八章
帰ってきた市長の前に、一組の男女が立ちふさがる。それを見た市長の顔は、一瞬で驚愕へと塗り替えられた。
「よう、市長さんよ。用件は言わなくたって分かってるよな?」
「…………」
唇の端を吊り上げて――それでも、目はまったく笑っていない顔。この市を治める長たる男は、京のそんな顔を見て、しかし一瞬で平静を取り戻した。瞳から感情が消え失せて、ふうんという言葉と共に二人に告げる。
「見え透いた隠し合いは無駄のようだな。一体、どうして気がついた? 君らには特別に、私が記憶封印の魔術をかけた上でループさせたはずなのだが」
「時計塔の術式は、どうしても違和感が拭えなかったんですよ。ですので家に帰ってから護符を使って結界を張り、その上から呪符を握って眠ったんです。目が覚めてみたら、記憶は消えていましたけど妙な違和感を抱く程度には効果があったみたいでしてね。自分の体を調べてみたら、妙な術式がかけられていたので解除しました」
「ほう」
答えたのは、普通の服に着替えた奈央だった。そういえば自分も、完全に記憶は失っていた。違和感を覚え、術式に詳しい奈央だからこそ、そんなことが出来たのだろう。
「その程度の対策でやられてしまうとは、やはり私の魔術は未熟のようだな」
「そんなことはないと思いますよ。妙な違和感こそ覚えましたけど、かなり根気よく調べなければ分かりませんでしたから。正直、流してしまう可能性だって非常に高かったと思います」
「お褒め頂き光栄だな。それで、残った二人はどうしたんだ」
「お分かりかと思いますが」
自分達がやったことや、相手の術式の突破方法。不用意に話している気もするが、どちらにせよここでケリをつけられなければそれで終わりだ。
「急いで京さんの所へと向かい、同じようにして術式を解除しました。後は二人で田中さんの所へ行って、やっぱり同じように」
「なるほど」
「言っても無駄だとは思いますが……このループ、解除してもらえませんか」
「無駄だと分かっているのなら、それこそ聞くまでも無いのではないか?」
直接的な返事でこそなかったものの、言っている意味は当然伝わる。戦闘態勢に入る奈央に、市長は小さく問いかけた。
「一体、君らの目的は何だ? 別に君らに害はないとは言わないが、安い正義感ということか?」
「……いや」
感情の読めなくなった瞳で天を見上げ、返事をするのは京だった。
「……むしろ『同族嫌悪』ってやつだろうな」
その言葉に、奈央が思わず息を呑んだ。進んでしまった時の中で、零れ落ちてしまった欠片。哀しい瞳のその理由を、奈央は知ってしまった気がした。答えも察しがついたというのに、それでも聞かずにはいられない。
だが、それは市長も同じだったのだろう。奈央が質問するより先に、市長は京に聞いてくる。
「ならば、君は……もしも時間と場所が違ったのなら、味方同士だったのかもしれないということか?」
「……ああ。ほんの、半月前……舞台の町が廉崎の家の近くだったら、まず間違いなく俺とあんたは味方同士だっただろうな」
どうして、あの場でやってくれなかったのかと。どうして、助けてくれなかったんだと。いや――どうして、自分はそうできなかったのかと。行き場をなくした、理不尽にして哀しい怒り。市長にぶつけるのはそれこそお門違いであることを知っていながら、京は市長にそう告げる。
「……潰すぞ、市長」
「……残念だな、廉崎」
そして。
目的は違っても同じことを望んだであろう二人は、ただその時間と場所が、ほんの少しずれてしまったが故に。
決して相容れなくなった二人は、繰り返しを終わらせるべく、繰り返しを続けるべく、激突した。
時を操り、引き戻していた市長との決戦、火蓋を切ったのは京だった。鋭く踏み込んで距離を詰めざま、同時に牽制で氷刃を一発。市長はその攻撃を軽く身を捻って躱し、続く剣撃も上体を逸らして鮮やかに躱す。
「はあぁっ!」
わざと大声を張り上げて、奈央が魔術を起動する。その声で攻撃を察知してしゃがみこむ京の上をすり抜けて、生み出された火炎の弾丸が市長めがけて襲い掛かった。
「ふっ!」
だが、突き出された市長の手の平から、数枚の紙切れが宙に舞う。その紙切れは正確に魔方陣の形を描き、紙同士を結ぶように生み出された緑色の線が、不可視の障壁を生み出した。正面から受け止められ、火炎の弾丸は霧散する。そこへ剣の背部に手を当てて、体制を戻す勢いも載せた京の飛び斬りに近い一撃が、市長の顎を切り裂かんと襲いかかった。
市長は咄嗟に攻撃を回避するものの、無茶な避け方をしたせいで体制が崩れる。京は手首を返し、左斜めからの必殺の一撃。市長の左肩がバッサリと切り裂かれ、同時に飛来した火炎弾が市長の体に直撃した。炎熱と熱波に目を細めつつ、京は油断なく距離を取る。京の一撃もそうだったし、火炎弾も直撃した。これで普通の人間ならば、まず立ってはいられまい。
あくまで、普通の人間ならば。
「お、まえ、たち……っ!」
爛々と燃える憎悪の目で二人を睨みつける市長からは、大したダメージは見受けられない。少なくとも、魔術をちょっとかじった程度でここまでの抵抗力がつくはずもなかった。
市長の指が淡く輝き、両手の指で一つずつの魔方陣を描く。指先の光は軌跡を描くようにして空間に滞留し、その光が結ばれると同時、市長の左右を護衛するように、紫色の塊が現出した。そしてその正体が何か、分からないほど愚かではない。
「あのときのスーミか……やっぱり、全部てめえの仕業だったんだな!」
怒号を上げて、京の一撃が市長めがけて炸裂する。だがそれはスーミの片方が身を挺して攻撃を止めた。しかし、青く透き通る魔剣は、スーミの体を一撃の下に両断する。
もう片方のスーミに火炎弾が襲い掛かり、空を飛ぶように回避されこそするものの、追撃で放たれた風の波が相手の体を蹂躙する。動きの取れないスーミに対し、京は追撃の体制に入った。
が。
「ぐあぁっ!」
元々最初の一撃は市長を狙ったはずのものであり、その攻撃が失敗した挙句に別の方角へ注意を向けるという隙だらけの京を市長が見逃すはずもなかった。京の体は衝撃波のようなものを食らって吹き飛ばされ、ごろごろと地面を豪快に転がる。
「京さん!」
「大丈夫です」
受身は取れた。思い切り吹っ飛ばされて地面も何度も転がって、逃がせるだけの衝撃も逃がした。市長は素早く印を結び、最後の使い魔を消滅させる。と、その使い魔と入れ替わるようにして、黒い剣と、ところどころむしられたような翼を持った、赤と青の天使のようなものが現れ出てきた。舌打ちをする京に、市長は高らかにこう告げる。
「スーミごときでは、消されてしまうようだからな! だがこれには、耐え切れるか?」
「ちいぃ……面倒なもの次々と呼びやがって! てめえ一体、何と契約しやがった!?」
クロノスなんていう、あまりにもかけ離れすぎた存在ほどの力はないとはいえ、時を戻すその能力。スーミのような低級使い魔はともかく、黒い、しかもむしられたような翼を持つような墜天使もどきを使い魔にするような奴なんて、京は今まで知らなかった。おそらく歴史や並の魔術書にも、そんなものは乗っていないのだろう。
どうやって契約したのかはまだしも、どこでそんな意味不明な悪魔を知ったのかは知らないが、相手にするにはあまりにも厄介な敵である。
赤い墜天使が京めがけて斬りかかり、それを京は氷の剣で受け止めた。手首を捻るようにして剣を流し、腹部めがけて蹴りを放つ。身を捻って躱した堕天使に京は蹴った足を地面について軸足にし、エネルギーを殺さないままの回し蹴り。有無を言わさぬ大技が、赤い墜天使の背中に思いっきりめり込んだ。
しかし、そんな京の上を飛び越えるように青い墜天使が空に舞い、急降下の勢いも載せて奈央めがけて突っ込んでくる。京のように近接戦に対応した能力を持っておらず、後衛に控える奈央を真っ先に潰すという、使い魔とは思えないほど高い知能の攻撃だった。
だが。
「悪霊、退散っ!」
懐から取り出した一枚の符を、奈央は直接相手めがけてたたきつけた。突っ込んでしまった青い墜天使は回避するような真似こそは出来なかったが、それを剣で迎撃する程度なら出来ていた。勢いの乗った攻撃は奈央に受け止めることは出来ず、力に押されてたたらを踏む。そのまま剣で押し込まれ、奈央は地面にしりもちをついた。相手も奈央の呪符で打撃を受けてよろめいたものの、奈央ほどひどく体勢を崩したわけでもない。そして、相手との距離はほとんどゼロ……奈央が体勢を立て直すまでには十分殺されて釣りが来る。
たった一体の攻撃にこの醜態はなんだと言われるかもしれないが、直接戦闘能力に関して言えば彼女はそう高くない。攻撃こそ前もって入念に作っておいた呪符を使えばどうにかならなくもないが、防御や回避といった点においてはどうしても彼らには見劣りするのだ。
「あぶねえっ!」
と、そこへ赤い墜天使を前蹴りで突き放した京が、戦いに割って入ってくる。振り下ろされた墜天使の剣を氷の剣で受け止める京は、やはり戦闘能力に関しては高い技量の持ち主だった。
魔力的なものが込もっているとはいえ、剣による攻撃を剣の刃で『受け止める』。よく漫画やドラマなどで見られたり、剣道なんかでも非常によく使われるこの方法。一見簡単そうなこの行為であるが、実際においては逆であり、数ある防御の中でも最も難しいとされる方法であった。
力が足りなければ、押し負ける。かといって力任せに抵抗しては、刃に多大な負荷がかかる。斧のように肉厚の刃を持つものだったり打撃武器のように質量のあるものだったらともかくとして、速さと技で以って勝負する刀剣類においてはよほどの技量がないと出来ない技であった。
多大な負荷がかかった刃は下手をすると曲がってしまい、最悪戦闘の続行など不可能な状態に陥ってしまう。特に日本刀の類においてはさらに難しい行動とされ、一流と呼ばれる使い手でもほとんど行ったことはなかったとされる。京の持っている刃は氷で作られたものでもあるため、曲がることはないだろうが、その場合は今度は折れる。
知性があるのかは知らないが、驚愕の表情を浮かべるその使い魔に、京は素早く逆襲をかけた。一瞬の驚愕から立ち直った墜天使は無茶な迎撃をすることなく、片翼だけを動かして攻撃を避ける。攻撃を回避されて体勢を崩したその隙に堕天使は京の剣から得物を外し、間髪入れずの回転斬り。京は後ろに下がることはせず、姿勢を低く沈ませることで回避した。
「ごはっ!?」
だが、そこへ襲い掛かってきた衝撃波が、京を再び吹き飛ばした。続いて赤い墜天使が、剣を真上から振り下ろす。だがそこを、今度は奈央が火炎弾を飛ばして迎撃した。
直撃、爆裂。
相手の体が突風にあおられたかのように吹き飛ばされ、京はその隙に素早く体勢を立て直す。と、目の前に青い墜天使が迫り来ていた。
「うぉわあっ!」
京は咄嗟に拳を放ち、敵の墜天使を殴り飛ばす。ほとんど闇雲な行動だったが、間違ってはいなかった。ここで奈央が援護射撃を放つが、何度か食らっていることで行動が読めてしまったのだろう、これはあっさりと避けられてしまう。
「くっ……!」
奈央は慌てて、別の符を掴む。彼女の手札――文字通りの、手札――が何枚あるかは知らないが、早いところ決着をつけてしまわねば市長を倒すことも出来ない。
不気味なのだ。先ほどは衝撃波を飛ばすようなことはやってのけたが、ほとんど戦闘にも参加せず、傍観者のようにしていることが。京にもそれなりにダメージは来ているが、それは相手も同様だ。赤い墜天使は京の回し蹴りを一撃受けた程度だが、特に青い墜天使は先の奈央の攻撃を二度にわたって食らっている。そんな戦いぶりからするに、自分の使い魔が百パーセント勝てるとは思っていないはずである。それなのに、ほとんど沈黙を守り続けているその姿が、正直に言って不気味すぎた。
奈央が、仕掛けた。直線的に火炎弾を飛ばすだけのあの呪符は、相手に隙でもない限りもう有効打とはならないだろう。呪符は既に術式を書き上げてしまっているが故に単発の効果しか発揮できず、言うまでもなく応用力という点では到底京達にはかなわない。
別の符から突風が放たれ、青い墜天使の体勢を崩す。ほとんどタックルに近い形で、そこへ京が追撃をかけた。避けられこそするものの、京は剣をぶん投げて二撃目を放つ。
と。
「もらった!」
その声を叫んだのは、京でも奈央でもなかった。咄嗟に振り返る京の視界が、何故かスローモーションで巡っていく。自分の体も、何故かゆっくりとしか動かない。全ての音が間延びして聞こえるそんな中、相手だけは普通の速度で動いていて――
「――――っ!」
市長の手の平から放たれたのは、京が先ほど食らった衝撃波とは比較にならないほど大きな一撃。京の横を……それも、かなり離れたところをすり抜けたのに、それでもバランスを崩すほどの、大きな『衝撃』。別段京を狙ったわけでもないのに、余波だけでぐらつくほどの錯覚を覚えた。
そう、その衝撃波は、京を狙ったものではなかった。
「ご――」
くぐもった声が、後ろから響く。そちらの方を振り向きたくても、ゆっくりとしか振り向けない。本当に長い一瞬で振り向いた彼の目に映ったのは、直撃を受けて体をくの字に曲げる少女の姿。同じくらいゆっくりと吹き飛んでいく彼女は、次の瞬間には吹っ飛ぶ速度が三倍程度に速くなる。
まるでそこだけ時間が早く進んでいるかのように……いや、違う。向こうだけ時間が早く進んでいるのではない。ここだけ、時間がゆっくりとしか進んでいないのだ。
市長が契約した悪魔の力は、一体なんだったのだろうか。市長はおそらく、その能力を、時を操る能力を使うタイミングを慎重に見計らっていたのだ。
持っていた呪符を手放して、奈央は勢いよく吹き飛んでいく。人の体ってあそこまで綺麗に飛ぶものなのか――そんな場違いな思考回路が、京の脳裏を呑気によぎった。
「ぶ――」
余波だけでぐらつく衝撃波をまともに食らってしまった奈央は、勢いを全く減じぬままに吹き飛ばされる。近くの建物のブロック塀に思い切り叩きつけられて、その塀が砕けて崩れ落ちる。塀の欠片が地面に落ちるどうということのない音が、京を現実へと引き戻した。
「……奈央――――っ!」
鈍くなった時間が、動く。駆け寄って、崩れた塀の残骸から奈央の体を引っ張り出す。衝撃にやられたのだろう、奈央は何度も咳き込んだ。その度にびちゃりという音を立てて、奈央の口から血が噴き出す。尖った破片にやられたのか、その巫女服には血が滲み、とても戦闘など続行できる状態ではなかった。少なくとも病院に運び込み、適切な治療をしなければ、下手をすると命にかかわる。
「きょ……」
唇はもう少しだけ長く動いていたが、最初の言葉からすると自分の名前だろうか。彼女の体を抱き上げる京に、震える腕を奈央は上げる。どうしたかったのかは、京にはよく分からない。途中で力尽きたのかそれとも最初からそうするつもりだったのか。奈央の手は力を失うように――
――京の肩に、ぽんと置かれた。
「――――っ!」
その行為は、廉崎京のそれに触れる。
悪夢の終わりは、自分の肩に置かれる手。焼け爛れた妹と、救えなかった自分の悔恨。
「…………」
――どうして?
「優……」
――どうか、お力を貸していただけませんか?
「奈、央……」
――どうか私からも、奈央をお願いいたしますね。
――どうして、助けてくれなかったの?
「て……め、え……っ!」
零れ落ちた幸せが、京の胸を駆け巡る。目の前で砕かれかけた少女の姿が、京をどうしようもなくかき乱す。
「てめえああぁぁぁっ!」
地面を打ち砕くほどの勢いで立ち上がった京の瞳孔が、ほんの一瞬だけ真っ赤に染まる。しかし、その正体は熱ではなく、氷の中に秘められた感情――地底に迸るマグマのような、灼熱の怒り。
守りたかった。
周囲はそれこそ敵しかおらず、味方なんて誰も居なかったたった一人の妹を、この手で守ってやりたかった。
自分は、守れなかった。
歪んだ家に取りつかれ、殺されかけた妹を、この手は守ってやれなかった。呪っても、嘆いても、死にたくなるほど憎んでも。時間はもう、戻ってこない。
目の前の男は、守っていた。
病に冒され、死を迎えかける自分の息子を、その手でしっかり守っていた。手段は許せなかったけれど、自分ができなかったその欠片を、時間を戻して守っていた。
この男は、強い。どうしようもなく弱く、いまだ幻影を悪夢に見て苛まれ続けている自分と違い、手遅れになる前に手を打って、大事なものを守っている。
自分は妹を守れなくて、あの男は息子を守っていて。自分は家族を守れなくて、あの男は家族を守っていて。
時を戻したいと、何度も願った。ただただ、悔しかったのだ。守りたいものを守ってやれず、無残に殺されてしまった妹を、もう一度時を戻せるのなら、今度こそ守ってやったのに。
この力に、意味を見出したいと思っていた。誰一人として守れなかった、氷のように脆かった、からっぽの力。敗者となった自分が、市長の邪魔をすることなど、それこそおこがましかったのか。
だけど。
「殺す……」
だけど、託されたのだ。そんな自分を信用してくれて、そんな自分に、大事な一人娘を託してくれた母親がいたのだ。
もう、裏切りたくない。自分と同じ悲しい思いを、もう誰にもさせたくない。それが、廉崎京の戦う理由だ。
自分が聖人君子でないことぐらいは分かっている。英雄でないことも分かっている。全世界すべてを守れるなんて思っていないし、京も奈央も市長もその息子も、全員が笑って終わるハッピーエンドを導いてくる力がないのも分かっている。
でも、ここで一時とはいえ、そんな自分を信用してくれて共に行動したその少女が、今度はまた目の前で奪われかけようとしているなら。
もう無力だなんて思わない。思いたくない。せめて自分と共に在り、自分と共に戦ってくれた少女を守り通すだけの力はあるって信じたい。
だから。
だから――
「今度こそ……どんな手を使っても、守り通してやるっ!」
京の怒りに呼応して、冷たい嵐が吹き荒れた。奈央の体を優しく地面に横たえて、市長のほうに再び意識を向けたときには、その優しさなど最早欠片も残っていない。冷たく悲しく、猛々しく荒れ狂う力。獣のような咆哮を上げた京の瞳が、青く煌き。少年の周囲を巡る空気が、白く蒼く輝いた。
京の周囲を駆け巡る魔力が、目に見えぬほどの小さな氷となって具現化する。反射した光の輝く姿に、この場の誰もが魅入らされた。冷たく美しい姿に見ゆるは、その人が望んだ、人の心を魅了してやまぬ大気の奇跡。
「オーロラ……」
「ああぁぁぁっ!」
どんっ、と。踏み固められた大地が、踏み込み一発で抉られる。瞬間移動にも等しい踏み込みのエネルギーを余さず注ぎ込んだ一撃は、回避どころか視認も許さず赤い堕天使に突き刺さった。鳩尾に突き刺さった靴の先が、心地よい反動を伝えてくる。体を半回転させて、京は手刀で赤い墜天使に追撃をかける。咄嗟に受け止めようとした墜天使だったが、氷の刃を纏う手刀は相手の剣をバターのように両断した。そしてその手刀は、剣を両断していてなお、勢いを全く衰えさせない。
それを見た市長は、大慌てで力を発動させる。瞬間的に時を引き戻して過去を行動し、その先の未来を変えてしまうという、この市全体にかけていた術式の限定版ともいえる技。だがそれを幾度使おうとも、あの赤い堕天使が京にやられる、それ以外の未来が現れてこない。
驚愕する市長の前で、赤い堕天使がたった一撃で両断される。振り向くと同時に、京の右手に吹雪が凝った。対して市長は、己の魔力を出せる限界にまで引き上げる。暴走した魔力が、パリパリと大気摩擦を引き起こした。
市長は悟っていた。この男が、どうしても相容れなくなってしまったこの男が、たやすく自分達を叩き潰すだけの力を持った存在だと。
「キーッ!」
あまりぱっとしない叫びと共に、青い天使が魔力を放つ。先ほど奈央を吹き飛ばした市長の衝撃波に匹敵し、そして今の京に比べ、あまりにもちっぽけで弱い力を。
「らあぁっ!」
オーロラの少年が放った、凝縮された吹雪に等しい霰交じりの冷たい嵐は、青い墜天使をその放った魔法ごと一撃の下に呑み込んだ。春の日差し照る港町は、一瞬で草も生えぬ極寒の大地へと姿を変える。
青い墜天使は吹雪に飲まれ、その存在そのものを抹消させられていく。しかし、それより遥かに非力な『人間』であったはずの市長はまだ、倒されてなどいなかった。
その目に宿っている光は、京のそれと全く同じで正反対な力。市長のいつもの落ち着き払った物腰は、既に完全に消えている。
「廉崎……!」
「…………!」
「俺は……俺は、こんなところで退くわけにはいかないんだ! やっと、力が手に入って、俺は息子を守ってやらなければならないんだ!」
「知らねえよ――そんなの、俺は知らねえよ! 俺はもう、失ってしまったんだ! 二度も失うわけにはいかないんだよ!」
市長が指先で魔方陣を組む。広範囲に散らされた魔力の弾丸が、混じり気のない純粋な殺意を込めて、京めがけて襲い掛かる。対して薙ぎ払うように放たれた吹雪は魔力の弾丸を粉々に砕くが、砕ききれなかった衝撃波は京の体を叩きつけた。オーロラはますます強く輝き、同時に市長の魔力も箍が外れたかのように荒れ狂った。
市長の振るう衝撃波は、今の京にも届いていた。先ほどまでは苦戦して、互角に近い戦いを繰り広げていた墜天使二体をものの一瞬で葬り去り、『格』の違いをまざまざと見せ付けたオーロラを振るう今の京に。
「殺してやる、廉崎! お前がいては、今度こそ本当に俺は子供を失ってしまうから!」
「うるせえ――もう、優みたいなことなんかさせねえ! 上等じゃねえか、自分で止めねえっていうんなら、てめえを殺してでも、奈央は守り通してやるっ!」
噛み合わないまま、終わる会話。当たり前だ。相手を頭から否定するなら、会話が成り立つはずもない。市長は繰り返しを終わらせる京を認めることなどできないだろうし、京も奈央を守るには、市長の存在が邪魔だったのだ。
神楽川奈央は、妹に――廉崎優に、あまりにも似すぎていた。特に、先の見えない暗闇の中、必死に戦おうとしていた、闇夜を思わせる黒い瞳が。京が奈央に力を貸すと決めたのは、ただ自分のできなかったことをやっていた相手が妬ましかっただけではない。時を戻せれば今度こそ守れると、そう思って変えられぬ過去と自分の無力を悔やんでいたのに、そんな折に時を戻して何かをしていた奴が妬ましかったからだけではない。それよりも、何よりも、優と同じ目をしていた奈央の助けになって……
守ってやりたいと、思ったから。
「うあああああっ!」
「おおおおおおっ!」
過去に苛まれるオーロラと、過去を願う衝撃波が激突した。魔力そのものが発生させる衝撃波と、解き放たれる猛吹雪。真正面から激突した純粋な力は、周囲の木々や地面を抉り、倒し、暴力的なまでの力を以って、ただただ全てを破壊する。
京が吼える。
市長が叫ぶ。
京が市長を凍てつかせ、市長が京を吹き飛ばす。京が飛び込み、市長が躱す。京がたたらを踏み、市長が魔術を解き放ち、京がそれを薙ぎ倒す。凍らせ打ち砕きなぎ倒し、守るために破壊する。その先に守らなければならないものがあるのなら、自分は全てを捨ててしまおう。どの道二人とも、潔白な身などではないのだから。
戦いは佳境を迎えていた。京は幾度も衝撃波に殴られて体中が悲鳴を上げているし、市長は京の放つ吹雪と絶対零度の気温に感覚を奪われて動きにキレがなくなってくる。
願いは一緒で、願うために振るう力のレベルもほとんど一緒で。なのに、願いをかなえるために必要な条件が、ただただ相手の存在を絶対的に否定していた。
「終わりだ、廉崎――!」
たった一瞬、出来た戦闘の小さな切れ目。本来ならば仕切り直しにもならず、切れ目として認識されることもありえないだろう、小さな小さなその空白。刹那の時間さえないような短い時間、市長は魔力を――否。先ほどまでで既に限界だっただろうから、この状況を何と定義すればいいだろう。
悪魔召還で己のものではない力を手に入れ、それを完全に解き放つ。そんなことをしては、自分の体が過度な魔力に耐え切れず、精神崩壊を起こすだろう。それか、召喚した悪魔に喰われてしまうかの二択である。
自分の体が保たないのも承知の上か、市長は魔力を解き放つ。全てを砕く衝撃波が、京の体を欠片も残さず粉々にしようと襲い来る。同時に時の進行は狂い、一撃で勝負を決めにかかった。
「――っ、――――っ!」
自分の言葉も、もはや耳には入らない。少年の右手には、氷で出来た鋭き剣。左手には、あらゆるものを凍てつかせる絶対零度の冷気――否、オーロラそのもの。
放つのは、あの冷凍光線なんかではない。青と白の二色に輝く、極光の一閃。迸る蒼銀のオーロラが、衝撃波と真っ向から激突する。光り輝く一撃が、オーロラ満ちる戦場を覆った。
声なき叫びは、京のものにも、市長のものにも聞こえた。
その一閃は衝撃波を貫通し、蹂躙し、勢いを減じぬまま敵の正中線を貫いて。
「おおぉぉぉああああぁぁぁぁっ!」
廉崎京は、跳躍する。何のけれんもないただまっすぐで純粋な斬撃が、市長の体に半ばまで食い込む。戦い、生き様、全てを込めた咆哮が戦場を震わせ――爆発。
蒼銀のオーロラは、時を止め、繰り返した男の体を、その一撃で吹き飛ばした。