二章
「ぬ……っ」
翌日。
少年は、久方ぶりに悪夢を見ずして目を覚ました。それにしても、よく寝たな――最近とんと訪れなくなった安眠を終え、少年は心地よさそうに目を細めた。さすがは寝心地を売りにしている宿屋だけある。なんでも新式のマットレスを導入したとかなんとかで、最近夢身が悪い京はダメ元でこの宿に泊まってみたのだ。まったく悪夢を見なくなったわけではなかったが、寝床の環境がいいとやはり安らかに寝られることが多いらしい。
宿屋には、とりあえず五日分の宿泊費を入れてある。家を飛び出してからそう間もない彼にとって、準備や金銭を手に入れるのが現在の最優先事項であり、同時にこの町に来た目的でもあった。
さて、何をおいても、とりあえずは金だな――後先を考えずに飛び出したせいで、現在の手持ちは二万円ちょっと。数日間は保つだろうが、収入もないままではすぐに底を尽きてしまうことは想像に難くない。とりあえず、アルバイトだかなんだかをして、ある程度の金を得ておかないと、動くに動けないだろう。何をどう動くのか分からないが、この現代社会では金がなければ何も出来ない。
しかし、普通のアルバイトでは給料が出るまで金が保たない。安定した寝床もない状態で、一ヶ月を乗り切るなど不可能だろう。となると、登録制などの日雇いバイトに限られる。
「……あれ?」
だが、出発しようと思ったとき、京は不審げに眉を寄せた。寝床の環境がよくなったら悪夢を見にくくなったって……俺、確かここで寝たの昨日が初めてじゃなかったか?
不審を覚えて考えてみると、さらにおかしなことに思い至った。
登録制のバイトに行こうと思ったところはいい。だが、心のどこかで、そのバイト先を知っているような気もするのだ。よくよく注意しないと分からない、小さな違和感と小さな感覚。形を持たない不安を振り払うかのように、京は一人頭を抱える。なんだ。一体これは、なんの知識だ。
ベッドに腰掛け、寝起きの頭をフル活動させて考える。いつだ。いつ、一体どこでだ。あるはずのない記憶を求め、京は抱えた頭に爪を立てる。考えろ、考えろ。このバイト先を知ったのは――
(……三日前……?)
いや馬鹿な、三日前はこの町に到着さえしていなかった。求人雑誌を広げたはずも、買ったはずもない。バイト先の面接光景を、明確に思い出せるはずがない。
――面接?
(……一昨日の昼前!?)
信じられない記憶の内容に、京は顔を跳ね上げる。この記憶は、冗談か酔狂か。それとも、ついに脳みそがいかれたか。面接をしたのは一昨日で、三日前にもやっていた記憶がある。いやしかし、一昨日は既に初仕事で――
「…………!?」
――ちょっと待て。俺はこの三日間、一体何をしていたんだ!?
「く、ぅっ……」
考えてみれば、何かがおかしい。そういえば昨日昼前に休憩を取ったとき、神社の境内で少女と会った。初対面のはずなのに、あの時自分は少女とどこかで会ったような錯覚を覚えたのだ。知人と似ていたのかと気楽に考えてそのまま流してしまったが……なんのことはない、自分はあの少女と会っていたのだ。
ということは……
「……この三日間が、繰り返されている?」
普段なら、そんな馬鹿なと笑い飛ばしたことだろう。だが今回は、それが冗談だと否定することは出来なかった。
あるはずのない、とても三日間のものとは思えない、矛盾した記憶。三日前の朝、起きて立ち食いそば屋とコンビニに行った――それもどちらも、真っ先に。いや確か、そもそもこの町にたどり着いてさえいなかったのだ。
と、なれば――
「……そういう、ことだよな……」
デジタル式腕時計の日付を見ると、今日の日付は二十六日。昨日の日付は――
そう。二十八日だ。
「…………」
京はひとまず、紙を取り出す。机に座って、三日間なにをしていたのかの記憶を、片っ端から引きずり出す。記憶を整理すると、この町で過ごしたのは――
「……半月かよ……」
十、五日。
「こいつはいよいよ、絶望的だな……」
自分は五回、繰り返しの日常を過ごしてきたということか。いや、記憶が途切れている所もあるから、実際はもっと多いかもしれない。薄気味の悪さに粟が立ったが、京はそれを振り払った。代わりに、脳裏に一人の少女を思い浮かべる。
とりあえず、彼女と会ってみよう。もしかしたら、何か知っているかもしれない。
問題の神社にたどり着き、京はあたりを見渡した。鳥居、石畳、手洗い場、賽銭箱と、いたって普通の神社である。適当な場所に陣取って、例の娘さんを待ち受けた。
いつもならとっくに面接か何かに行っているはずだが、どうせ繰り返してしまうのでは意味がない。金だの道具だのを持ち越せればいいのだが、残念ながらそうもいかない。
買ってきた缶コーヒーを飲みながら、京は足を揉んでいく。元々引越し用のトラックで来た場所だった上に単なる休憩場所としか考えていなかったので、彼はここの神社名すら把握していなかった。おかげで散々に道に迷い、距離もそれなりに離れていたこともあってか、辿り着くまでに一時間半ほどを要してしまったのだ。何が悲しくて金欠の朝に一時間半もウォーキングを楽しまなければならないのだ。
地味に疲労した足を揉みながら徒然なりとこの繰り返しを考えること一時間、少女は姿を現した。
肩までの髪に鈴飾り。巫女装束に身を包み、ご丁寧に竹箒まで持っていた。視線を逸らさずに少女のことを見続けていると、少女も京に気がついた。
「……どこかで、お会いしましたか?」
投げられるのは、二日後にして昨日、会ったときも投げられた言葉。とりあえずは記憶を辿り、京は愛想笑いを浮かべて返す。
「ああ、すいません。多分、初対面だと思います。私もそんな気はしたのですが――多分、知人かなんかと似ていたのかもしれませんね」
それだけ言って、京は前方に視線を向ける。そこにはやはり、昨日見た光景が広がっていた。確かこの後、少女は……
「――いい景色ですよね。穏やかで」
「え……」
そう。そんなことを言ったのだ。先手を打つように言ってしまうと、少女の言葉が少し止まる。小さな鈴の音がして、少女が近くにやってきたのが分かった。
だが、次の言葉は、京には言えない。言葉としては覚えている。だがどうしても、彼の口からは言えなかった。
しばしの間、沈黙が流れて――それを破ったのは、少女のほうだった。
「こうやって見ていると、時間なんて流れていないんじゃないかと思いますよね」
「……ええ」
やはり、その問いはまだ、胸が痛む。少しだけ眉を顰める京に、少女は言葉を続けてきた。
「でも、流れているんですよね」
「でしょうね。そう見えているだけで」
「じゃあ、もしもですよ? もしも時間がここだけ流れていないとしたら、貴方はどう思いますか?」
来た。こんな問いをぶつけてきたから、京は少女の下を訪れたのだ。
もちろん、全くの偶然ということもある。この神社が、こんな世界にかかわっている証拠もない。だが京は、どうしてもこんな繰り返す世界を、認めたくはなかったのだ。
ちょっとだけとはいえ、緊張する理由はなんとなく分かる。多分これに答えたら、彼はもう無関係なままではいられないからだろう。無関係でありたくないと思ったのに、無関係でなくなることに緊張するあたり、人の心理というのは面白い。
少女のほうに向き直り、京は問いに答えを出した。
「禅問答か何か……いや、違いましたか。確か、貴方の家のお寺にある、問いかけみたいなものでしたね」
「――――っ!?」
少女の目が、見開かれた。少し身を乗り出しぎみになって、京に質問を続けてくる。
「貴方、そのことをどこで知ったんですか?」
「どこでって……昨日の昼間、ここで」
「…………!」
少女の態度が、再び変わった。目を剥くって本当にあるんだ――妙な所に納得する京の前で、少女は最早詰め寄るように聞いてくる。
「貴方……もしかして『気付いて』いるんですか……?」
「なんのことでしょう?」
「とぼけないでください!」
京の言葉に、少女は叩きつけるように返した。だが京も手を出すと、少女の言葉を少しだけ遮る。もう察しはついているが、それでも確認はしたかったからだ。
「その前に、一つだけ教えてください。そのとき俺は、この格好はしていなかったはずです。どんな格好をしていたか、ご存知ですか?」
「引越し業者の、制服だったはずです……」
「……正解です。やっぱり質問は、そういうことでしたか」
質問とは当然、二回に渡って行われた時間云々の話である。少女は肯定の返事をすると、京に最後の確認をした。
「しつこいようですが、お聞きします。貴方、この状況に気付いていますね?」
「『繰り返し』のことでよろしいですか?」
「その通りです」
少女は、やや苦い顔をして頷く。気付いていますと返す京に、少女はこう聞いてくる。
「……貴方」
「なんですか?」
「この後、お時間はありますか?」
「ええ、おかげさまで」
何に向けた皮肉なのかまで正確に理解したのか、少女は小さく苦笑した。その後、少々改まった表情を作り、京を中へと促してくる。
「よろしければ、お上がりください。粗茶程度ですが、お出しいたします」
案内されたのは、神社に隣接する離れだった。横に広い造りになっており、中は生活スペースのようだ。家具こそ和風で統一されてはいるものの、エアコンと空気清浄機も設置されているあたり神社といえど生活場であることを思わせる。
脚の短い机に案内させられ、少女に進められるままに座布団に腰掛ける。少女は対面に座って茶を入れると、京の前に差し出してきた。いただきます、と頭を下げて京はそのお茶を一口飲む。さほど高級な品でもないのだろうが、なかなか美味なお茶だった。小さな音を立てて湯飲みを机に戻すと同時、少女が口を開いてくる。
「初めに名乗っておきましょう。私は、神楽川奈央と申します」
「……京。廉崎京」
「廉崎? 廉崎って、あの廉崎ですか?」
「他にどの廉崎がいるっていうんですか」
眉を顰めて聞き返す少女に、京は軽い口調で言い返す。しかしその軽い口調は、少女の問いに肯定の意味を返していた。一方の京も、少女の名字には聞き覚えがある。
(――神楽川、か)
戦闘能力に関しては、決して高い家柄ではない。戦いという場面では、せいぜい後方支援が関の山だ。だがしかし、地脈の乱れを直したり封印を護持したりといった力に関しては非常に優れた能力を発揮する、まさしく縁の下の力持ちという表現がぴったり当てはまる家だった。
「それでは、早速本題に入らせていただいてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
ここで場を和ませるべく「よろしくありません」とか抜かしてもよかったのだが、それだと場を和ませる前に話の腰をへし折るどころか粉々に砕いてしまいかねない。賢明な判断を下す京の前で、少女が一つ確認してきた。
「ですが、その前にです。実際の所、京さんはどこまで知っているのですか?」
「それが、正直何も。この三日間ぐらいが繰り返されている、そのぐらいしか分かりませんね。そもそも気付いたのが今朝の話ですし、残念ながら力になれそうにはないです」
「そうですか……」
「何か分かってりゃ、とっくに行動を起こしてますよ。気付いたのが今朝で、そういえば何か含みのあるようなことを奈央さんが言っていたなーなんて思い至ったから、確認に来た程度のレベルの話ですから」
日本に限らず、世界全土における退魔師はごく限られた一部の家にしか存在しない。そのため、必然的に親戚付き合いは盛んになり(血を色濃く残すため、近親婚さえももはや暗黙の了解である)、結果として同じ名字の人も知り合いにたくさんいるわけである。名字で呼んでは非常にややこしいため、術者は同じ退魔師の人を名字ではなく名前で呼ぶ風習があった。京と奈央が互いに相手を最初からファーストネームで呼んだのも、この辺りの意味合いがある。
「どうして知ったのか、お伺いしてもよろしいですか?」
「……朝起きて、アルバイトを探そうと思ったんですよ。ですが、そのアルバイト先をどうしてか知っているような気がしましてね。なんというか、妙な違和感を覚えたんですよ。そこから考えて気付いたんです。ただ、すごく小さな違和感からだったので、事実上偶然かもしれませんけどね」
嘘はついていない。現に彼がアルバイトの情報を知っていたような気がしたことに疑問を覚えたのは事実だし、そこから掘り下げたのも事実である。ただし、その?とっかかり″だけは、アルバイトの知識云々ではなかった。そしてもちろん、そのとっかかりがなければいくらアルバイトの情報を知っていたような気がしたって気づくことはなかっただろう。あれはそのくらい、小さな違和感だったのだ。理論的に考えればおかしいような気もするが、あれは理屈云々ではなかった。
「そういう奈央さんが気付いたのは、やっぱり地脈関係か何かで?」
「そうですね。地脈もそうですし、空間も歪んでいます」
「空間」
「ええ。大体二十キロメートル四方に渡って、妙な歪みがあるんです。ほとんど綺麗な円形をしているので、多分その範囲が三日間を繰り返している部分じゃないかと」
「なるほどねぇ……」
少女の説明を頭の中で整理しながら、京はもう一口茶をすする。奈央はそこまで説明を終えると、改めて京へと向き直った。
「そこで、です。この町に住む術者として、この事態を放置しておくわけには行きません。……京さん。どうか、お力を貸していただけませんか」
「なんで俺が」
「一人よりも二人のほうが幅は広がりますし、単純に戦闘能力を例にとっても私は突出したものを持ってはいません。それに貴方は、繰り返しに気付けました。しかも、ほとんど自力でです。それでは、ご不満ですか?」
「…………」
意地の悪いような質問にも、奈央はきっちりと答えてくる。そして、この事態の突破に協力するか否か――その答えを考えたとき、京の返事は一つだった。だがその理由は、単なる僻みなのかもしれない。だけど、それでも構わなかった。
「……分かりました。お手伝いしましょう」
自分が掴みそこなった、零れ落ちてしまった幸せを。歪んだ形で手に入れているのなら、たとえそれが自分に関係なかったとしても、崩してやりたくなったのだ。
もしかしたら、同属嫌悪ってやつなのかもしれないな――苦笑に近い表情を浮かべ、京は奈央に手を差し出す。
「それでは、改めまして――よろしくお願いいたしますよ、奈央さん」
「期待していますよ、京さん」
しっかりと一度握手を交わし、廉崎京は神楽川奈央と契約を結んだ。数秒経って握手を解き、もう一口茶を飲んで情報を集める。
「とは、いったものの、です」
「はい?」
「事態が事態なわけですけど、原因がさっぱり分からないんですが。実際に時間を繰り返させるなんて、聞いたことがありませんよ」
首をかしげる京に、奈央もそうですねえと同意する。まだ二十歳にもなってはいないとはいえ、京は出身の家でもそれなりに優秀な術者だった。さまざまな場所へと赴いて、大きな敵を倒したことも何度かあるが、時間を繰り返させるなどといったことをやらかした敵はさすがにない。
そもそも時間というものは、あらゆる次元において高位に置かれているものだ。炎や雷を操るのとは訳が違う。神話や伝承などにおいても、『時間』の高位存在は数えるほどしかいないのだ。
そのうちの一柱、最も有名なものに思いを馳せ、京は特に考えもなしに思いついたことを呟いた。
「しかし、なんたってそんなものが。クロノスでも呼び出しやがったか?」
「……出来るとお思いですか?」
「無理ですね」
奈央の言葉に、京も一も二もなく同意した。
クロノス――時間神クロノスは、ギリシャ神話等で時折見られる、その名の通り時間を神格化した神である。混沌を司る神・カオスから生まれたとか、あるいは元々原初神であるとかされる説もあり、いずれにせよその『格』は並のものではない。そんなものがたかだか人間ごときの召還に応じるわけもないだろうし、仮に応じたとしても、途方もない代償を要求されるはずである。そして、そんなものが召喚されれば、その時この町にいなかった京はともかく奈央が気付かないはずはないのだ。
「それに、今までの状況から考えてもクロノスはありえないでしょうね」
「と、おっしゃいますと?」
「下級妖魔が、時折見られるんですよ。見たことはありませんか?」
「…………あ」
そういえば、と、京はふと思い至った。『前回』の最終日――京は、妖気に憑かれて変異した動物とやり合っている。もしも本当にクロノスが召還されたのなら、妖魔が出てくるのはありえない。むしろ、この辺の妖気一帯が浄化されてしまっても何の不思議もないのである。
「そういえば、やりあったことがありましたね。ということは、妖魔なり悪魔なりの仕業って事ですか……」
「私はそう考えています。それに、二十キロ四方を封鎖する能力から考えれば、中級程度かと」
「まあ、中級程度というか上の下というべきか……」
相手の結界の広さを考え、奈央が敵の考察を述べた。京はそれに軽く修正を加えつつ、頭をかいてそうぼやく。
二十キロメートル四方の結界は、意味があるというよりは単純な能力と考えられる。大体この市全体を覆う形になっているらしいが、それは単なる偶然と考えるのが妥当だろう。例えばここが離れ小島とか人里離れた秘境とかだったらよく分かるが、雑踏多い都市部における便宜上の境界線に結界を張っても意味がない。もちろん、何か意味がある可能性もないわけではないが、現時点では単純に相手の力量がその程度だったと考えるのが妥当だった。
「まあ、大体了解しました。それで、これからの行動予定はどうしますか?」
大まかな情報を収集した京は、続いて現実的な問題へ移る。全く自分で考えていないのだが、今の京にとっては雲をつかむような話だ。現在入ってきた情報で推測することも出来なくはないが、それだったら京よりも何ループか前にこの繰り返しに気付いている奈央に聞いてみたほうが手っ取り早い。奈央もそれは分かったのか、そうですねと頷いて提案した。
「では、まずはここから東の時計塔へとご案内します」
「時計塔?」
「何か、どことなく違和感を覚えるのです。心当たりがないのなら、ひとまず来てみていただけますか」
「はあ、分かりました」
奈央に促され、京は茶を飲み干して腰を上げた。飲んだ湯飲みをとりあえず流しに置いたところで、奈央が声をかけてくる。
「ちょっとだけ、適当に待っていてください。着替えてきます」
「着替え? ……ああ」
確かに、この神社で業務をするならともかく、外に出るのに巫女服はない。奈央は少しだけ早足なのか、軽快な音をさせて遠ざかっていく。
しかし、適当に待っていろと言われても、勝手知ったる我が家でもないし、自由にくつろいで過ごせるほど気心の知れた他人の家でもない。むしろ彼らは初対面だ。
ふと見ると、隣に洗い物を乾かしておくラックがあった。いくつか皿が入っているが、スペースには十分余裕がある。京は水のコックを捻り、とりあえず湯飲みを洗うことにした。