絡めてくる。完全に密着して、ヒオリは甘えた声を出す。

本人は安心しきっているが、年頃の女の子が男の布団にもぐりこんでくるとか身の危険は感じないのか――説教の一つでもたれてやろうかと思わなくもないが、今日のところは流してやろう。むしろそっちのほうが、彼女にとっては安全な場所であるのだから。

自分の心臓も跳ねるでもなく、下らない欲情が湧くこともなく。ただこんな穏やかな時間が、続いて欲しいとベルドは願う。しかし、今は仕事中で、同時に夜中に起こされていただけのこと。明日はいつも通り、行動できるかもわからないけれど。彼女は決して弱くはない、夕方まではちゃんと行動してくれるだろう。また明日の夜になれば、どうなってしまうかはわからないけど。

「ヒオリ」

強くも弱い心を持つ、最愛の少女の名前を呼んで。ベルドはあの時と同じ言葉を、甘えてくる少女にかけてやる。

「ずーっと、ずーっと、一緒にいような?」
「……うん。ずーっと、一緒……」

胸に顔を擦りつけてくるヒオリの恐怖と怯えと甘えを、一時とはいえ受け止めて。ベルドは幾度、そうしてヒオリと夜を共にしただろう。ヒオリの頭の動きがゆっくりになり、やがて止まる。見てみると、ヒオリは安らかな寝息を立てて眠っていた。

「…………」

穏やかな笑みを浮かべながら、ベルドは自分の意識が落ちるまで、ヒオリの頭を撫で続けていた。

 

 

 

 

 

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