十一話
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「さて……それじゃあ、全部話してもらうぞ」
薬草を依頼主に届けて、宿屋の男子部屋に戻ってきて、服や体についた返り血を処理した後。車座を作って、ゴーズが口火を切った。
俺は一応、ある程度のことは知っている。しかし、やはり本人の口から説明してもらったほうがいい。セナちゃんも特に隠すつもりはないらしく、一つ頷いて話を始めた。
「……バリガディス家がどういう商売をしているかは知ってるよね?」
「奴隷の売買、及びレンタル事業、だろ?」
最初の確認。有名な話なので、当然これは全員知っている。
「……十七年前。バリガディス家の奴隷二人が四十歳を超えた。片方は男で、片方は女。奴隷は四十歳を超えると、適当な相手と子供を二人作らなくちゃならない。何でか分かる?」
「……いつまでも働いてはいられないし、自分の代わりを作るため?」
男にしろ女にしろ、だんだん体力は下がってくる。朝から晩まで毎日のように延々と働かされる奴隷は、若いうちならいざ知らず、年老いてくるとその労働に体が耐えられなくなるのだろう。先に精神面がおかしくなりそうな気もするが、セナちゃんが頷いたところからすると、大体理由は合ってるらしい。
「うん。そこでたまたま異性同士だったその二人は、バリガディス家当主の命令により子供を二人作った。自分の代替物としてね。それで生まれた奴隷の片方がボク、セナだよ」
「そういうこと……」
「生まれたボクは、奴隷としての教育を徹底的に仕込まれた。手っ取り早く言えば絶対服従の精神だね。逆らうことは悪だと教えられたのはいつだったっけ?」
「…………」
「それから十六年……ボクは、奴隷の一人と化していた。レンタル料とか売値は知らないけどね。そりゃ働いたよ? 土木作業や死体処理、便所掃除、果ては男性客の性欲の処理まで命令されればありとあらゆる仕事をしたさ」
サラッと言われたその境遇に、絶句せざるを得ない。そりゃ、ネズミを触る程度のことに抵抗なんかないわけだ。一度聞いた俺でさえもそうなのだから、隣のゴーズの衝撃なんかは想像するに余りある。
「……ちょっと待って」
しかし、ミミィさんは――さすが貴族というべきか――そんなことは聞くに値しないという風だった。セナちゃんの身分を知ってから、口調から敬語が消えている。
「男性客の性欲の処理って、そんな命令本当にあるわけ?」
「……やっぱり、知らなかったんだ」
対するセナちゃんも、低い声でミミィさんに返した。おいおい、ただでさえミミィさんはゴーズと仲悪いんだから、これ以上亀裂を増やさないでくれよ。
頭の痛くなりそうな風景だったが、ミミィさんはある意味最もな質問をする。
「だって、下手をすると妊娠してしまうんじゃ……」
「墜ろせばいいのではないか?」
「知識が足りませんね」
ゴーズの言葉に、つん、といった感じでミミィさんは返す。いつもゴーズの方が正論を吐く(というか、コイツはほとんど正論しか吐かない)ので、大抵はミミィさんの方がやり込められることになってしまうのだが、たまにこうなると痛快らしい。ぶっちゃけ、気持ちはよく分かる。
「中絶を行う時、母体には半端でないほどの負荷がかかります。体力的な面から考えてもそう何度も出来るものではないですし、そんなことを繰り返しては実際子供を生むときに体が耐えられるとも思えません。避妊具自体は売ってはいますが、完全なものでもないんです」
中絶の現場を見たことはないが、なんでも膣を強引に開いて雷の魔法を流し込み、赤子を殺して強制的に流産させるとか何とかと聞く。魔力の調整がうまく行かなかったがために、赤子どころか母親まで命を落としてしまったケースも決して珍しくないという。
一方の避妊具は、海辺の町で見たことがある。一人旅をしていたし使う予定もなかったので、普通にスルーしていたのだが、あれは結構高かったはずだ。魚の浮き袋を改良した代物だそうであり、流通数も割合少ない。貴族にとっては大したものでもないのだろうが(貧乏人の僻みか?)、しかもそれを使ったとしても、効果は完全ではないらしい。セナちゃんも納得したらしく、ミミィさんに――冷たいくらいの無表情で――答えを返す。
「だから、手か口。どっちか」
「それでも、病気の心配はあるでしょう」
「そんな病気を持ってる人はそもそも命令なんかしないよ。仮にそういうのをうつしちゃったらその奴隷を買わなきゃいけないらしいから、不安ならやらないんじゃない。……それに、そういう命令があること自体、知らない貴族も居るんだし」
「セナちゃん」
「……だって」
あまりにも、露骨過ぎる棘だ。嗜めるようにそう言うが、セナちゃんは不満気な目を向けた。分からなくはない。貴族にそれだけ酷い目に遭わされてきたのに、その貴族が知らなかったなんてなれば、不満を抱くのも頷ける。
俺も別に奴隷制度に反対しているわけではないが、目の前の仲間が奴隷だったとなると、急に同情を覚えるのは何故だろう。
奴隷の人権が完全に無視されているのは最早突っ込まないとしても、その手の世界もうまく出来ているらしい。ため息をついた俺の前で、ゴーズが話を次に進めた。
「ともかく、それはいいとして……いや、よくないのだが話を戻すぞ。お前は何故、我々が知り合ったあの町に来た?」
「だんだんね、こんなのおかしいって思ってきたんだ。でも意見する権利なんてボクには無いから、隙を見て脱走してきたんだよ」
「攻撃魔術はどこで覚えた?」
「前に借りたお客さんが覚えさせたの。その人魔術学校の新米教師でね、どうやったら生徒に分かりやすく教えられるかボクを借りていろいろ教え方を試してたんだよ。今その人どうなってるかは知らないけど、いつしかボクも基礎的な魔術は覚えてたんだ」
「なるほどな……」
腕を組んで、ゴーズは頷く。こういった話を聞き出すとき、ゴーズは便利だ。その話をなんとはなしに聞きながら、俺は購入した地図を取り出す。
「じゃあ、ざっと話が分かった所で、現実的な問題へ進もう。ガレスは俺が殺したからいいとして、レイピッドの問題がある」
「そうだな。で、レイピッドも始末する気か?」
「馬鹿言え、貴族の連中相手に戦えるか。一個小隊でも持ってこられたらアウトだっつの」
「だろうな。となると、やはり早々に山越えということか」
「ああ。どっかのバカがバリガディスに喧嘩を売りやがったせいで、もうこの付近にはいられねえ。とっととこの町を後にして、トネール領へとおさらばだぜ」
「喧嘩売ったのは貴様だトウヤ」
ナイス突っ込み。この辺りをちゃんと拾ってくれるから、俺も安心してギャグを飛ばせる。
が。
「ごめんなさい……」
「いやいや」
その前でしょげてしまったセナちゃんは、もう少し通じて欲しいところだ。まあ、ジョークの選択が悪かったのかもしれないが。
「しかし幸運なことに、この山はバリガディス領とトネール領の境界線だ。つまり、この山さえ越えてしまえばバリガディスの領土からは抜け出せる。トネールがバリガディスと友好的だったらヤバかったが、そんな話も聞かないしな」
「ふむ……」
俺とて、無意味に特攻したわけではない。ちゃんと逃げ切れる自信があるから、ガレスに喧嘩を売ったのだ。こうまで場所がよくなければ、俺もセナちゃんを助けようとは……いや、やっぱりしたような気もする。
腕を組んでいたゴーズは、ふっと笑って切り返した。
「お前でも少しは頭使うんだな」
「人を本能で動く生き物みたいに言うな!!」
「冗談だ」
そんな冗談を真顔で言うなっつーの。
ともすれ、行動は決まった。正直ガレス戦で疲れているが、今日中に物資を整えて、明日は運び屋の依頼を受けて、とっととバリガディス領からおさらばするだけである。
……ああ、そうか。もう一つだけ、用件があったか。
「…………」
夕食後。いつもの通り、俺は屋上へと向かっていた。手にはコーヒー。ちょっとだけ緊張しているからか、少し手が震えていた。
「トウヤ君」
柵に体を預けて寄りかかり、夜風に身を晒すこと、数分。後を追いかけるように、セナちゃんがやってきた。何の事はない、俺が彼女を呼んだのだ。
「よっす。お疲れさん」
「うん、お疲れ様」
まあ、よくある挨拶といえば、よくある挨拶。畜生、自分からしたわけじゃないってのに、どうも緊張感で心臓が跳ねる。ミミィさんに告白する時はこんなものじゃなかったけど、やっぱ告白って慣れねえ。
とはいえ、うじうじ考えていても仕方が無い。勢いづけるように、コーヒーを一気飲み。酒じゃない辺りは健康的なのだろうか。どうでもいい事を考えつつ、持っていたコップを懐にしまう。後で、宿屋の人に返さなきゃならんのだ。使い捨てできるコップとか、都合のいいもんが開発されたりしてくれないものだろーか。
「さて、と」
前置き、一つ。
んじゃ、行くか。
「まあ、なんだ。呼んだのは、告白の話なんだけどな」
「……うん」
青い瞳が、こちらをまっすぐに見つめてくる。少し顔が赤いのは、方向性はともかくとして、やっぱり緊張気味なんだろう。
「言いたいことはあるんだけど、どっちだか分からない状態で前置き言ったって気が気じゃないと思うからさ。できれば結論から言いたかったんだけど、どうしても確認したいことがあるんだ」
告白の返事を盾に取り、こんなことを言うのは卑怯なのかもしれないけど。
どうにも俺は、セナちゃんに甘えてしまっている。
「……まあ、なんだ。俺がミミィさんに告白して、失敗して、んで、セナちゃんに告白されてさ。そのおかげで、割とすぐに精神的には楽になったわ。おかげさまで、次の日からはクリアな目線でセナちゃんもミミィさんも見ることが出来た」
「……うん」
「で、それから一日だ。地下水道の依頼を果たして、今日になって薬草取りに行ってみたら、セナちゃんの身分が発覚して、えらい騒ぎになって。なんか、何日も経った気がするわ」
「……うん」
「で……セナちゃんさ、俺なんぞに告白してくれたわけだけど。返事、ほったらかしてたろ」
「……うん」
同じ言葉しか、帰ってこない。
でもまあ、それでいい。
「んで今日さ。セナちゃんが連れ戻されそうになって、本気で嫌だと思ったんだわ。大事な大事な後輩だーなんて思ってたけど、そうもいかなかった」
「…………」
前置きは、ここまでだ。
「……セナちゃん」
「……うん」
「これでいてまだ、俺はミミィさんへの想いを捨てきれない部分があるんだ。だけど、さっさと忘れたいって気持ちもある。そんな、中途半端な奴なんだけど……それでも、いいのか?」
「…………」
はい、と。
セナちゃんの首が、縦に振られた。
「そっか。じゃあ、返事をするよ」
「……うん」
「……セナちゃん」
「その告白、受けさせてほしい。どうか……俺の彼女に、なってもらえないだろうか」
言った。
言ってやった。
彼女を失いたくないといったのは本当で、でも、まだミミィさんを振り払えない。セナちゃんを売ろうとしたくせに、それでも好きだとは何事だ。
告白を取り下げられてもおかしくないくらい、宙ぶらりんの返事。だってのに、セナちゃんはまっすぐ、こっちを見つめて――
「……ふぇ……」
「え」
その顔が、くしゃりと崩れた。
「……ふえぇ、ぇ……」
「うわっ、え、ちょっと!?」
ぼろぼろと、彼女の瞳から涙が零れて。気がつけば、セナちゃんに思い切り泣かれていた。小柄な体は、しっかりとこっちを抱き締めていて。その力が、痛いほど自分に伝わってくる。
「トウヤ君……トウヤ、くぅん……」
「あ、ああ」
「大好きっ、大好き、だよぉっ……」
「うん」
「ずっと、ずっと、トウヤ君のこと、好きだった。でも、トウヤ君、ミミィさんのこと、好きだって、ボク、ボク、奴隷だから、諦めなきゃ、いけないって、でも、毎日、苦しくてっ、苦しくてっ……」
「ごめん、セナちゃん」
あまり豊富じゃない語彙で、落ち着いていない頭で、一生懸命告げてくる。可愛らしくていじらしくて、とてもいい娘に好かれたんだろうと、今更ながらに思えてくる。
「……嫌だったら、振り払ってくれ」
けれど、泣いている女の子をどうにかする方法なんて、生憎と俺は持っちゃいない。少しだけ考えたけど、なんにも思いつかなくて。結局一言断りを入れて、俺は彼女の頭に手を伸ばした。
「ありがとな。好きに、なってくれて」
あまり手入れされていないからか、時折毛先もほつれている。ちゃんと、櫛くらいは買ってやろう。そっと頭を撫でてやると、セナちゃんは体を預けてきた。
女性は、他人に髪を触られるのは不快なのだと聞いたことがあるが……好きになった相手からなら、いいのかもしれない。
しばらく撫でていてやると、だんだんセナちゃんは落ち着いてくる。一言名前を呼んでやると、セナちゃんは顔を上げてきた。
夜空の下で分かる、赤い――いかにも「泣いてきましたよ」という目の赤さに内心でちょっと苦笑して。セナちゃんの顎に、手を軽く添えてやる。意味が分かったのだろう、セナちゃんはそっと目を閉じた。少しだけ突き出された唇に、俺は自分のそれを当てる。
奴隷の仕事の一つに、男性客の性欲の処理があったと聞いた。もしかしたら、何かトラウマがあるかもしれない――ちょっと迷いながらのキスだったが、その心配は不要だった。顔を離すと、幸せそうに微笑んでくれる。
「……えへへ」
顔を、ほんのりと朱に染めて。嬉しそうに、笑ってくれた。
「恋人。えへ、恋人。ボク、トウヤ君の、彼女なんだ」
「ああ」
「ふふ。ばか。トウヤ君の、ばか」
「なんでだよ」
いきなりの文句だが、その声はどこか嬉しそうだ。そんな彼女の声を聞いて、俺は再び、セナちゃんの頭を撫でてやる。
「せっかく、帰ろうと思ったのに。なのに、こんなに価値のない奴隷なんか、助けちゃって。あんな、危ないことして。ボクが、どれだけ心配したと思ってるんだよ」
「はいはい、反省してるよ。反省してるから、価値がないなんて、もう言うな。俺の後輩で、彼女で、十分すぎるほど価値はちゃんとあるんだよ」
「ばか。……大好き。大好きだよ」
「ああ、ありがとな」
頭を撫でると、こそばゆそうな声を出す。そういえばと、俺は一つ彼女に告げた。
「なあ、セナちゃん――」
「――ん」
名前を呼んだら、セナちゃんは俺の唇に、一本の指を当ててきた。思わず言葉を止めた俺に、セナちゃんはそっと囁いてくる。
「……セナって、呼んで?」
「……ああ」
彼女、だからか。セナちゃんの……セナの要望に応じるように、俺も対価を切り出した。
「だったらさ。俺のことも、一緒に呼び捨てにしてくれよ」
「え?」
「俺だけ呼び捨てで、そっちは君付けだったら、なんか、あれじゃん」
だから、呼び捨てにしてくれよ。続けると、セナはまた嬉しそうに笑って。
「じゃあ……トウヤ。……トウヤ」
どこか、遠慮がちに。呼び捨てに、してくれた。
「トウヤ、トウヤ」
「ふふ、なんだよ」
「トウヤぁ……」
頬擦りして、何度も名前を呼んでくれて。
思う存分、その呼び方を楽しんでくれた。
ああ、と、心に決める。
この娘を、絶対大事にしよう。この娘と一緒に、歩いていこう。
その決心は、とても自然に、心に落ちた。
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ねえ。
あれ、なんですか?
なに、やってるんですか?
部屋から出てきて、ちょっと屋上まで行こうかと思って、飲み物を買って屋上に行って。そしたら、目の前に、セナがいた。
私は、行方不明になった家族を探して旅をしています。この辺りにいるという手紙をもらったのが最後でしたから、私はこの地方を集中的に探さなければなりませんでした。
なのに、なのに。
あの薄らムカつく奴隷が逃げ出して、しかもトウヤさんは、優しいからかばってしまって。
あの貴族ににらまれてしまった今、この地方を探すことは出来ません。
あの女のせいで。
あの奴隷のせいで。
しかも、私も名乗ってしまったから、もしも私の家族がこの地方にいるのなら、家族にまで迷惑がかかってしまうことでしょう。
あの、女のせいで。
あの、汚い奴隷のせいで。
家族を探すことはもうできなくなって、しかもトウヤさんに横恋慕までしていて、いい加減に釘を刺してやろうかとも思ってやってきたのに!
ねえ、トウヤさん! 貴方まで、何をやっているんですか!?
あの汚い奴隷の体を、トウヤさんは抱きしめている。
しかも奴隷は体を伸ばして、耳元で何か囁いている。
やめてよ。
トウヤさんの耳が、腐っちゃうじゃない。
ねえ、なんで!?
なんでそこにいるのが私じゃなくて、あの薄汚い奴隷なの?
この前、つい二日前、好きだって告白してくれたじゃない!
ねえ、何で!?
どうしてよッ!?
奴隷はその汚い手で、トウヤさんの体を抱き返す。
首筋に埋めたあの頭を、今すぐ杖で粉砕してやりたい。
だけど、そんなことをしたら、トウヤさんの体まで汚い血とかで汚れちゃう。
「はあぁー……っ、ふぅーっ……」
深呼吸を、一つ。
奴隷、ごときが。
調子に、乗りやがって。
……殺す。
……殺してやる!!
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セナの身体が、名残惜しげに離れていく。しかし、ちょっと離れたところで、また強く抱きついてきた。
「トウヤぁ……」
ぐりぐりと胸に顔を押し付けて、照れた笑みで甘えてくる。頭をそっと撫でてやると、セナは再び甘えるような声を出した。
「えへへぇ……離れたくないよぅ……」
「…………」
やばい。溶ける。めっちゃ溶ける。理性が半分吹っ飛んで、俺はセナを抱き締めた。セナは小さく声を上げると、もう半分の理性に追い討ちをかける。
「ね。今晩、ずっと一緒にいてもいい?」
……この場で彼女を押し倒さなかった自分を正直褒めてやりたくなった。全然OKです。いや、マジで。
「そりゃ、全然構わないけど……どうやってよ?」
「えへへ。ボク、いっつも、お金使ってなかったんだよ。早く、旅に出たかったし」
そういえば、彼女は個人財産の三分の一を、共有財産に回してくれていた。あの時は普通にありがたいと思っていて、セナちゃんは何か欲しいものとかないのかーなんて聞いていたような記憶もあるが、彼女の欲しいものは、早くここから出たかったということだろう。しかも、残りはほとんど貯金していたらしい。
「宿屋の人に、話してくるね。今日一泊だけ、もう一部屋取れるように」
「お前……」
「そのくらいのお金なら、残ってるんだよ。今日の報酬、入れなくても」
「…………」
大した金銭感覚というか、貧乏人の性というか。そういえば俺も、ミミィさんと知り合う前は、結構残っていた記憶がある。ゴーズは個人財産まで砥石とかにつぎ込むので例外。
「でも、ね?」
「ん?」
「その、今日は、えっちは我慢してほしいかな。実はちょっと危ない日だし、体力使いすぎて、出発が遅れても、いやだしさ」
「ばか、身体目当てで付き合ったわけじゃねえっつの」
残りの理性を粉砕されかけ、俺は苦笑してごまかした。セナは嬉しそうに頷くと、またゆっくりと離れていく。
「それじゃあ、お部屋借りてくるね」
「おう」
それだけ言うと、セナはまるで月面でも跳ねるかのような軽快な足取りで駆け去っていく。あっという間に屋上から姿を消していってしまうけど、お前、そんなに思いっきり走ってると、転……
「――――ッ!?」
凄まじい、音がした。
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思いのほか、チャンスはすぐに訪れました。
怒り狂う心をどうにかしようとした途端、あの奴隷が満面の笑みで走ってきたのだ。
人に媚びながら生きなければならなかった者特有の、だらしのない下卑た笑み。こんなのと今まで一緒の部屋に泊まっていたのかと思うと、寒気が走る。トウヤさんも、この媚びた女に誘われて、いやいやながら応じていたに違いありません。
今からでも遅くありません。気絶させて、もう一回持ち主に……違う。そんな生易しいこと言ってちゃ駄目です。
逃げた奴隷など、この世に生きている価値などない。それに、トウヤさんを誑かした罪は大きい。
セナが階段に足をかける。
その罪、死んで償ってもらいましょうか――!
足音を出さないように慎重に、一撃で仕留められるように大胆に。
セナが、階段を降り始める。重心が宙に移動して――
「――――えっ?」
私は、奴隷の背中を、軽く強く、押してやった。
大きな大きな、音がした。
と。
「――セナッ!?」
やはり、その音は聞こえたのでしょうか。屋上から、トウヤさんが駆け込んできます。もちろん、音が聞こえるのも想定済み。そして、こう聞かれるのも想定済みです。
「ミミィさん! さっきの、見てたか!?」
「え、ええ。先ほど、セナさんが階段を踏み外して……」
「ええい……! だから危ねえって思ったんだ!」
あれ?
疑われるかと思ったのに、信じちゃうんですか?
あら、嬉しい。
それとも、無意識下でこの奴隷を重荷に思っていたということですか?
いえ、そうでしょうね。言わなくても、分かってますよ。
で、あるならば。
「とにかく、人を呼んできます!」
「あ、ああ、頼んだ!」
後は適当に時間を稼いで、手遅れになってから戻るだけですね。しかも幸運なことに、この階段には踊り場がないのです。つまり、あの女は半分ではなく、丸々一階分の高さを落っこちて行ったことになります。
見てみれば、セナはぴくりとも動きません。顔面から落下していきましたし、うまく行けば死んでくれます。仮にそうでなかったとしても、重傷は免れないでしょう。
あっははは、この私の恋人に奴隷の分際で手出ししたこと、地獄の底で後悔しなさい。