プロローグ

自由の扉をくぐるとき


はぁはぁと荒い息を吐く。何も考えず、走り続ける。一つの願いを抱えて、彼はただ走った。

彼は自由が欲しかった。職務に追われ、ここに来る者たちを裁き続ける日々。ろくな休みも無く、ただただ職務に追われる毎日。嫌だと思うようになったのはいつのことだろうか。逃げ出そうと考えたのはいつのことだろうか。それすらもう覚えていない。

彼は朝から走り続けた。泉を飛び越え倒木を蹴飛ばし、あっけに取られる住人達を尻目にただただ走った。

昔はよかった、と彼は思う。自分達の存在は畏敬の対象であり、拝んだり崇めたりしていた。元はといえば人間が引き起こしたものだというのにこっちに責任転嫁されて祟られると一様に言われるのは心外だったが、それでも今よりははるかにましだった。

今はどうだ。科学とやらが進歩し、自分達の居場所などどこにも無い。かつてはこっちの祟りだと言われていた物も正体を解明され、あまつさえこちらの存在すら否定するようになった。否定したはずのモノの姿を見た人間の顔を見るのもなかなか面白かったが、そんなものは慰めにもならなかった。


追っ手が来るのは、怖いほど遅かった。


分かるのは自由への扉は目の前にあること。そして、それを阻もうとする者がすぐ後ろから迫ってきていること。最初は気配で少し感じる程度だったのに、もうすぐ近くまで足音は迫ってきている。


追っ手の速度は、恐ろしいほど速かった。


走りながら、蒲子――葡萄の実を投げつける。だが追っ手は止まらない。振り切れないと悟った彼は、自らが止まって後ろを振り向く。自分よりも随分小さいその追っ手は、しかし戸惑うことなくまっすぐに自分に駆けて来た。あっという間に距離を詰められ、真正面から対峙する。彼我の距離は二メートル。

「――戻りなさい」

媚びている訳でも馬鹿にしているわけでもない、その一言。ただ用件だけを簡潔に伝える、寒気がするほど冷徹な口調。

「――断る」

でなければ、自分とてここまで逃げはしない。誰だ、食べ物の欲には弱いとか言った奴は。彼は舌打ちをするが、いまさら悔やんでも状況が変わるわけではない。だが捕まるわけには行かなかった。自分には自由がかかっている。ここで捕まったらきっと二度と自由は手に入らないだろう。

「――見逃せ、更沙!」
「……そういうわけには、参りません。わたくしの用件は、あなたを連れ戻すことなのですから」
「……見逃せ! そうでなければ、俺はお前を殺してでも行かなければならなくなる!」
「どうか投降してください。僭越ながら、あなたよりわたくしの方が強いと自負しております。無益な争いは双方望むところではございません」


交渉、決裂。


「仕方、ない……!」

彼は威嚇のつもりで低く身構えるが、相手は全く動じない。威嚇も交渉も通じない、ならば、仕方がない。

「申し訳、ございません」

対峙する相手は、得物を上段に構えた。彼は観念した。眼前の相手を滅ぼす対象として見据え、身構えなおす。

「…………!」

彼は、地を蹴った。同時に相手の目が、彼を捉えた。

 

 

最初に感覚に飛び込んできたのは、自分の呼吸音だった。走っていたときよりもさらに荒く、息苦しいというのがよく分かる。次に飛び込んできたのは倒れ伏した相手と――血溜まり。

記憶がない。自分は一体どうしていたのか、どうしてこうなったのか。

相手は恐ろしく強かった。脱走者を追うのが仕事なだけあって、その戦闘力は圧巻の一言だった。そして、自分よりも強かった。全く歯の立たない相手だったわけではない。だが、裏を返せばそれだけだ。

ただ覚えているのは、死に物狂いで繰り出した己の腕と、迸る鮮血。腕を見れば、滴り落ちる真っ赤な液体。そして、同じくらい真っ赤に染まったその追っ手。

本当に後戻りできなくなったその事態に、後悔の念が一度沸く。だが、もともとこうなるのは覚悟の上ではなかったのか。首を振って己の甘さと悔やむ心を吹き飛ばすと、彼は再び走り出した。

 

自由への扉は、もう目の前だ。

 

 

 

 

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第一話・彼らがばったり出会ったときへ

 

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