第九幕

富豪の襲撃者


「死せる孔明、生ける仲達を走らす……」
「一ページ目の一行目から意味も無く三国志の格言ほざいてんじゃねえ。新規の読者が混乱するだろうが」

ゲリュオがいきなり格言を述べ、ベルドが硬い声で突っ込んだ。

「っていうか、こんな第九幕とかいう微妙なとこから読む読者もいなくね?」

さらにそこへツァーリが突っ込んだ。


彼らは世界樹の迷宮地下八階において、癒しの水湧き出す回復の泉を発見した。ところがその泉は完全に枯渇しており、水など一滴も入っていなかった。原因はこの水の水源地に魔物が住み着いたからであるという指摘を先輩冒険者・レン&ツスクル(主にレン)から受け、彼らとしても回復の泉なんてクソ便利な物を使わない道理など無く、結果その魔物を退治して泉を再び利用可能にしようと水源地に向かっている真っ最中である。


地下七階、痛みを耐える冒険者の道――その地下八階へ続く階段付近に水源地はあった。こじんまりとした樹海のなかの部屋。そこは、木々の間から水が溢れ出し、まるで雨が降っているかのように辺りが水で溢れている。その場にたたずんでいるだけで一行は体が軽くなっていくのを感じていた。

「……やっぱいるぜ、敵が!」

と、ゲリュオが近くから不意に殺気を感じ取る。ここで殺気を感じたのは一度ではない。前にここに入ったときにもやはり殺気は感じていた。レン、ツスクルの話も合わせて考えると殺気の主はただ一つ、泉の水をせき止めているという魔物しかない。

「……いた」

警戒するように周囲を見回していると、滝のように流れる水の向こうから巨大なカニが現れてくる。なんでも切り裂きそうな巨大なハサミと堅い甲羅に身を固めた魔物は、それなりの脅威を一行に感じさせた。

前に来た時は素直に撤退したが――今回は生憎、そのつもりはない。泉を元に戻すためにも、この魔物を倒す必要がある。

それに。

「ゲリュオ。こいつ、どれくらい強い」
「……なんだかんだで、『気』のでかさはスノードリフト以下だな」
「そうか」

彼らはただ適当に地下七階まで来ているわけではない。地下五階でいきなり現れた狼の頭・スノードリフトや並居るF.O.E.達をことごとく打ち倒している実力派の冒険者なのだ。

「速攻で片付けてやるぜ、デビルクライッ!!」

ベルドがデビルクライを発動し、戦いの幕が切って落とされた。

 

 

「ヒオリ! いくらこっちで破壊力上げてもやっぱ相手の防御力が防御力だ、雷の術式を頼む!」
「雷!?」

連撃で敵を翻弄しながらベルドがヒオリに叫んだ。ゲリュオは居合いの構えを取って好機を狙っている。こういう固い敵と刀剣で戦うのであれば、脚部等の間接部分を狙ったほうがいい。

「こんなところで雷落としたら感電しちゃうよ!」
「ここだったら接触してない限り感電はしない! 後で説明するから安心して雷撃を落とせ!!」
「わ、わかった!」

ヒオリが術式の詠唱体勢に入り、カレンが医術防御をかける。ツァーリが力祓いの呪言をかけ、泉の魔物は鋏を振り下ろす。ゲリュオが横っ飛びに跳んで攻撃を回避し、魔物の追撃が仕掛けられるちょうどそのタイミングでヒオリの雷撃が落ちた。

「はあぁっ!」

怯んだ隙にゲリュオが動く。居合いの構えから放たれる光速の突き――貫突。白刃が閃光を放ち、カニの左目を叩き潰す。絶叫を上げて鋏が振り回されるが、狙いの甘い我武者羅な振り払いなどゲリュオに通用するわけが無い。

続いて魔物の脳天にツァーリがボーンメイスを振り下ろす。ガツンと凄い勢いで杖が跳ね返され、ツァーリは危うくメイスを取り落としそうになった。殴った所は砕けるどころかへこみもしておらず、その強度には鳥肌が立つというものだ。ダメージは無かったが気づきはしたらしく、泉の魔物が振り返る。

「はあぁっ!」

振り向きざま泡を吹く魔物の口にメイスを突き込み、甲羅が砕ける感触と共にメイスが相手の口にめり込んだ。さすがにこれは効いたらしく、魔物はたたらを踏んで後退したが、その体から発される殺気は衰えちゃいない。致命傷になっていないところが恐ろしい所だ。そして、全体重をかけて攻撃し、隙が出来たツァーリに魔物の鋏が振り下ろされる。

「危ない!」

一番近くにいたカレンが、ツァーリの援護に入る。杖を投槍の要領で投げつけ、その杖は過たず相手の目玉に突き刺さった。悲鳴――だろうか――を上げて、痛みを感じたのか動きが止まる。そのタイミングで左右の鋏の間接部をベルドのレイジングエッジとゲリュオの居合い抜きが斬り落とし、ヒオリが二度目の雷撃を叩き落として決着を見た。

 

 

「……うーん、さすがにこれは無理ですね」

徹底的にボコボコにしてしまったらしく、魔物の体から剥ぎ取れそうなものは何も無かった。魔物が崩れ落ちるのに合わせて、足元に溜まった水がどこかに流れ落ちる音が響きだす。 魔物を倒したことにより、再び水が下の階層へと流れ始めたらしい。

ま、これが戦利品かもな――プラス思考で考えつつ、一行はこの場を後にした。

 

 

「……嘘やろ!?」

それは、ある行き止まりに入ったときのことであった。マッピング係・ツァーリの声に、全員はなんだなんだと振り向く。ツァーリはマッピング用紙を見せ、苦い声で言った。

「……これで、地図、完成やぞ」

その言葉は、何よりも明確に状況を説明していた。そう、地下八階の捜索、その全てが完了したのだ。

――下り階段を見つけぬままに。

「わしらが見落としているだけだと思うか?」
「いや、見落としはないだろう……」

ツァーリの声に、ベルドが反応する。ツァーリのマッピングの正確さは、他の四人よりも群を抜いていた。そのツァーリが書き漏らしたというのは正直考えにくい。

「でも、あの飛竜の巣はちゃんと調べてないから、何処かに抜け道があるかもしれませんよ?」
「『かもしれない』の可能性であんな危険を冒すのか?」

カレンの意見にゲリュオは難色を示す。確かに、地下八階の一角には飛竜の巣がある。そして、その巣の中はまだ詳しくは調べていないのだ。そのため、そこに抜け道がある可能性も否定できないが――巣にいる主、飛竜の存在が問題となってくる。

「……あんなの、見つかったら命が無いぞ」

抑えられてはいるが、内に湛えられている莫大な『気』の波動。もしもその持ち主、飛竜と戦闘状態になったらどうなるか。ゲリュオの脳はこれ以上なく正確に答えを導いていた。

曰く、速攻で殺される。

「……とりあえず、飛竜の巣以外の部分をもう一回歩いてみましょう」

ツァーリがミスした可能性を信じ、彼らは再び歩き出した。

 

 

「……世界樹の迷宮探索ギルド・紆余曲折ただいま参りました」

エトリアの街統治機関執政院で、ベルド達は状況を報告していた。結局あの後地下八階をもう一度歩き回ってみたものの何の進展も無く、結局町に戻ってくるしかなかったのである。

とはいえ町に戻ってきてもやることも無く、とりあえずシリカ商店で武器を売っていたら店主シリカから執政院の伝言『地下八階の捜索をある程度行ったなら俺んとこに来やがれバーロ』を聞かされ、一も二も無く執政院に直行、いつもの青年が応対に出てベルドが吐いたセリフが上記のものである。

「っていうか、俺らのギルド名って紆余曲折だったんだな……」
「ま、細かい事はいいんじゃない。なんでも作者が友人たちと相談して決めた名前らしいけど」

ぼやいたゲリュオに、ヒオリが苦笑して返した。その横で執政院の男性が言葉を投げかける。

「なるほど、地下八階に到達したのか。ならば解ると思うが……あのフロアには飛竜が巣を作っている。飛竜の生態は未だ謎に包まれており、現在学者たちが解明中だ」
「そうなんですか」
「そこで君達には、飛竜の生態を明らかにする研究の協力をしてほしいのだよ」
「協力?」
「なら、カレンに任せたほうがいいんじゃないかな? ボクたち、生物学は専門じゃないし……」

呟いたヒオリに、執政院の男性は笑って首を振った。

「いや、逆におそらく、君らにしか出来ない仕事だ」
「つまり、冒険者にしか出来ない仕事って事ですか?」
「ああ。君らに頼みたいことというのは、地下八階の飛竜の巣に行って、その卵を取っ来て貰いたいんだ」
「飛竜の……卵?」
「ああ。卵があれば、これまで謎が多かった飛竜の生態も少しは解るだろう。とはいえ、如何せんあいつらは危険なので、君らに任せたいというわけだ」
「断る」

……が、ベルドはあっけなく否定した。毒気を抜かれたのか、え、と続ける執政院の男に、ベルドは苦い顔で続ける。

「竜なんて化け物、報酬も無いのにやってられるか」
「もちろん、多額の報酬を考えいる」
「そこまで言うなら仕方ねえな」

あっさりと掌を返す少年。カレンが近くの机に突っ伏し、脱力仕切った声で呻く。

「最低だ……」

呟きには、心からの軽蔑が籠もっていた。

 

 

「…………」

その夜遅く、ベルド・エルビウムは一つの気配を感じて目を覚ました。同室者であるゲリュオやツァーリは既に眠りこけているため、この部屋に泊まる人間ではない。枕元に置いた剣の位置を確認しつつ、いつでも飛びのいて迎撃できるような態勢を整えながら、気配の主を鋭く探る。

「…………?」

気配を観察してすぐに、ベルドはその違和感に気付く。その気配は別に敵対的というわけではなく、むしろどこか弱々しいものだったからだ。そういえば、ゲリュオが起きてこないのもおかしい。気配に関しては人一倍敏感な彼が眠っているということは、その気配は自分たちに敵対するものではないということだ。

どういうことだ――? 眉をひそめながら待つこと数秒、気配の主が自分の傍にちょこんと座ったのが見て取れた。手を出したり、戻したり。どうやら自分に用があるらしいが、起こすべきかどうかをためらっているらしい。

俺が起きたの、偶然に近いぞ……そんなことを思いながら、ベルドはその気配の主に声をかける。

「……どうした、ヒオリ?」
「……ぁ……」

小さな声が、それに答えた。暗闇の中、彼女の瞳の位置がぼんやりと分かり、その瞳は声と同様、揺れていた。

どうかしたのだろうか。寝る前に挨拶を交わしたとき、別におかしなところはなかった。それがどうして、わざわざ夜遅くに、しかも自分の寝ているところをたずねてなんて来るのだろうか。

「ベルド……ねえ、ベルド……」
「……起きてるよ。どうした?」

だが、理由を考えるより前に、ここまで不安げな少女をどうにかしてやるほうが先だ。揺れる少女を放ったらかしておく趣味はないし、それが自分の惚れた女であればなおさらだ。

「えっと……えっとね。お願いが、あるの」
「お願い?」
「……うん。君の事、振っておいて……こんなこと頼むのも、悪い気持ちでいっぱいなんだけど……」
「なんだよ」

ヒオリらしからぬ持って回った言い回しに、ベルドは思わず先を促す。ヒオリはしどろもどろになりながら、その『お願い』をベルドに話した。

「あの……あのね。凄く、嫌な予感がするの」
「嫌な予感?」
「うん。だから……その、ね。あの、今日だけ、思いっきり、甘えて、寝ても、いい?」
「……なんだよ、嫌な予感って」
「……ごめんね」

わけが分からなくなったベルドであるが、その理由も分からない。聞いてみても、ヒオリは申し訳なさそうに震えた謝罪を漏らすのみ。ベルドは頭をかきむしると、ひねくれながらも承諾した。

「…………ったく。断れないの知って来てやがるだろ」
「……うぅぅ……」
「後、身の安全は保障しないからな。俺の理性が吹っ飛ばない保証もない」
「……だい、じょぶ」

吹っ飛んでも大丈夫だと言う意味か、吹っ飛ばないという意味で大丈夫なのか。なんでこうなってるんだと内心首を傾げつつ&ため息をつきつつ、ベルドはヒオリを迎え入れる。何をどうすれば甘えることになるのかがよく分からないため、とりあえず両腕を出してやると、ヒオリはしなだれかかるように体重全部を預けてきた。体勢を変えて元通り布団の中に戻っていくと、ヒオリはぎうぅっと抱きついてくる。

「あったかい……ベルド、あった、かい」
「……そりゃどーも」

足まで回されてしまっては、抱きつくというよりはしがみつくか。だが、危険なムードになりそうな感じはなく、むしろ何かから幼子のように怯えているように見える。いや、実際に彼女は何かに怯えているのだろう。やっぱりどうしていいか分からないため、ベルドはヒオリの体を左手で抱き返してやると、右手で頭を撫でてやった。

「みゅうぅ、ベルド……」

ヒオリが何に怯えているのか、ベルドには全然分からない。教えてもくれない今、ベルドはあまりにも無力である。だが、胸に顔を擦りつけてくるヒオリの恐怖と甘えを、一時的とはいえ受け止めてやることは出来る。

ヒオリの頭の動きがゆっくりになり、やがて止まる。見てやると、ヒオリは安らかな寝息を立てて眠っていた。

「やれやれ……」

でっかいため息をつきながら、とりあえず自分の意識が落ちるまでヒオリの頭を撫で続けてやるベルドだった。

 

 

その翌日、草木を掻き分けて密林を探索する冒険者の一団があった。現在エトリアで注目中のギルド・紆余曲折の面々である。目的地は自分たちの力をはるかに凌ぐ飛竜の棲み処だ。別に飛竜と戦うことが目的ではないとはいえ、そんな所へ向かうとなるとさすがに緊張感が全身を走る。

結局、ゲリュオの願いは受理された。生まれてくる飛竜の子供は我々が責任を持って育てよう――わざわざ街のトップ・執政院の長が応対に来てそう請け負ったので、ゲリュオはひとまず溜飲を下げた。

草木を掻き分け、道なき道を進んでいく。とはいっても一応前日までに邪魔な草木はほとんど切り開いているので、そこまで苦労する道のりでもない。

さらに歩みを進め、物影からそっと様子を伺う。そこは昨日も来た所で、その時には飛竜はなんともなしに上空を旋回していたものである。果たして今日も、その行動は変わらない。飛竜は相変わらずのんびりと空中を旋回しており、下のほうに注意を払ってはいないようだ。

「……行きましょう」

カレンの言葉で、全員は巣の中の捜索を開始した。

 

 

「……一体どういうことだ?」

飛竜の巣の外、それなりに離れた場所でベルドが呆然と呟いた。森林迷彩に着替え、足音を殺して飛竜の巣を探し回ったものの、卵を発見することは出来なかったのだ。卵があったと思われる場所こそ発見したものの、当の卵は既に何者かに持ち去られており、その場には卵形の穴がぽっかり開いていた。結局その場は執政院から貰っていたものの中で一番サイズの近い卵型のダミーを置き撤収してきたものの、彼らの疑問は未だ消えない。

やけに卵の形が明瞭に残っていた事からすると、卵そのものは持ち去られてからそう時間は経っていない。長くてほんの二、三時間前だろう。飛竜が卵を狙う者を欺くために作った可能性も無くは無いが、それにしては本物の卵はどこにも無かったし、あんな穴もあそこにしかなかった。

「……!?」

と、思案に耽る彼らの近くに、いきなり何者かが現れた。姿こそ隠しているがゲリュオの感覚が気配を捉える。誰何の声をぶつけると、その気配の主は別段逃げる様子もなく目の前に歩み出てきた。

「お気づきでしたか。もっとも、私は気配を隠していたつもりはないのですが、ね」

玲瓏たる美声が、亜熱帯の大密林に響いた。一行の目の前に、二つの人影が現れる。

――美声の主として相応しい、物凄い美青年だった。

……一人は。

そいつの格好は、一言で言えば、まさに完璧。白銀の髪、色白の肌、黒子もなければ傷もなく、にきびの一つも存在しない……どれほど見つめようが、難癖をつけられる疵の一欠片さえ見出せない。

男はベルド、女はカレンが一行の中で一番の美男美女ではあるが、彼らでさえ遠く及ばないほどの美貌の持ち主だった。整いすぎて嫉妬すら沸かない。ついでに、男の顔をまじまじ見つめる趣味も思考も持ってないので、ベルドは早々に話を流した。

「……で、誰だお前」

ああ、俺はベルド・エルビウムな。そう言ったベルドに対し、美形の男は優雅に一礼する。

「申し遅れました。私はリーシュ・アーティミッジ。栄えあるアーティミッジ家の名前、まさか知らないとは申しませんよね?」
「……アーティミッジ」

その声に反応したのはカレンだった。

アーティミッジ家。数多くの奴隷を所有し、その奴隷の期間レンタル及び売買で成り上がった富豪の一族の名前だ。現当主の名前はコルディア・アーティミッジ。カレンの記憶に間違いが無ければリーシュはコルディアの嫡子、つまりは次期当主だ。

「……ゴーン・ライムバートだ。見知りおけ」

記憶を辿るカレンの前で、ドワーフ……ゴーンが自己紹介をする。

「……で、そのアーティミッジ家の次期当主が、わざわざ何のご用件で?」

ベルドが聞く。

「ええ、あなたがたの探し物を届けに」
「探し物?」
「はい。あなたがたは、これをお探しなのではありませんか?」

そう言ってリーシュが差し出したのは……

「ひ、飛竜の卵!?」

そう、何かの卵だった。その大きさは、一行が飛竜の巣に置いてきたダミー石の大きさとほぼ一致する。当の卵が消えてから間もないことも合わせて考えると、おそらくあれは本物の飛竜の卵だ。

「……確かに探してますが、何でそれをわざわざ俺らの前に持ってくるんですか?」

聞き返したのはゲリュオだ。確かにあれは飛竜の卵だろうが、わざわざそれを一行の前に持って来る理由が分からない。卵が欲しければ持っていけばいいし、こんな死の危険と隣り合わせの樹海でこんな下らない嫌がらせをする馬鹿はいない。となると常識的に考えて一番ありえそうなのは――

「ええ、ちょっとした取引を行おうと思いまして」

そう、取引だ。

「大人しくあなたがたの持っているそれを返していただけるのであれば、あなたがたに危害は加えないと約束いたしましょう。もちろん、この卵もお渡し致します」
「それ?」

指名代名詞で表されたものがなんなのか分からず、ベルドは聞き返す。

「はい、それです。あなたの左斜め後ろにある細長い物体ですね」
「俺の左斜め後ろにある……細長い物体?」

ベルドは眉を顰めて斜め後ろを振り返る。ところが左斜め後ろにはヒオリがいるだけで、特に何かがあるわけでもない。

――何かがあるわけでもない?


栄えあるアーティミッジ家の名前、まさか知らないとは申しませんよね?

あなたの左斜め後ろにある細長い物体ですね。


あの……あのね。凄く、嫌な予感がするの。


止めたほうがいいよ、ベルド。

――ボクなんかと付き合ったら、絶対後悔するから。


「…………待てよ、まさか!?」

怒涛のように流れ込んできた先ほどの会話と己が記憶に、ベルドの頭はとんでもない結論をたたき出した。

「ええ、そのまさかです。何を言われたのかは知りませんが、それは元々我々の所有物です。返していただきますよ?」

ベルドの奥歯がぎりっと噛み締められ、冷や汗が流れ落ちる。惚れた女の正体が何だったのか――ここまで来てそれが分からないほど、ベルドは鈍い男ではなかった。が。

「そう言われてもこちらも困ります。ヒオリは少なくとも、我々の大事な仲間なのですから」

ツァーリが最もな意見を言う。そう、おいそれと渡すわけにも行かないのだ。ベルドが惚れている云々の前に、ヒオリは彼らの頼もしい味方だからだ。

「そう言われましても、それの正当な所有権は我々にありますから」

それだけ言い置いて、リーシュはヒオリにぞんざいに手招きした。飼い犬か何かを呼び寄せるように。

――そしてヒオリは、従順に歩き出す。

「お、おい、ヒオリ――」
「いいの」

呼び止めようとした声を、ヒオリは短く、そして迷いの無い声で言い切った。

「もう、いいんだ。今までありがとね。――とても、楽しかった」

ヒオリとて馬鹿ではない。出来ればあんなやつらのところに行きたくはなかったし、ベルドたちと冒険を続けたかった。だが、アーティミッジ家は今や大陸でも有数の大富豪だ。その気になればエトリアの執政院に圧力をかけてベルドたちを冒険に出すことを禁止させることぐらいわけはないだろう。

なら――そうなる前に、自分一人でアーティミッジの家へ帰る。それが、帰ると言えるのならば。

そう結論を下し、ヒオリは手招きするリーシュの元へ歩き出す。


差し伸べられた手を振り切るように、彼女はベルドたちに背を向ける。それきり二度と振り返らず、ヒオリはリーシュたちの前に立った。

 

 


リーシュの前に立ち、ヒオリは石化したかのごとく身をこわばらせていた。揺れるヒオリに目線を合わせ、リーシュは笑みを含んだ声で言う。

「お前が貸し出された家から、奴隷が一人逃げ出したと聞いたのだが。どういうことだか、ご存知かい?」

怯えきった少女を威圧的に見下ろす、絶対者の口調。何か抗弁するヒオリを、リーシュは大げさに頷きながら聞いている。とはいえ、その光景は長くは続かず、ヒオリはやがて黙ってしまった。リーシュは一言「そうですか」と頷くと、おもむろに右手で拳を作り――頬骨めがけて、思いっきり叩き込む。

「なっ――!?」

しかも、その一撃はただの鉄拳なんかではなかった。インパクトの瞬間に魔力を纏わせて打ち抜いた、とてつもなく響くその一撃。まともに食らったヒオリの頭がまさしくはじかれたように動き、頭から大木に叩きつけられた。完全に気を失っているらしく、ずるずると木から崩れ落ちると、そのままぴくりとも動かなくなる。

「お前、何するんだよっ!?」

とんでもない暴挙に、ベルドは思わず叫び声をあげる。

しかし、リーシュはベルドのほうを見ようともしなかった。まるで「お前など眼中に無い」と言わんばかりに存在そのものを無視している。

代わりに、リーシュの隣にいた男――ゴーンが動いた。倒れているヒオリに歩み寄り、そのすぐ傍で膝をつく。介抱しようとしている――わけでは断じてなかった。ゴーンはヒオリの前に膝をつき、それこそ髪を引き抜かん勢いで顔を上げさせる。それでも気絶しているヒオリの鳩尾に、ゴーンは容赦なく前蹴りを放った。衝撃に意識が戻るや否や、ヒオリは咳き込んで倒れこむ。が、掴まれている髪が、ヒオリに崩れ落ちるのを許さなかった。無茶な力をかけられて、ヒオリはゴーンの足元に胃の中のものを吐き戻す。

「何をしている?」

対してゴーンは、露骨に眉をしかめてみせた。吐瀉物にまみれた足を、そのままヒオリの顔面に入れる。吐き戻したもので汚れた顔面にこすりつけるようにして自分の汚れを拭き取ると、そのままヒオリの髪を引きずり上げて強引に土下座の姿勢をとらせた。

「奴隷ごときが――俺は今まで、これほどの屈辱を受けたことは初めてだ!!」
「…………」

――そこまでが、限界だった。

「てめえら……!!」

自分がかなり短気である事は知っている。その中でもかなり我慢したほうだろう。

静かに鞘から剣を引き抜き――魔力を込めて思い切り地面に叩きつけた。剣から放たれた旋風が、ゴーンの頬を掠めて木に直撃する。その木にざっくりと切れ目が出来、どろりと樹液を垂らして落ちていった。

「……何の真似だ」

旋風を放った相手――ベルドのほうに顔を向け、ゴーンは押し殺した声で問い質す。しかし、ベルドは先刻のリーシュのようにその発言を完全に無視した。別に挑発でもなんでもない。ただ単にベルドの視界にはヒオリしか映っていなかった、ただそれだけの単純なことだ。

「……ベル……ド……?」
「……やっぱだめだ」

弱々しく身を起こした少女のかすれた声を耳にして、ベルドは痛ましげに首を振った。

「お前がこいつらとどういう関係にあるのか、なんとなく分かってきた。正直、どうするのが正しいのか俺はよく分からなくなってきたよ」

でもな。そう言って、ベルドはヒオリの身を起こす。

「これだけは分かるんだ。お前の居場所は、少なくともそこなんかじゃねえ。……ここだ」
「……待て、小僧」

ベルドの言葉に、ヒオリよりも先にゴーンが反応した。冷徹な、それでいて激甚な怒りを宿した眼差し。その目線は既にヒオリではなく、ベルドのほうに向けられている。

「……今、貴様は何を言ったか分かっているのか?」
「分かってるよ……てめえこそ、女の子に何やってんだよ」

仮に彼女が「それ」だとしたって、物事には限度がある。いや、それをゴーンに言うにはおそらく、彼はまだ幼かった。仮に立場が逆だとしたら、そうしなかった保障はない。

だけど。

これは理性なんかじゃない、感情だ。後ろに立たせたヒオリをかばうように前に立ち、ベルドは鋭く剣を構えた。ゲリュオたちが得物を抜いていないのは、おそらくまだ迷っているからだろう。

抱き起こしたヒオリの、吐瀉物にまみれて汚れた顔。異臭を放つその顔に、ベルドは服から取り出した布切れを当てる。きれいにふき取ってやりながら、ベルドはヒオリに謝罪した。

「……ごめんな、ヒオリ。本当は水拭きぐらいしなくちゃいけないんだけど、我慢してくれな」
「……貴様っ……!」

ベルドの行動と、彼を見上げるヒオリを見て、ゴーンの顔が憤怒に染まる。

「……何を、しているのか、分かっているのか?」
「繰り返してくんなくていい。別に耳は悪かねえんだ」
「貴様……それでも、剣士かっ……!」
「剣士だな。お前とは同業者になるのか?」
「黙れ!!」

剣士――ソードマンの中には、剣ではなく斧を主軸とする人間も存在する。前にいるゴーンは恐らくその類で、「ソードマン」という職業はベルドと同じだ。

……が、それを聞いた瞬間ゴーンは唐突に激昂した。

「貴様ごときが剣士を語るな! 剣士というのはな、大切なものがあるんだ! その剣にかけて守るものがあるんだ! 奴隷の小娘一匹ごときをかばう男が剣士だと!? 笑わせるな!!」

激情と熱情に頬を染め、ゴーンは叫んだ。どうやら剣士というものと、その剣士である自分自身に誇りを持っていたらしい。そんなゴーンにとって、同じ剣士であるベルドがヒオリごときを庇う姿は認められないのだろう。

怒鳴りつけたゴーンは、斧を構えて踏み出した。

「……リーシュ様。ここは私がやります」
「あなた一人でですか?」
「はい。奴隷の小娘一匹ごときをかばう剣士気取りのガキや、そいつごときが率いる連中など私一人でも十分です。貴方は別の任務へ」
「わかりました。では」

そう言ってリーシュは懐から二枚の紙を出す。それをしばし眺め、一枚をゴーンに渡す。

「では、これらの任務は貴方にお任せします。私はこちらの任務をやりますので」

どうやらその紙は任務表らしい。わかりました、と頷くゴーンにリーシュも頷きを返し、飛竜の卵をゴーンから少し離れた所に置く。リーシュは続いてアリアドネの糸を出し、天に掲げる。その体が光に包まれ――リーシュの姿はかき消えた。

 

 

 

 

 

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