一章


 
「うわああああああああっ!」

 がばっ、と布団を跳ね飛ばして、廉崎京(れんざききょうは目を覚ました。瞳孔は見開かれて口の中はからからに干からび、布団を掴んではあはあと荒い息をつく。

「くそっ、たれっ……!」

 また、あの夢か――京は頭を片手で抱え、そのまま爪を突き立てた。慣れないもんだな……たかだか数週間前の悲劇をそう簡単に忘れろなどということが土台無理な話なのだが、そうでも考えなきゃやってられない。

 外はうすぼんやりと明るくなり、宵闇の終わりを告げ始める。こんな中途半端な時間にあんな夢を見た後など寝られるわけもなく、京は水を飲んで立ち上がった。

 布団を畳み、軽く身支度を整える。その途中、京は左手を上向けた。軽く意識を集中すると、手の上に小さく冷気が集う。冷気は刃となって具現化し――京は、上向けた手を握り締めた。途端、氷の刃は跡形もなく消え果てる。

 目を細め、口元に小さな笑みを浮かべ――京は、身支度を完了させる。リュックサックを肩に担ぐと、京は外へと歩き出した。

 りん、と、小さな鈴の音がした。

 

 


 『廉崎』という名字は、一般の人から見ればそれほど大きな意味合いはない。どこにでもある、ごくごく普通の家庭の名字にも思われる。しかしその手の人から見れば、『廉崎』の字はある時は憧憬を持って、またある時は侮蔑を持って見られ続けてきた。

 百鬼夜行、という言葉がある。その名の通り、百鬼……つまるところ数多くの異形達が夜遅くにうろついている事象を言い、転じて悪人達が勝手気ままに振舞うことなんかも現すことがあるが、実際この世界には、そんな化け物は本当に数多く存在しているのである。

 科学技術の進歩により、日本は事実上の不夜城と化した。夜でも消えることなき光は国を照らし、魑魅魍魎(ちみもうりょうの類は姿を消したかに思われた。しかし、光があれば必ず影は存在し、光の届かぬ裏側から、それらは活動の場を求めて現れ出てくるのである。

 そんな化け物に対する力を持ったのが、古来より存在した退魔師の一族だった。古くは安倍晴明を祖とする、後の土御門の一族なんかも挙げられるが、廉崎もそんな退魔師の一族に数えられる。

 しかし、廉崎はさして歴史の深い家ではない。元々どこかの一族にいたらしいのだが、当時の古文書からは全ての資料がかき消されているのである。

 それもまた、無理はないといえるだろう。多くの退魔師一族は、己の持つ『技』を徹底的に昇華させる。日本では陰陽術なんかが代表的な代物だが、廉崎はそんな常識を真っ向から否定していたのだから。

 どんな相手が出てきても人々を守り、戦えるように――そんな理念の下、廉崎は陰陽術に仙道魔術、魔方陣、召還魔術、降霊魔術、その他もろもろありとあらゆる魔術体系を無節操に取り込んでいたのである。廉崎の歴史は百五十年ほど前から始まっており、推察するならかつてはまだどこかの一族の宗家なり分家なりであったようだが、おそらく文明開化か何かで西洋学問が流れ込むと同時、それも取り込み始めるにいたって勘当されたか破門されたかしたのかもしれない。つまるところ、伝統と歴史を重んじる家からすれば、なまじ強い力を持つために廉崎など目の上のこぶでしかないのだ。

 しかしその反面、廉崎は各魔術の長所を程よく取り入れることに成功し、知りうる退魔師の中でも屈指の実力を誇る家へとなっていった。特に柔軟性の面においては、最強といってもいいかもしれない。

 いずれにせよ、廉崎という家は退魔の一族の中でも非常に強い力を持ち、術者もそれに見合った様々な訓練や厳しい修行を積んでいる。その結果は対化け物戦においても遺憾なく発揮され、廉崎がただの面汚しではないことを知らしめているのだ。

 まあ、ようするに。

 とりあえず、ただの町の力仕事なんぞはお茶の子さいさいに出来ることには間違いないということである。

 

 


「おはようございます」

 引越し業者の制服に身を包み、京は主任に挨拶をした。主任はおうと片手を挙げ、京に気さくに話しかける。

「おはようさん。どうだ、昨日の疲れは取れたか」
「ええ、完全回復です」
「そうかそうか、それじゃあ今日もがんばってもらうぞ。君の力には期待しているからな、昨日以上の成果を待っている」
「かしこまりました」

 口元に笑みを浮かべる主任に対して、京も笑ってそう答える。単純な『力』もかなり重要であった廉崎にとって、この程度の仕事なんぞ片手で出来る。そう時給も悪くない力仕事は、今の彼にとっては非常にありがたい代物であった。対する主任側から見ても、並の人間二人分以上の働きをてきぱきとこなしてくれる京は、これまた非常にありがたい存在なのだろう。

 家の住人に挨拶を済ませ、まずは纏められたダンボールを外に運び出す。家の外には専用のトラックが待機しており、そこの荷台まで持っていけばいい。置いた荷物の整理及び配置は中にいるベテランさんがやってくれるので、京達新入りの仕事は運搬の単純作業のみだ。

「しかし、面倒くさいな、おい」

 それで金をもらっているのだから文句は本来言えないのだが、聞こえない程度に軽く漏らす。今日の引越し元は、小さな社宅の二階だった。エレベーターなんてない上に、やたらと階段も急である。大きなダンボールを持つと足元が見えない辺りが曲者で、うっかりバランスを崩してダンボールを落としでもしたら、その瞬間に大目玉は確定だろう。

 もうちょっと引越しに優しい構造にしろよと意味のない事をぼやきつつ、京はダンボールを運んでいく。それにしても急である。この階段に苦戦した人は、自分達の他にも――

「うおっ!?」

 ずるっ、と足が下にずり落ちた。変な力のかかった反対側の膝ががくんと歪み、咄嗟に京は反対側の足を踏み出してこらえようとする。しかし、その反対側の足も綺麗に踏み外してしまい――

「うおわああぁぁぁーっ!」

 ガラガラと豪快に崩れ落ちていった。

 

 


「廉崎、反対側持ってくれ」
「あ、かしこまりました」

 とりあえず損傷具合をチェックし、割れ物が入っていたことに戦慄し、住人に平身低頭して謝罪して主任さんから雷を落とされた後。

 ダンボール系統は全て外に運び出し、京達は食器棚やタンスなどの大きなものを数人がかりで片付けていた。まずは家具が扉にこすれた時などの無駄な損傷をなくすために緩衝材を巻き、大型家具の底を左右二人で持ち上げる。息を合わせてゆっくりと運んで行き、特に階段は注意して降りる。あまりもたもたやっていると怒られそうな気もするが、また落っことしてぶっ壊したなんて話になったら笑えない。足元と天井に交互に注意を払いつつ、京は主任さんと一緒に食器棚を外へと運び出した。

「これで最後ですかね」
「そうだね。念のためもう一度チェックするけど」
「あ、はい」

 トラックの荷台にどうにか乗せて、京は両方の二の腕を揉みながら主任さんに話しかけた。主任さんは大体同意した返事をすると、アパートの階段を登っていく。中では、一緒に仕事をしている人が既にチェックを完了させていた。何もありません、という報告を受けて、主任さんはよしと頷く。手近な所にあった風呂場だけさっと覗くと、じゃあ行こうかと号令を下した。

 りん、と、小さな鈴の音がした。

 

 


 片手にビニール袋をぶら下げて、京は神社の石畳に腰を下ろした。ある程度の高台だからか、それなりに町の風景が一望できる。そう遠くない所に海が見え、心地よい海風が髪を撫でた。気付かなかったが、どうやらここは港町らしい。

 引越し先は、神社のすぐ近くにある一軒家だった。場所を確認し、すぐに作業を開始できるようにスタンバイを終えると、京達は昼の休憩に入る。当然ながら家の鍵を持っているのは仕事を頼んできた依頼者達で、彼らは別の場所で昼食を取ってからここに来るため、作業は開始するに出来ないのだ。

 近くのコンビニで握り飯をいくつかと缶コーヒー、後は鳥のから揚げを買い、一人京は昼食を取る。春先の心地よい風が、彼の髪をくすぐった。

 ――りん、と、音がした。

「…………?」

 振り返ると、そこには一人の少女がいた。肩までの髪に小さな鈴飾りを一つつけ、左手には大きな竹箒。世間一般的に言う巫女装束に身を包んでいる。先の音は、この鈴が鳴った音らしい。

 少女は境内の隅っこまで歩くと、竹箒の先を地面につけた。どうやら、掃除をするらしい。雇われているのかこの家の子なのかは知らないが、なかなか絵になっていた。

 しばらくなんともなしにその少女を眺めていると、視線を感じたのか顔を上げる。闇夜を思わせるような黒い瞳が、京のことを見つめ返した。

 どこかで、会ったような気がする。その顔を正面から見たときの感想は、何故かそんなものだった。しかし、実際この町に来たことなどないし、少女に会ったこともない。そして、先の鈴の音。何の変哲もない普通の鈴のはずなのに、どうしてか聞き覚えのあるような気がして。見ず知らずの他人のはずなのに、どうしてか京は視線を向けずにはいられない何かを感じていた。

 だが。

「……どこかで、お会いしましたか?」

 そんなことを言ったのは、京ではなく少女のほうだった。となれば、彼女もそんなことを思ったということか。いや、単に自分の顔をじろじろ見続けてくる変な男を追い払いたかっただけなのかもしれない。

 でも、そういう言い方だったら変な奴なら調子に乗るぞ――そんなことを思いつつ、京はいいえと首を振った。

「ああ、すいません。多分、初対面だと思います。私もそんな気はしたのですが……多分、知人かなんかと似ていたのかもしれませんね」

 愛想笑いを浮かべると、京は前方に視線を戻す。あまり人の顔を見続けているのは失礼だ。再び景色を眺めながら、京はコーヒーを一口飲んだ。

「いい景色ですよね。穏やかで」

 と、先の少女が話しかけてきた。りん、と鳴った鈴の音からすると、どうやらすぐ近くに立っているらしい。そうですね、と答えを返し、もう一度後ろを振り返る。少女は京の斜め後ろに立ちながら、同じように景色を見つめていた。

「こうやって見ていると、時間なんて流れていないんじゃないかと思いますよね」
「……ええ」

 きりっと小さく胸が痛み、京は短い相槌を打つ。少しだけぶっきらぼうな口調になってしまったかもしれないが、少女は気に留めていないのか、さらに言葉を続けてきた。

「でも、流れているんですよね」
「でしょうね。そう見えているだけで」
「……じゃあ、もしもですよ? もしも時間がここだけ流れていないとしたら、貴方はどう思いますか?」
「時間が……?」

 唐突に出てきたそんな問いに、京は少しだけ眉根を寄せる。どんなに穏やかに見えていても、時間は流れ続けている。それが世の中の常識だ。言葉の意味が分からなくて、京は一口コーヒーを飲んだ。

「禅問答か何かですか?」
「……そうですね。家の神社に伝わっている、問いかけみたいなものだとでも思ってください」
「…………」

 不思議な少女の不思議な言葉に、思わず京は眉を顰めた。もしも時間が、ここだけ流れていないとしたら。自分は何度、そんなことを望んだだろうか。自分は何度、あんな平和な時の中で過ごしたいと思っただろうか。

「難しいですね……正直、私には答えられません」

 だが、もう、その願いは叶わない。零れ落ちてしまった幸せは、もう戻ってはこないのだ。

「ですが、完全に時が止まっているのなら、何も思うことは出来ないんじゃないですかね。自分だって、その時は止まっているんですから」
「そうですか……」

 少女の言葉には、どこか達観した響きがあった。自虐的な笑みを浮かべながら、京は少女に聞き返してみる。

「どうかしたんですか? まさかここは時が動いていない空間とか、そんな伝説でもあったりとか?」
「それこそ、まさかですよ。すみません、変なことを伺ったりして」
「いえいえ、なかなか面白い質問でした。人生哲学って代物を、少しは考えてみる気になりましたよ」

 最後の一口を放り込み、コーヒーの缶も空にする。残ったゴミはレジ袋に入れて縛りつつ、京は腕時計を見て立ち上がった。少女のほうを振り返って、一つ会釈して別れを告げる。

「すみませんね。そろそろ休憩が終わるもので、失礼します」
「あ、そうでしたか。引越し屋さんかなにかで?」
「ええ。まあ、この制服を見れば分かりますよね」

 軽い口調でそう言って、京は階段を下りていく。あまりのんびりは出来ないが、別段急ぐことでもない。レジ袋を手の中でもてあそびながら、京は仕事場へと足を進めた。

 りん、と、小さな鈴の音がした。

 

 


「すみません。こちら扇風機の箱だと思うんですけど、どちらに置けばいいですかね?」
「そうですね……ではとりあえず、寝室にお願いします」
「寝室とおっしゃいますと、二階のフローリングの?」
「ええ、そちらでお願いします」
「かしこまりました」

 真新しい新築の匂いがする家で、京たちはせわしなくあちこちを行き来していた。引越しの荷物が次々と玄関先に積まれて行き、その荷物を所定の位置まで運んでいくのが彼らの仕事だ。トラックと室内を行き来すると靴の脱ぎ履きなどに余計なタイムロスがあるため、中組と外組の二手に分かれる。京が受け持つのは家の中で、ダンボールに指定された位置と玄関先を行ったり来たりだ。ダンボールの上には『一階八畳間』だの『台所』だのといった場所が書かれたメモが貼り付けられており、そこに持っていきながら分からないところは家の人に聞いていく。

 父親と思しき人物が、母親や息子に自慢をしているのが見える。引越し前は小さなアパートだったから、一念発起でもしたのだろうか。もしもそうなら、自慢したくもなるだろう。そんな微笑ましい光景を見ながら、京たちは引越しを済ませていく。

「おう、廉崎。それ終わったら休憩入ろう」
「あ、はい、了解です」

 ダンボールを二つ積み重ね、それらをまとめて持っていく京に、主任さんが声をかけた。そんなに時間が経っているのだろうかと首をかしげつつ、京は慎重に階段を登る。場所は二階の奥の部屋。階段を登れば突き当たりだ。

「よっ、と」

 声を上げながらダンボールを下ろし、腕時計を見て時刻を確認。見てみれば、始めてから二時間半が経っていた。たしかに、休憩を挟む点としては妥当だろうか。

 とはいえ、まさか人の家の中でぐでーっとするわけにも行かないので、家族に挨拶だけして家を出る。するとそこには、主任さんたちが既に休憩に入っていた。

 近くの自動販売機で缶コーヒーを買い、ガードレールに腰を下ろす。主任さんは従業員の一人と仲がよいらしく、適当な雑談に花を咲かせている。プルタブを空け、京は中身を一口飲んだ。

 と、その時、一人の紳士が通りの向こう側からやってきた。上等のスーツに身を包み、それなりに気品というものも漂っている。なんとはなしに見つめていると、紳士は京達の方を向いた。

 小さく頭を下げてくるその紳士に、京も頭を下げ返す。紳士は失礼と一言言って京達の前を通り過ぎると、引越し先の家のインターフォンを鳴らした。先の父親と思しき男性が顔を出し、紳士を見て嬉しそうな声を上げる。

「おお、市長! お久しぶりです!」
「久しいな、藤村君。ちょっと時期をわきまえないかとも思ったが、祝いの言葉を贈りに来た」

 対する紳士も、その男性とは知り合いらしい。まだ片付いていないだろう家に挨拶に来るくらいだから、気心は知れた間柄なのだろう。

「すみませんね、引っ越したのが今日なもので、今業者の方にお手伝いしてもらっている所なんですよ。状況が状況なので、とても市長をお呼び出来る状態ではないのですが……」
「いや、構わんさ。何分、明日からは周囲の地区との会議等をはじめとして、さまざまな用事が入っていてな。しばらくの間休みが全然取れんのだ。私の市の中に新居を買ったと聞いて、いの一番にお祝いをしたくてな。こうして失礼を承知で来てしまった」
「いえいえ、そんな……」

 話を聞くに、紳士はこの地区の市長らしい。挨拶の一つでもするべきかと一瞬考えたが、別段京はこの場所に永住するわけでもない。まあ、いいか――そんなことを考えながら、来客のせいで少しだけ伸びた休憩を満喫することにするのだった。

 りん、と、小さな鈴の音がした。

 

 


 市長が帰って休憩も終わり、京達は残りのダンボールや大型家具も片付ける。ただの社宅のどこにこんなものがあったのか、気がついたら夜の七時になっていた。

 最後に残った冷蔵庫を設置して、見回りを済ませて仕事終了。家の人を呼んで印鑑を押してもらい、挨拶を済ませて撤収する。事務所に戻り、余ったダンボールを片付けたりしてから給料の清算を済ませると、もう時刻は九時だった。

 本日の上がりは一万二千円。残業代も含めれば、かなりいい料金が手に入った。もらった金を財布にしまうと、京は自分の宿へと足を向ける。

 いくら体力には自信があるとはいえ、さすがに少々疲れはある。明日も仕事だし、今日は豚肉でも食って疲労を取るかな――そんなことを考えながら細い路地をいくつか通って大通りへ出ようとした矢先、京の足はぴたっと止まった。

 ごくごく薄い、血の匂い。いや、血の匂いというよりは、むしろそれを狙い望む、殺意の匂い。一般人には見分けのつかないだろう、その道にいる者にしか分からない、鼻よりも感覚でかぎ分ける『それ』特有の匂いだった。

「……妖魔だと? こんなところにか?」

 足を止め、京は静かに体勢を変える。両足を肩幅に開き、右手をやや開いた構え。ぴりぴりと周囲に気を巡らし、殺意の出所を静かに探る。

 その発生源を探し当てるや否や、それはいきなり襲い掛かってきた。前方から二つ、後方から一つ。どうやら挟撃されたらしい。

 京は冷静にそれを観察し、身を捻って回避しざま、己の力を起動した。体内の力が脈動し、一瞬の後には開いた右手は握り締められている。そしてそこには、透き通るような一振りの長剣が握られていた。

 冷たい風が吹き、周囲の気温が少し下がったような錯覚を覚える。襲い掛かってきたそれは何かを感じたのか、呻くような声で吠え掛かった。

 そのまま飛び掛ってくる一匹目に動きを合わせ、開かれた口に右手を薙ぐ。すれ違うように一撃を見舞うと、そいつは口元から真っ二つに裂かれ、嫌な血飛沫を散らしながら地面に落ちた。踏み込みと同時に二匹目との距離を詰めた京は前蹴りを入れて怯ませざま、剣を唐竹割りの要領で真っ向から振り下ろして叩き斬る。二匹を一気に始末した京は、背中に感じる妙な風に横跳びに逃れた。一刹那の間を置いて先ほどまで京がいた位置を三匹目が駆け抜け、獲物を捕らえそこなったそいつは反転して狙いを定め直す。

「遅ぇ!」

 だが、向きを変えて再び迫ってくるまでの間は、京が反撃を仕掛けるまでには十分すぎる時間だった。上向けた左手の上に出来たのは、鋭い円盤状の氷の刃。相手の踏み込みにカウンター気味に円盤を投げつけ、勢い余ったそいつはバッサリと斬り裂かれて京の眼前に滑り落ちるように墜落した。京は油断なく辺りをうかがうが、もう何も出てこないことを悟ると、目の前に崩れてきた相手を観察する。その見た目は、いずれも非常に似通っていた。

「犬……? 妖気に憑かれた奴か」

 襲撃者の正体は、三匹の犬だった。しかし、目はぎらつく赤色に輝き、体色は闇に溶け込む黒。犬歯は通常のものよりも遥かに発達しているなど、もはや小動物としての愛らしさなど一欠片も残っていない。

「ということは、この辺にでっかい化け物が居るのか? ったく、勘弁してくれよ……」

 動物が妖気に取り憑かれ、魔物化してしまうことは決して珍しいことではない。しかし、これが三匹もまとめて出てきたとなれば、別の可能性を疑わざるを得ないのだ。

 というのも、妖気というのはそこらにほいほいあるものではなく、動物が取り憑かれるとしても、せいぜい大型妖魔が残した残り香などに運悪く当てられてしまうパターンがほとんどなのだ。当然、たかだか残り香程度に何匹も取り憑かせる力はなく、当てられたとしてもここまで凶暴化することはそうそうない。少なくとも、三匹まとめて現れるなどということは通常では考えられないことなのだ。

 通常で考えられないことであるなら、それは異常であるとみなしたほうが適切である。さらに今回は、殺気の匂いはともすれ血の匂いは非常に薄かった。となれば、相手はまだ人を襲ったことがないか、襲ってもせいぜい一人か二人。魔物化した動物が人を襲う頻度はあまり高くないとはいえ、あれではむしろ魔物化してから時間が全く経っていないと考えるのが妥当だろう。

 これらの要因から、順当に考えれば結論は一つ。妖気をばら撒く奴がすぐ近くにいるということだ。

 これは、面倒なことに巻き込まれそうな気がするなぁ――嫌な倦怠感を覚え、京は大きなため息を吐いた。

 しかし、この時……いや、数日前にして遥か前から、京はそれに巻き込まれていたのである。

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