第五話
記憶喪失
「……ここで素直に情報交換とは行ってくれないわけだな」
「一応、男と女だからな」
ガラゴロと垣根の位置を変更しつつ、少年とクエルスはぼやきを交わした。一応取っていた部屋は三人用だったため、少年の宿泊もすんなりと行った(とはいえ代金だけはもう一人分払う必要があったわけだが)。
「……よし、こんなもんか」
「垣根、薄い気がするわね――ちょっとあんた」
「なんだ?」
垣根の移動を完了させたクエルスに、シャルナが呟く。そして、少年のほうに視線を飛ばした。
「あたしとクエルスの間で寝なさい。このスケベ男と薄垣根一枚に隔てられてるだけだと思うと気が気じゃないわ」
「垣根築いててそれか? お前、どんだけ信頼されてねえんだよ」
「――やかましい」
少年の呆れた声に、クエルスは苦々しくそれに返す。ったく、名前も知らない男に負けるってなんなのよと少年はぼやき、それを聞いたシャルナがあっと小さく声を上げた。
「なんだ?」
「そういえば、あたしたちあんたの名前聞いてないわよ!」
「名前――? いや、それは――」
「――ああ、分からないんだっけ」
「申し訳ないがな……いや、ちょっと待ってくれ……」
謝りかけた少年だったが、そこで何かを思い至ったらしい。眉根を寄せて、脳の底から思い出すように――少年は、一つの名前を搾り出した。
「……そうだ……リューゼ……」
「それが……あんたの名前?」
「……そうらしい。だが、それ以外はさっぱりだ」
半分頭を抱え込んで、唸るように答えた少年――リューゼを前に、シャルナは一つため息をついた。
「じゃあ、あんたは当分リューゼって呼ばせてもらうわ。本当の名前を思い出したら、素直に答えるのよ」
「……いや、だから……まあ、いいか……」
シャルナの声に反論しかけたリューゼだったが、自信は無いのかそう答えた。
「……さて、と」
垣根の移動を終え、夕食も終え、シャルナはこう切り出した。視線の先には山で拾った赤髪の少年・リューゼがいる。
「……なんだ?」
「いや、とりあえず情報交換しとこうかなって」
「……俺は別に何も情報持って無いぞ」
「知ってるわよ」
リューゼの声に、シャルナは返した。実はこの少年、自分の名前以外は全く思い出せない完全無欠の記憶喪失だったのである。
「ただ、その記憶喪失の度合いだけは教えて頂戴。何も出来ない赤ん坊ってわけでもないだろうし」
箸とかちゃんと持ててたでしょ? と付け加えるシャルナに、リューゼもふむと頷いた。
「――確かに、日常生活は問題なく送れるみたいだな。箸の持ち方も分かってるし、多分料理も出来るだろ」
「料理!? あんた料理できるの!?」
「保存食の調理法ぐらいだろうがな」
「軍隊とか非常事態じゃないんだからさ……」
「……いや、俺にとっちゃ十分非常事態だぜ。記憶喪失とか」
「知らないわよ」
苦笑して呟くリューゼを、シャルナはバッサリと切り捨てる。その横でクエルスが同時に不要な情報も切り捨てて、簡単に纏めた。
「ってことは、普通のことは覚えていて、忘れているのは自分のことだけってことでいいんだな?」
「ああ、多分な」
「じゃあ、このレーベの宿の女子風呂の覗き方を――」
「死ねっ!」
言い終わる前に、クエルスの顔がぶれた。殴り飛ばされたクエルスはシャルナが作った垣根に突っ込み、どんがらがっしゃんと色々な物が崩れ落ちる音をさせた。
「ったく、これだからこのエロガキは……」
「……OK、なんとなく分かった気がする」
ふう、と息をついたシャルナを見て、リューゼはシャルナが自分の隣に共に過ごしただろう男よりも見ず知らずの男を置きたがった理由をなんとはなしに理解した。と、シャルナが凶眼を向けてくる。
「……あんたもクエルスと同類?」
「少なくとも女子風呂を覗くようなマネはしねえ。生憎、そうしなくちゃならないほど女に飢えてたわけでもねえからな」
「ちょっと待ちやがれ!!」
さらっと言われた爆弾発言に、思わず突っ込んだのはクエルスである。
「貴様そりゃどういう意味だ五十字以上三十字以下で答えやがれええいやかましいそこに直れ成敗してやるううぅぅぅっ!!」
「ちょっと待てそれ文字数がおかし――」
「少し黙れ、このスケベッ!」
シャルナの鉄拳が、クエルスの顔面に炸裂した。
「――って、ん……?」
「なんだ?」
「そうしなくちゃならないほど……『女に飢えてたわけじゃない』?」
「それがどうし――って、まさか!」
「――クエルス、シャルナ!」
「な、なんだ!?」
「イヴって娘を、知らないか!?」
「い、イヴ!?」
「ああ、えっと――だああ畜生、名前しか思い出せねえ!」
「ちょっと待て、落ち着け!!」
じれったいのか頭を抱えて叫んだリューゼに、クエルスが強い声を出した。ヤマチュウの動きが落ち着くのを待ち、冷静な声音で返す。
「悪いが、俺は知らない。済まないが、な……」
「……あたしも。あの場にいたのは、多分リューゼだけだった」
「……そうか……まいったな……」
クエルスとシャルナの声に冷静さを取り戻したのか、リューゼも息をついて感情を排出する。それを見て、クエルスがこう提案した。
「なあ、リューゼ――」
「――なんだ?」
「お前、俺らと旅に出る気はないか?」
「…………は?」
その提案は意外だったのか、リューゼは頓狂な声を返した。クエルスは一つ首を振ると、リューゼに向かって続けていく。
「実は俺ら、世界中を冒険したくてアリアハンから出てきたばっかなんだ。こっから東にあるいざないの洞窟ってのを越えてさ、広い世界に旅立とうと思ってたんだ」
「……ほう」
「んで、ほら、一緒に旅をしていくうちにお前の記憶も戻るかもしれないしさ。あんただって記憶を失った今、行くあてだってないんだろ? 悪い話じゃないと思うんだけど、どうだ?」
「…………」
しばしクエルスのほうを見つめていたリューゼだが、ふとその目線をシャルナに移す。
「ん、あたし? あたしもいいよ。あんた、さそりばちをあっさり倒したでしょ? 魔物も凶暴化している今、あんたの力は魅力的だし。それに、旅は多いほうが楽しいしね」
「…………」
二人の賛成を受け、リューゼはふっと笑ってうつむいた。そしてその顔が再び上がったときには、紛れも無い笑みが浮かんでいた。
「……そうだな。それじゃ、お願いしていいか?」
「ああ、勿論だ」
そして、最終的なクエルスの承諾を受けたリューゼは、右手を差し出した。
「そしたら、改めて自己紹介だな。記憶喪失のリューゼです、よろしく」
「どんな自己紹介だよ」
その言葉に突っ込みを入れつつ――クエルスは、リューゼと握手を交わした。