第二

彼が怪異と見えたとき


 
「……なんでこんなことやってんのかね、俺は」

ずっしりと重くなったかばんを部屋に放り出し、部屋着に着替えながら桐夜はぼやいた。購買で買ってきたのはノートである。
 
しばらくして着替えを完了し、どかっと机に座ってかばんを開けて、中から本を取り出した。稲垣に言った『用事』とはこれである。裁可高等学校の図書室から借りてきたのは、日本神話の本が二冊に鬼に関する本が一冊。一度に借りれる本は三冊しかないので、図書館でうんうん唸りながら良さげな本をチョイスしてきたのである。市立図書館に行かなかったのは単に面倒くさいからだ。家や学校からの距離の問題で。
 
「本来ならこんな本読まないんだけどねえ」
 
苦笑交じりに、桐夜はぼやく。市立図書館に行くのすら面倒くさがる自分が、なんたって死後の世界について勉強しなければならないんだ。
 
「あの子のことが妙に気になるから、か……」
 
答えは分かっていた。しかもその子は仮定の話で死後の世界を引き合いに出しただけだ。正直言って、全くもって意味がない。それでも探すのは、その子との接点がそれしかないからだろう。
 
「……どんだけ女に飢えてんだ、俺……」
 
再び苦笑して、桐夜は本を調べ始める。基本的なことを調べ上げてはメモ。あの子は黄泉国から逃げ出した鬼を追いかけてきた、と言った。……牢屋番みたいなもんか?
 
「……これか?」
 
ぱらぱらとめくっていた桐夜は、ある項目で手を止める。
 
黄泉醜女(よもつしこめ)。黄泉国から葦原中国(あしはらのなかつくに)――つまり現世へと逃げ出す者を追い捕らえ、連れ戻す事を任務としている黄泉国の使者である。捕らえる対象の中には当然ながら激しい抵抗をするものもいるから、場合によっては倒されるのは自分かもしれない、そういう存在だ。任務が任務なので戦闘能力は他の使者を凌駕しているが、食べ物への欲に弱いと言われている。資料を洗う限り一人ではなく、何人もいるらしい。黄泉の国のルール……おそらくこの国で言う法律を守らない者を罰するという説もある。
 
と、ある疑念が頭をよぎった。
 
「……待てよ?」
 
仮に黄泉醜女の任務が前者――脱走者を追い捕らえることだとしたら? そして、あの女の子が話していたことがすべて本当のことだとしたら?
 
「あの子は黄泉醜女で、脱走した鬼を連れ戻しに来た?」
 
呆然と呟いて、桐夜は慌てて首を振るう。
 
「……んな、バカな」
 
だが、それが真実ならすべて辻褄が合う。彼女がなぜ飲み物を渡されたときにすごい勢いで飲んでいたのか。なぜ警察を知らなかったのか。なぜいきなり現れたあの不可解な事態の説明をしたがらなかったのか。
 
 
――したがらなかったんじゃない、出来なかったんだ。
 
 
「……あれ?」
 
歴史の授業で読まされたことがあった古事記の一部の抜粋をふっと思い出して、本をめくる手を止める。そのまま、歴史の教科書を開く。その項目を見て、桐夜は自分の推測を覆すことになった。黄泉国と葦原中国は、黄泉比良坂(よもつひらさか)というところでつながっている。ところがその黄泉比良坂は、島根県八束郡にあるという定説がある。
 
もしもこの定説が真実だとしたら、なんで女の子も脱走した鬼だかなんだかもそこからはるか離れた東関東の端っこなんかにいるのかの説明が付かなくなる。
 
「……所詮、仮定話、か……」
 
呟いて、桐夜は本を投げ出した。ううん、もし黄泉国の話が本当だとしたらこの日常は一気に面白くなるんだがなぁ。
 
 
「ん?」
 
――と、再びの気配。教室で感じたのと同じものだ。
 
「……おい、誰かいるのか?」
 
虚空に問いかけるも――変化は、ない。
 
「ああ、そうだ。宿題、やんなきゃな」
 
 
薄気味の悪さを感じて、桐夜は宿題をして気を紛らわすことにした。
 

 
 
 
 
 
 
「塚本、問の七、やってきたか?」
「ああ、はい」
 
六限目となった、最後の授業。昼飯後のものすごい眠気と戦っていたら、昨日の宿題の件で教師に指名された。その教師の一言に肯定の意を返して、桐夜は立ち上がる。結局昨日、あの後もあの女の子と黄泉醜女について考えていたが結論は出なかった。しかも、途中でまたしても不気味な気配を感じ、混乱した自分の頭はついに考えるのを放棄した。
 
……威張れることじゃねえな、全然。
 
「……という式に変形できるからαが七、βが四……だと思います」
「正解だ。やれば出来るではないか」
 
珍しく見た教師の笑みに、はあそうですねと適当な答えを返して着席。それから何事も無く数学の授業は進み、終礼となる。
 
「これで試験範囲は全部終わったから、明後日の授業は自習だ。自習の時間をくれてやるから、学年末試験ではちゃんといい点取れよ」
 
その一言を聞いた連中は、一様にがくんと肩を落とす。ため息に似た声もあちこちから聞こえてくるが、無理も無い。かくいう自分も三月のうららかな陽気に当てられてものどかな気分になれないのはひとえにこいつが原因である。
 
「塚本、学年末試験はどうだ?」
「国語と数学と理科と社会と英語以外は大丈夫だ」
「全部駄目じゃねえかよ」

 
 
 
 
 
「そういえば、あいつ一体どうやって出てきたのか聞けずじまいだったな」
 
学校からの帰り道、暗くなった道を歩きながら桐夜はぼやいた。桐夜は家から自転車に乗って最寄り駅まで行き、そこから電車を数駅乗り継いで登校している。その最寄り駅を出て、自転車置き場に向かって歩いている途中であった。この自転車置き場がいわゆる穴場で、利用者は駅前の別の自転車置き場と違って少ない。存在を知らない人も多いくらいだ。料金は駅前と違ってあまり高くないが、それでも利用者が少ないのは
 
「……こんなところに寄り付かねえからだろうなぁ……」
 
から、で、あった。ここは駅の裏手にあたり、自転車置き場には路地裏を通って行かなければならない。この路地裏に廃ビルが三つもあったり、飲食店の排気口がいくつもあったりして、街灯があるとはいえ特に夜は不気味である。夏とかだと生暖かい排気が出てきたりして、廃ビルを使えばそれこそ肝試しにでも使えそうな状態だ。
 
いいかげん役所も整備しろよと誰にでもなく悪態を付きながら、いつもの通り自転車置き場に向かって歩いていると――
 
「――は?」
 
いきなり起こった現象に、桐夜は我が耳と、次いで目を疑うことになった。何かが吹き飛ばされる音と、廃ビルの二階の窓から降ってきた小柄な影。街灯に一瞬だけ照らされたその横顔と、なによりその服には見覚えがあった。
 
あの、女の子だ。
 
なんでこんなところにいるんだという疑問を抱くが、次の瞬間そんな疑問なんか吹っ飛ぶような光景が飛び込んでくる。
 
「はあ!?」
 
なんか最近ありえない光景ばっかり見ている気がする。桐夜は唖然となって、動きを止めた。その廃ビルの二階だか三階だかの壁をぶち破って女の子の近くに着地したそれは、日本人ならだれしもが一回は見たり聞いたりしたことがある物だった。
 
「お、鬼ぃ!?」
 
ありえん。絶対ありえん。鬼は確かにいると思う。だがそれは人間の負の感情そのもので、実体は持っていないはずだ。あくまで、桐夜個人の支持する考えだが。
 
……が、現実としてそこにいるのは見紛う事なき「鬼」だった。振り乱された短い髪に、半端じゃなく高い背丈。角は一般的に言われる二本ではなく、五本くらいあった。体躯に合った、特大サイズの着物と袴。街灯と月明かりに反射して銀色に輝く、握られている長い棒は金属製だろう。
 
そいつはこちらには気づいていないらしく、咆哮を上げて地面に転がる女の子に棒を振り上げた。
 
己の頭に、逃げろという警鐘が鳴り響く。あんなもので殴られたら、肉体的にはただの一般人である自分に命はない。転がる女の子だって何回殴られたのかは知らないが、立ち上がることすら出来ないことから重傷を負っているのは分かる。
 
とにかく行動は決まった。誰だって命は惜しい。出会って三十分も会話していない女の子のために命を投げ出す理屈はない。
 
気づかれないうちに逃げ出そうとした、そのときだった。
 
「……ぅうぅ……」
 
弱々しい、蚊の鳴くような声で桐夜に届いたその呻き。彼が放ったものではない。もっと高い声で出てきたその声は、十中八九倒れている女の子のものだった。
 
 
情けない話かもしれないが、その呻きで桐夜の動きは止まっていた。
 
 
「何かに例えて話をするんだよ。そしたら突拍子も無いことでも話せるだろ?」
 
自分の提案を受けて、どう話そうか考えているその表情。
 
「じゃあ、瞬間移動したってことで!」
 
口論したときに出てきた、突拍子もないその言葉。
 
 
そして――去り際に見せた、あの孤独な横顔。
 
 
「……だあああ、畜生!」
 
桐夜は思わず叫んでいた。心理学の本で読んだことがある。好奇心より自己防衛本能を優先させるのが人間だ、と。その一説にはなんらおかしいことはない。当たり前のことだろうと、桐夜は何の考えもなく受け入れていた。
 
走る。その女の子めがけて、今にも振り下ろされそうな棒をめがけて、桐夜は走る。なんでこうなってんだ。なんで自己防衛本能を突き飛ばしてまで自分は今走ってるんだ。自分で起こした行動が自分で理解できない。でも仕方ねえだろ、いまさら悩んだってどうしようもねえだろ、なぜなら自分は――
 
「ううおおおおおおおおおおおあああああああああああああああっ!」
 
――もう、走り出してしまったのだから!
 
女の子の近くで、身を低くする。掬い上げるようにその子を抱き、その子ごと地面を転がった。半瞬遅れて、稲妻が落ちたかのような轟音。砕かれて飛んだアスファルトの欠片が、桐夜とその子を容赦なく叩く。
 
五回ほど地面を転がり、止まる。視界のほとんどが灰色で染まる中、桐夜は間近にその鬼を見た。角の数はやはり二本ではなく、五本ある。ついでにその背丈は低く見たって四メートル。顔の位置が街灯の明かりの位置を越えていて、暗さも相まって表情はよく分からない。
 
「ほう、人間か。しかし、逃げずに向かってくるとは驚きだ。これも科学とやらが進歩したせい、か」
「しゃ、喋った!?」
「言語を有するは人間だけだとは思うな。同じ知能を持つものはいくらでもいる。それを人間だけの特権と思うは人の驕りぞ」
 
その同じ知能を持つ奴を見たことねえんだからしょうがねえだろといつもの桐夜なら怒鳴り返しているところだが、あいにくそんな余裕はない。喋った事に対する驚きの声が出たのだって恐らく僥倖に近いだろう。
 
 
要するに、滅茶苦茶怖い。
 
 
その言葉が冥土の土産とばかりに鬼は黙って棒を振り上げ、そして――
 
「……めっ、て」
 
寝かされている女の子が、弱々しくも声を上げた。その声に桐夜も鬼も動きを止める。
 
「止め、て。お願いだから、お願いだから、その人を、傷つけないでっ!」
 
桐夜は女の子の顔を見て、次いで再び鬼を見た。女の子は必死な顔で、あらん限りの声を振り絞っている。対する鬼の表情は暗くて良く分からない。だが、桐夜は理屈ではなく直感した。
 
――こいつ、笑っている!
 
「いいだろう。今回は見逃してやろう。残り少ない命を、こやつと共に過ごすのだな」
 
鬼から直接与えられた、死刑宣告。次の瞬間、鬼は人間に姿を変えると、夜の闇へと消えて行った。
 
「鬼って人に姿を変えることが出来るって聞いたことがあったけど、本当のことだったんだな……」
 
場違いな感想が口から漏れるが、そんなことより女の子の安全確認が先だった。
 
「おい、あんた、大丈夫か?」
 
へたり込みたい感情を必至になって抑えつつ、桐夜はその子の傍にかがみこんだ。満身創痍で、とても大丈夫には見えない。
 
「だい、じょぶ、です」
「大丈夫には、とても見えないんだが。とりあえず、病院まで運んでいこうか? それとも俺が救急車呼ぼうか?」
「病院、って?」
「俺ら人間の世界での、医療施設だ」
 
桐夜が答えると、その子は首を振った。
 
「だい、じょぶです。そんな、仰々しいところに、行かなくても……」
「だから大丈夫には見えないっつってんだろ――」
「止めて、ください!」
 
強い声で否定され、桐夜は思わず言葉に詰まる。しばしの沈黙が流れ、桐夜は再び返そうとする。
 
「止める止めないって、そういう問題じゃなくて――」
 
が、その子はいきなり、がくんと首を垂れ落とした。
 
「お、おい!?」

倒れたその子に呼びかけるも、返答は無い。気絶してしまったらしく、揺すっても起きる気配も無かった。
 
 
桐夜は大きくため息をついて、夜空を見上げる。
 
「仰々しいところに行かなくてもいいって、あんた言おうとしたんだよな?」
 
鬼すら出てきた現状だ。こいつの言ってる事は正しいかもしれない。それとも、こいつなりの事情があるのだろうか。だったら止めたほうがいいかもしれない。
 
常識ならありえない判断を下して、桐夜はもう一度ため息をついた。
 
 
 
 
 
 

帰宅した桐夜の作業は決まっていた。まずは女の子を寝かせて、傍目から見ても腫れ上がっているところへアイスノンを当てる。悲しいかな、男の彼では服を脱がして手当てするなんて芸当は出来ないのだ。

都合がいいのか悪いのか母親は風呂に入っており、父親はまだ帰ってきていなかった。
 
続いて昨日借りてきた本を見る。鬼に関する本なんて借りてこなくて良かったんじゃないかと昨日本を投げ出した段階で思ったのだが、これが思わぬところで功を奏した。ぱらぱらと本をめくっていき、先の鬼と共通する特徴を探す。
 
「しゅてん……どうじ?」
 
そして、あるところで手が止まった。その項目はしゅてんどうじ。一般的に酒呑童子と書かれ、そのほかには朱点童子という書き方もある。顔は薄赤く、髪は短くて乱れた赤毛、背丈が六メートル以上で角が五本、十個以上の目があると言われている。大格子の着物を着、紅の袴を着用し、鉄杖を杖にしているというのが一般的な姿である。
 
「!?」
 
突如、背中に気配を感じ、桐夜は全身の毛が逆立つのを感じた。注意深く辺りを見渡すが、何も感じることは出来ない。
 
桐夜は霊感は強いほうではない。今までこんなに何回も気配を感じることは無かった。こちらが見えないのをいいことに一方的にじろじろ見られているような、不快感。

――絶対、何かいる。
 
「さっきの鬼か!?」
 
体が一瞬で警戒態勢に入る。だがその気配はいつになっても接触してくることはなく、やがてゆっくりと消えていった。
 
「なんなんだよ、ったく……」
 
安堵の息を吐きながら、桐夜は椅子に体重を預ける。警戒態勢に入ったときに無意識に腰を浮かせてしまったらしい。気配の正体を考えようかと思ったが、それだったら先ほどの鬼の姿とこの項目にかかれている酒呑童子の姿の違いを考察するほうがよほど有意義だ。
 
「……目の数は絶対違うよな……」
 
薄気味悪さをごまかすために、わざと言葉に出して桐夜は言う。あの時見た鬼の目は人間と同じ二つだったが、その他の特徴はよく似ている。さすがに着物の柄まで観察する余裕はなかったが、乱れた毛も鉄杖も、全てがきれいに一致していた。
 
「――ってことは、こいつを襲ったのはその酒呑童子ってことか?」
 
考えてみるも、結論は出ない。桐夜は三度ため息をついて

「結局、こいつが起きてみないと分からない、か」
 
 
ひとり、ぼやいた。
 
 
最近、ため息が何か増えてる気がする。
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